記憶の中で笑っていてよ
―――ごめんね
その人は何時も涙を流していた。
何度も何度も謝って、なんで謝るのか聞いても、ただ泣くばかりで。床に蹲って嗚咽を零す。
同じよう疼くまって背中を撫でてやる。彼女はまた泣いた。それはそれは大きな涙の雫を、宝石のように綺麗な瞳をくしゃりと歪ませて、目の端から溢れんばかりに。
頬を伝って輪郭の端に留まっていたそれは、次第に珠となり、ぽたりと床に染みを作っていく。
涙を抑えようと両頬にあった手が、ゆっくりと私の方へ伸ばされた。明かりに照らされた青白い手が、折れてしまいそうな程に細い指が、首に触れる。その手を反射的に掴んだ。彼女の表情が見えない。それどころか視界がぼやけ始めて、意識が霞む。
『ごめんね』
微かに聞こえた何度もなく伝えられた謝罪の声。優しくも悲しそうな声音に、目頭が熱くなった気がして、目を閉じる。
ちりん。
『―――』
風鈴の音が耳に届いたその刹那、切実な声と共に、首に添えられていた手に、力が篭った。
・
・
・
そっと瞼を上げた。酷い夢見だ。特大の溜息を深く吐いて上体を起こす。夢見の悪さのせいかじっとりと汗をかいていた。後れ毛がピタリと頬に張り付いていて気持ちが悪い。
無意識に首に手が伸びる。触れたそこは夢だったはずなのに、まるで現実で起こっていたかのようにヒリヒリと痛んだ。
掛け布団にポタリと水滴が落ちる。1つ、2つ、水滴が音を立てて鳴り、布に染みを広げていく。ぼんやりとそれを眺て、ふと不思議に思って今度は頬に手を伸ばした。
生ぬるい何かに触れる。そして気付く。どうやら私は泣いているらしい。
濡れた指先を他人事のように見ていると、突如チャイムが家に鳴り響いた。
またチャイムが鳴る。ぼうっとしていたらしい。焦れたように聞こえた2度目のチャイムにはっと顔を上げる。
あ、涙を拭かないと・・・。
ごしごしと服の袖で強引に涙を拭う。涙で濡れた頬を隠さずに出てしまえば、相手を驚かせてしまうに違いない。
未だに覚醒していない意識を持ち上げるように立ち上がり、ぺたぺたと玄関へ向かう。その間に鍵穴から音がして、あぁ、と思う。
家の鍵を持っている人は限られている。家の住人である私はチャイムなど鳴らすことはない。あったとしても鍵を忘れてしまった時ぐらいだ。家主である養父もそれは同様だ。
だとするとあとは一人しかいない。唯一合鍵を渡している相手。合鍵があるのに、毎度チャイムを鳴らしてから、合鍵を使用する真面目なやつ。
玄関の扉が開いた。予想通りの相手に、おはよう、と声を掛ける。幼なじみである轟焦凍は、驚いたように少しだけ目を大きくさせて私を見つめた。
ほんの一瞬だけ瞬いて、起きてたのかと、後ろ手で扉を締める。ついさっきね。言葉を返して背を向ける。
「何度も電話した」
まじか。寝室に入り、布団のすぐ側に置いてあったスマホを手に取ると、スマホは音もなく震えていた。まさかと思って画面を付けると、スヌーズの文字が視界に飛び込む。
やらかした。盛大にやらかした。アラームをちゃんと設定していたのにマナーモードになってた。設定も全部消音になってる。全然気づかなかった。
着信履歴を見てみると、焦凍の言う通り何回か電話をしてくれていたみたいで、出られなかったそれは赤い文字で表示されていた。
「佐保」
びくりと肩が小さく震えた。錆び付いた機械人形のようにゆっくりと、恐る恐る後ろを振り向く。
しゃがんでいる私を、頭と肩を壁に凭れかけて立つ焦凍が見下ろしている。ただ壁にもたれ掛かっているだけなのに、絵になる姿だ。
発せられていた優しい声とは裏腹に、何処か私を非難するような視線で私を見つめてくる彼に、少しだけ困惑する。真意を探るようにじっとその瞳を見つめ返す。・・・なんか怒ってる?
