願わくばを願わねば


仕事で良い事があったのだろうか、えらく上機嫌で触れてくる零を下から眺める。行為自体には別段いつもと何変わりもない。慣れきって受け入れてしまっている自分も自分だが。
服の裾を緩く捲られ、手を差し入れられた瞬間、笑顔だった零の表情が揺れ動く。
「相良、お主…」
「何?」
「その、傷痕が…」
傷痕、という単語に身体を起こす。相良の腹部に傷痕となって生々しく残された生前の室町の記憶であり、自害するまで生きていた証。一生消える事は無く、背負い続けると思っていたその傷痕が、まるで元よりなかったかの様に消えていた。
「え…、」
確かに、そこにあった。恐る恐る手で触れてみても指先は肌を滑るだけ。本当に何もない。

あれだけはっきりと脳裏に刻まれていた前世の記憶が、少しずつ薄れていっている事は実感していた。人は声から忘れていくとどこかで聞いたとこはある。実際、名前を呼ばれていた筈の声ももう、どうしても思い出せない。
「相良…、大丈夫かえ?」
零の心配する表情と声色。呆然としたままの相良の頬に伸びてきた手が優しく触れる。その瞬間、相良の中にあった『何か』がぷつんと途切れる。じんわりと滲む視界、瞳からはぽろぽろと涙が流れ落ち、頬を伝いきれなかったそれは零の手を濡らす。どうしたらいいのか分からない、この感情の行き先が分からない。衝動的に動いた身体は零に抱き着いた。受け止めたものの、両腕を首元に回されその勢いも合わさって、零の身体は背中からベッドへとスプリングの音を鳴らせて沈んだ。

あまりに珍しい相良の態度に零自身も困惑していた。相良の昔話を聞いていたが、それでも自分には本当に分かりえることが出来ない相良の『何か』が変わった事は何となく理解出来ていた。
「っ、零。ごめん……」
謝罪は弱々しく、震えていた。肩口に顔を埋める相良の頭に手を起き、黒髪を優しく撫でる。耳元に聞こえてくるのは微かな嗚咽。決して一人にはさせない、落ち着くまでずっとこのまま受け止め続けよう。