※悲恋
身を焦がすような恋をしている。
手を伸ばせば触れてしまえそうなほどすぐ近くにあるようで、掴もうとすると目の前から消えてしまう。そんな叶わない恋を。
「……で、なに? また振られたわけ?」
「振られてないし〜。方向性が違っただけだし」
「バンドじゃないんだから。ほら、飲んで忘れなって」
月曜日の午後十時過ぎ。私がそう言うと、乙夜は思いきりビールを呷った。
「てか明日フリー? 勧めといてなんだけど、飲んでよかったの?」
「ん、めちゃくちゃ休み。朝まで宅飲みできる」
「流石乙夜さんですわ」
「そっちこそ良かったわけ? 明日仕事なんじゃないの?」
「普通に仕事ですけど」
「うわあ、社畜お疲れさん」
新しく開けた缶ビールを差し出されたので、同じように喉を潤すことにした。一気に飲み干した私を見て、乙夜は「いい飲みっぷりじゃん、やるう」と口角を上げた。
相変わらず整った顔をしている男だった。初めて会った日も、そう思ったことを今でも覚えている。アシンメトリーに濃いメッシュの入った髪色は一際人の目を引くけれど、そういう派手な色も様になっているほどに綺麗な顔立ちだ。
「……これで何人目なの?」
空になった缶をテーブルに置いて、私はゆっくりと口を開いた。平日の夜遅くからわざわざ宅飲みをしているのも、乙夜が付き合っていた彼女に振られたからだった。そして、こうして集まるのも1度や2度ではなかった。
「え、知らん。数えられないしもう。多分両足使っても足りないかも」
「高校の時でもう両手越えてるでしょ?」
「それはもちよゆー」
「……、ほんと変わらないねえ乙夜は」
目の前の男、乙夜影汰は有り体に言えば軟派な男であった。学外で出会うと隣を歩く女の子は毎回違っていたし、誰かと付き合ったかと思えばすぐに別れてまた新しい子と付き合っていたような、そんな男だ。
本人曰く「誰彼構わず」ではないらしいが、私から見ると性別が女なら全員彼の射程圏内に入っていると思う。そして、私がそこには入っていないということも。
それは私たちが出会った高校時代から、私が普通の社会人、乙夜がプロのサッカー選手になってからも変わることはなかった。
「……ね、覚えてる?」
「なにが?」
「初めて会った時。乙夜がビンタされてたやつ」
「なんでまだそんなん覚えてんの」
「衝撃的だったからねえ」
「思い出しただけでサガるからはよ忘れてよ」
「……忘れられるわけないよ」
そう、忘れられるわけがない。だって一目惚れだったのだから。頬に赤い紅葉を作って「見ちゃった?」と恥ずかしそうに笑うそんな姿に、どうしようもなく胸が高鳴っていた。こんな風になっているのは修羅場を見てしまったからではなくて、恋だということに気づくのは簡単だった。
乙夜の噂は耳にしていたし、一生関わることの無いだろう人間だと思っていたのに。話してみたら案外馬が合うもので、私は気づけば乙夜の友人の座に就いていた。乙夜といるのは楽しかったし、私たちはいい友人関係を築いていたと思う。けれど、私が望んでいたその先に進むことはなかった。いや、進めなかった、という方が正しいのかもしれない。
数え切れないほど、その女癖に呆れたり泣いたりした。友達にだって「別の男探しなよ」と言われた。新しい恋を始めてみようとしてみたこともある。それでも、私の心が求めているのはいつだって乙夜だった。
恋は理屈じゃないというけれど、その通りなんだろう。好きだから好き、それだけだ。普段は気だるげなくせにサッカーをしている時の真剣な表情も、私のどうでもいい話をちゃんと聞いてくれて一緒に笑ってくれるところも、ちょっと気分が落ち込んだ時は何も言わないで傍にいてくれるところも、全部が好きだった。乙夜じゃないとだめだった。
それでも、残酷な乙夜が選ぶ女は私じゃない。私はいつだって乙夜の1番近くにいる”女友達”でしかなくて、それ以上にはなれなかった。
「ね〜乙夜くんってあの子とはどういう関係の?」
「あの子ってどの子?」
「心当たり多すぎ〜。ほら、隣のクラスの大人しそうな……」
高校生活最後の春、乙夜と取り巻きの可愛い女の子たちがそう話しているのを聞いたことがある。ギリギリまでスカートを折って、怒られない程度に髪を巻いたその子たちが噂しているのはどう考えても私だった。
「あ〜ナマエちゃんね。一緒にいるとアガる親友みたいなもん」
「ふーん。ってことはライバルじゃないってこと?」
長いまつ毛にピンクベージュのアイシャドウを乗せた挑戦的な瞳が乙夜を見つめる。誰が見てもあの子が乙夜を狙っているのは明白だったし、制服も規定通りでヘアアレンジもメイクもしてない私じゃ太刀打ちできない事も分かりきっていた。
「ナマエちゃんはそういうんじゃないから」
だから、乙夜が彼女に応えるように笑みを浮かべながら、肩に手を乗せたことも分かりきっていた。
予想していたとはいえ、傷つかなかったといえば大嘘だ。なにも努力をしていないくせに、乙夜の友達という座に甘んじていた私は一丁前に涙を流した。ご飯も喉を通らなかった。地獄の底に落とされたような気分だった。
それからの私は、乙夜好みの女になれるように慣れない化粧を覚えてダイエットにも励んだ。乙夜は「イメチェン? 可愛い」だとか「新しい髪色めっちゃ似合う可愛い」とか褒めてくれたけれど、絶対に手を出してくれることはなかった。