ぱちりと、一度瞬く。状況をひとつひとつ噛み砕いて、ゆっくりと咀嚼するように。そしてひとつ、思い当たる答えに辿りついた。
「今何時・・・?」
「何時だと思う?」
「えー・・・、質問に質問で返すなんて・・・」
カーテンの隙間から洩れる日の光。耳を傾けると聞こえてくるのは雀の鳴き声。手には先程まで音が鳴らないまま震えていたスマホ。
画面をタップして開いて時間を確かめる。凝視して暫く、思考が固まった。
起きようとしていた時間は優に過ぎていたのだ。
なんで私気づかなった?!さっき焦凍からの電話を確かめるために、スヌーズを止めるために画面を開いたのに!その時に時間を確かめたはずなのに・・・!
開いた口が塞がらないとはまさにこのことである。
「固まってないで準備しろ。試験今日だろ」
「・・・本当にごめん。昨日ちょっと夜更かしをしてて・・・」
「言い訳はいいから、さっさと顔を洗ってこい。酷い面だぞ」
酷い言われ用だ。とくに最後の一言余計だぞ。顔が整ってる奴に言われたら普通に傷つくからな。
しかし不服な事ながら彼の言う通りなので、文句を飲み込んで頷いて立ち上がる。
幼なじみの無表情を一瞥してからぺたぺたと洗面所へ向かった。数秒、鏡を見て納得した。
・・・あぁ、なるほど。酷い面ってこれのことか。
鏡に映った私の頬には涙の痕がくっきりと残っていた。夢見の悪さも重なってか目も若干充血している。しかも腫れぼったい。隈も酷い。
焦凍は言葉が足りてないよね。幼なじみだからある程度の事は聞き流せるが、たまにカチンと来ることもあったりする。さっきのがそれだ。
今回焦凍は事実を端的に伝えただけ。確かにこれは酷い面だ。私も納得。間違っていない。が、焦凍の将来が心配だ。顔色の酷い私を心配したって、素直に言ってくれれば良いのに。
準備を終えてリビングへ戻ると、焦凍がソファに身を沈めてテレビを見ていた。
以前私の家は落ち着くと彼は言っていたが、この寛ぎようは私以上だ。自分の家みたいに寛いでいる。ちゃっかりお茶まで飲んでるし。
「めっちゃ寛いでるね」
「準備出来たのか?」
「うん。行って来るね。起こしに来てくれて助かった。ありがと」
「迎えは?」
「さすがにいらないよ」
「ん、じゃあ此処で待ってる」
「分かった。出かける時は合鍵使って戸締りしてね」
じゃあ、行って来ます。
背を向けて歩き出し、片耳で揺れる短冊型の先についた小さな風鈴の耳飾りを翻す。
靴を履いていると、焦凍が見送りに来てくれた。リビングで寛いだままでよかったのに。律儀な幼なじみですこと。
お礼も言えたし、伝えるべき事は伝えたはず。あ、もしかしてなんか忘れ物でもしてしまったのだろうか。
「佐保、絶対に合格しろよ」
「圧が凄い」
普段から無愛想で表情筋の硬い焦凍が分かり易いぐらいに拗ねたように眦を細めた。
珍しいものを見た。思わず笑みが零れる。
私が笑って更に気分を害したのか、眉根に皴が寄ったのが見えた。
するりと、骨ばった指先が私の頬を滑る。むにっと抗議するように摘まれてから、親指で頬を優しく撫でられた。
「合格出来るように頑張ってきます」
絶対に合格する。とは言い切れない自分が歯痒い。絶対、なんて言って置いて結果があれだったら格好がつかないし、万が一の事もある。確約出来ない約束はしたくない。
けれど合格したい気持ちは勿論あるし、それを願う焦凍の気持ちにはちゃんと応えたい。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
見送りの言葉にくすぐったくも背を押された私は、玄関扉の取手を掴んで、光差す方へ歩を進めた。
- 次">