02



ああ、まずい…どうしよう。

時刻は午前七時半。
場所は自宅の最寄り駅から高校前の駅を経由する電車内。

始業時間までは、まだ十分に余裕があるので遅刻を危惧しているわけではない。

空はどんよりと曇っており、さあさあと降る雨粒は、雨に濡れてしっとりとした町になおも水を注ぐ。

視線を手元に移せば、お気に入りの待ち受け画面の上にゲームアプリの通知が何件か届いていた。妙にそわそわとしていしまい、意味も無くスマホを開いては閉じる。

体育祭が終わり、二連休を経て今日から通常通りの学校生活が始まった。

体育祭は、会場や全国中継で視聴している人々を含め大いに盛り上がった。どの競技も白熱した展開に胸が熱くなるほど。参加した生徒全員が全力を尽くしたはず。

しかし、私は全くと言っていいほど、成果を残せなかった。一応これでもヒーロー科所属なのに、だ。

もともと、上昇思考をあまり持ち合わせていない性格で、ちょっと悔しいなぁ、と体育祭終了直後は肩を落としたけどあまり気にしなかった。否、気にしている場合ではなくなってしまったというか…。

今は、休日に起きたあの出来事のことと、その彼のことで頭がいっぱいである。

車内の電光板にたびたび現れる、優勝のメダルを口に咥えた鬼の形相の彼に「ヒッ」と恐怖に溢れた声が漏れた。




*




「なまえちゃん!」

おはよう、と朗らかな声が掛けられる。

大きな声に思わずビクッと肩が跳ねた。

始業時間より早く学校に着き、自分の席に座っていた私はスマホから目を離して、ちらりと声の主を見上げた。

「透ちゃんおはよう…」

そこには、ふわふわと浮いている女子制服。隣の席の葉隠透ちゃんだ。表情は見えないけれど、ルンルンと上機嫌で登校してきたみたい。

「今日学校来る時すごかったね!雄英体育祭効果なのかな!」

突如振られた話題に、私は首をかしげた。

…すごかったかな?

私はスマホをいじりながらいつも通り登校していた時のことを振り返る。

透ちゃんの言うことにいまいちピンと来なかったが、いつのまにか賑やかになっていた教室内でクラスメイトたちが盛り上がっていた話を思い出した。

「ああ、いろんな人に話しかけられたんだってね…!」
「そうそう!私もジロジロ見られてなんか恥ずかしかったよ〜!」
「そっかー」

透ちゃんも登校していた時のことを思い出したのか、てれてれっと効果音が聞こえそうなほど身体をくねくねさせている。

透ちゃんの向こう側でなんとも言えない表情をした尾白くんとも目が合い、なんとなく言いたいことは分かる、とお互い苦笑いした。

でもそうだ、今日は雄英体育祭後、登校初日。素晴らしい活躍を魅せた彼らを、いろんな人が会場やテレビ中継から観ていたんだ。

特に、成績上位だったヒーロー科のAクラスはそれは注目されるだろう。

とは言え、前にも言った通り私はみんなのように目立った場面はなかったので特に声を掛けられることもなかった。

気が気ではなかったので助かったような気もするけど…。

自分で考えておいて少し寂しくなってきてしまった…としんみり感じていると、いつのまにか後ろの方で盛り上がっていたクラスメイトの話に入っていた透ちゃん。

忙しないなぁ、と苦笑いしながら眉を下げて息をこぼす。

さてHRが始まるまで何して時間を潰そうか、と考えながら癖になった手つきでスマホの電源を入れる。

再び視線を下へ向けようとした時、教室のドアが静かに音を立てて開いた。

もう先生が来たのかな、と視線を上げると、ばちり、そんな音が聞こえた気がする。

不機嫌そうな赤と目が合った。

「!」

思わず咄嗟に目を逸らした。きっと不自然だったに違いない。

案の定、しかめっ面でやって来た爆豪くん。着崩した制服とその不良みたいな足取りでズカズカと教室へ入ってくる。

「はよー爆豪!」
「うるせぇクソ髪」

爆豪くんに気付いたクラスメイトの切島くんが彼の態度に臆する事なく声を掛けていた。不愉快そうな表情でぴしゃりと言い返されていたが。

ああ、ついにやって来た。やって来てしまった。

私が教室に着いた時、珍しく彼の姿がなく、もしかして今日来なかったりして…むしろ来ないで、なんて願ったのも空しく。

あの休日の出来事を彼が忘れているはずもない。

何か言われるのではないか、と不安が気持ちが胸の中でぐるぐると渦巻く。近づいてくる足音が自分の心臓の音と一緒に耳の中で響いて聞こえた。

手汗がじわりと浮き出た手をぎゅっと握りしめる。

ふと、顔を上げて彼を見てみれば、自分の席まで直行し鞄を置いて勉強道具を取り出していた。

なんだ…大丈夫だった、とホッとひと息つく。

「オイ」

しかし、安堵したのも束の間。地を這うような声に掛けられ心臓が飛び出そうになった。

じわりじわりと掛けられる圧迫感を背後から感じながら壊れたブリキの人形の様にゆっくりと後ろを振り返る。

そこには、先日と同じような冷たい目で私を見下ろしていた爆豪くん。

私は掠れそうになる声で慌てて返事をした。

「は、はい…!」
「授業終わったらちょっとツラ貸せ」

少しだけ開かれた口から、端的に話される。こうなるだろうと予想していたはずなのに思わず「えっ」と声をこぼしてしまった。

呆気にとられる私に有無を言わせず、爆豪くんはふらりとその場を立ち去る。

「おい、爆豪どこ行くんだ?」
「どこでもいいだろ、便所だ便所」

周りは、相変わらず体育祭の話で盛り上がっていて私たちに気付いてなかったみたい。

もう少しで始業時間なのに教室を出ようとする爆豪くんに上鳴くんが怪訝そうな顔をして声を掛けていた。それに律儀に答えた爆豪くん。

「腹でも壊したんかな?」と茶化す瀬呂くんの笑い声が一人唖然としている私の頭の中でくぐもって聞こえた。



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