どうして。どうして、私はあの子たちのようになれないんだろう。こんなに焦がれているのに。心を預けてくれなくてもいいから、せめて乙夜影汰の一晩をくれるだけでよかった。その骨ばった手で頬に、肩に触れてほしかった。
苦しい。せめて乙夜と友達じゃなかったら、その先へ踏み出すことができたのだろうか。いや、そうとも限らないのかもしれない。「恥ずいからあんまり見ないで」と乙夜が私に笑いかけたあの日から、私と乙夜影汰の道は寄り添いながらも決して交わることはなかったのだろう。
だからこそ、私は乙夜影汰の友達でいられたのだ。一番近くて一番遠い存在に。
「ナマエちゃんこそ、浮いた話ないわけ?」
「……ないよ、全然ない」
無理やり口角を上げながら答える。あったら今乙夜と宅飲みなんかしていない。明日後悔するって分かってるのに仕事を切り上げて帰ってきてない。嫌いな部屋の掃除もしてない。そんなこと想像もしてないんだろうな。だから適当なスウェットで会いに来れるんだろう。私がその下に隠されている肌に触れたいと、触れられたいという肉欲を孕んでいることも知らずに。
「もう俺たちいい歳なのにね」
「いい歳して遊んでる乙夜が言う?」
「それもそうだわ」
乙夜は寛ぐように、ぐっと両腕を上げて大きく伸びをした。
「あーあ。俺もナマエちゃんも独り身なっちゃったね」
「え、やだ、乙夜と一緒にしないでよ」
一緒にしないでほしい。心からの本音だった。
どうせまた1週間でもしたら新しい子の手を取って、私には絶対に囁かない甘い言葉を紡いでいるくせに。
乙夜以外からの愛を望んでいない私を、簡単に同じカテゴリーに入れないで欲しかった。
「ナマエちゃんひどーい」
「酷くない。……乙夜はどうせすぐ新しい彼女できるでしょ」
できなければいい、私以外の女が近づきませんように。そんな呪詛を込めながら吐いた言葉とは裏腹に、乙夜はわざとらしく拗ねたような表情を浮かべながら「それがさあ」と発した。
「ちょっとお休みするかもしんねーの」
「え、どういうこと?」
手に持っていたおつまみを落としそうになって、慌てて力を入れ直した。あの乙夜が? 女遊びを? 頭の中をはてなマークが埋め尽くす。
「これでも俺そこそこ有名なわけじゃん?」
「ん、まあ、うん。そうだね」
「高校からのファンもいるし」
「……うん、あの時は凄かったね」
乙夜が3年の冬頃、ブルーロックとかいう謎の施設に行っていたことを思い出す。県内外で既にサッカーが上手いことで有名だった乙夜が、更に知名度を上げたおかげで私は枕を濡らしまくったのだけれど。
「顔もまあそこそこ良いおかげで女性ファンもいんだけどさ」
「そこそこじゃない。ちゃんとかっこいい」
反射的にそう呟く。乙夜は誰よりもかっこいい、この世の中の人間の誰よりも。心からの本音に、乙夜は「あんがと」とふんわり笑った。穏やかな笑みだった。
私の言葉はきっと、1割も届いていない。乙夜はなんでもないように話を続ける。
「あんま女の子と遊んでたら、仕事にも影響出るから止めろって言われてさ。今更じゃんねー。あと、多分なんだけど来年海外に行くから週刊誌とかに載るようなことすんなって」
「……え、海外、行くの?」
「ん。確定じゃないけどねー」
さらりと言うけれど、私にとっては雷が落ちたような衝撃だった。海外って、海外だよね。来年海外に行くってことは、気軽に乙夜と会えなくなるということ?
「……海外行ったら、もう会えなくなる?」
死刑宣告を受ける直前のような気持ちで、乙夜に問いかける。か細い声だった。乙夜は面食らったようにぱちぱちと瞳を瞬かせた後に、形のいい唇をゆっくりと開いた。
「オフなったら多分帰ってくるんじゃない?」
「……」
「なに、ナマエちゃん俺と会えんくなるの寂しい?」
「……うん、そうだね。すごく、寂しい」
柔らかなミントグリーンと視線が重なる。一瞬の沈黙が場を支配した後に、乙夜はけらけらと笑った。
「ナマエちゃん、俺のことめちゃくちゃ好きじゃん」
そうだよ。乙夜のことが好きで好きでしょうがない女なんだよ。乙夜の考える意味じゃなくて、恋愛的な意味で愛してるんだよ。
いっそのこと、今言ってしまおうか。均衡を破ってみるのもいいかもしれない。そんな事を考えていた時だった。
「俺もナマエちゃんといるの好きだから、これからもよろしく」
ひゅ、と息が詰まるような感覚がした。『好き』の二文字に、どうしようもなく心が震えていた。これは私の求めているものじゃなくて、近いようで別物の何かだ。それでも、妙な焦燥感と多幸感に焼き尽くされていた。
本当に、残酷な男だ。どうしてそのたった一言で一喜一憂できる人間がいることを想像していないんだろう。目の前の女が、お前の全てに揺れ動かされていることを想像もしていないんだろう。馬鹿だ、本当に馬鹿だ。
頬に熱が集まるのを隠すように、私はもう一度缶ビールを一気に飲み干した。
「……うん、これからも、よろしくね」
何年先でも、何十年先だってよろしくしてやる。乙夜が友人としての私を望んでいるのなら。それに応えてやろう。
そうして誰もいなくなった後に、ずっと傍にいた私に気づけばいい。お前のことを一心に思い続けた私を。
私は私の幸せの為に戦える。それが例え地獄の底でだって。