カツカツとヒールの踵を鳴らして夜の閑静な住宅街を早足で歩く。時折鼻の奥がツンと刺激されて目頭が熱くなる時もあったけど、涙を流すまいと必死にそれを堪えた。
ここはまだ外だ。閑静な住宅街だからといっても、まだ時間は19時前。まばらだが私以外にも人はいて、同じ方向に歩いている人もいれば、すれ違う人もいる。私だけではないのだ。
そんな中良い歳をした女が涙を流してみろ。奇異の目で見られるに違いないし、そもそもみっともなさ過ぎて恥ずかしさで死ぬぞ、自分が。
心の中で自分自身に檄をとばしながら、早く、迅速に、早急に家に帰ろうと、大股で歩みを進める。
なけなしの理性をかき集めて、今すぐ泣きたい衝動を心を鬼にして沈めるのは、なかなかに精神が疲弊するものだった。
既にすり切れた精神はズタボロなのに、更に自分で追い討ちをかけている気がしてならないが、それ以外の涙を我慢する方法が、荒んだ気持ちに荒れ狂う私には到底思い浮かばない。
我慢しすぎて気持ち悪いわ、胸が苦しいわ、肩に力が入って体が重いわと散々だけど、泣きたくない。それだけのためにひた歩く。
ふと、先程の光景が脳裏を過ぎった。
自分の決意とは裏腹に、瞳には涙の薄い膜が張っていく。悔しくて、思わずぐっと唇を噛み締めた。振り払うように一度強く目を瞑る。
あれは、本当に偶然の出来事だった。
仕事が早く終わった私は、明日が遅番で昼からの出勤ということもあり、趣味に時間を費やそうと、仕事終わりに職場近くにあるレンタルショップへ立ち寄った。DVD鑑賞をするためだ。
しかしお目当てのDVDがなかったため、駅前のレンタルショップへはしごをした。そこそこ大きいレンタルショップだったけれど、借りられているらしく、そこにもお目当てのものはなかった。
うーん、すごく見たいやつなのに、困ったなあ。
普段ならここで諦めて大人しく家に帰る所だが、今朝から絶対に見ると心に決めていたからか、この日はどうしても諦めきれなかった。
家とは真反対の方向でちょっと遠回りになるけれど、2駅先にここよりも断然大きいレンタルショップがある。数もきっと多いはずだし、1つくらい借りられていないものが残っている筈だろう。それでなかったら素直に今回は諦めよ。
最後の希望を胸に、いつもなら面倒くさくて気が進まず、絶対に行かないはずのレンタルショップまで、私は足を伸ばした。
どちらの選択が正しかったのか。
きっとこの時、いつもみたいに諦めて家に帰っていれば、あんな光景を見ずに済んだと思う。知らないままでいることが出来た。
信じてた。だからこそ信じられなかった。目を疑った。
まさか一也が浮気をしているなんて、露ほども思わなかったのだ。
これから先に起こること。何も知らずに過ごしてきた私は、そうとは知らずに改札口を通って、スマホの案内を頼りに呑気に歩いていく。最短で行ける道を選んでいるのか、時折裏道らしき道を通ったりした。
日は沈んでいないとはいえ。陽の当たらない薄暗い裏道は少し怖い。早歩きでその道を歩いて出るとホテル街に出た。
蛍光灯や装飾で存在感を放つそれはビジホとかではなく、所謂ラブホが立ち並ぶ所だった。
うへえ・・・変な所に出た。早くこの場所から離れよ。そう思って踵を返した時だった。
スーツを来た仕事帰りであろう男女に、吸い込まれるようにして視線を向けた。
一也らしき人が腕に女性を絡ませて、楽しそうに談笑しながら歩いているのが見えたのだ。
え・・・、一也・・・?あれって一也だよね・・・?
目を凝らしてその姿を追う。見間違えるはずがない。けれどこの時ばかりはどうか見間違いであって欲しい。と切に願った。
心が、体が凍りつく。冷たくなった指先を必死に動かして、彼に電話を掛けた。彼かどうか確かめるためだ。
視界に映る彼がスマホをスーツのポケットから出した。着信相手を確認しているのか、暫くスマホを凝視していた。
ぶつりと耳にあてていたスマホからコール音が消える。次いで女性の案内の声が聞こえた。電話を掛けたタイミングからして、やはり一也で間違いない。
なんで、どうして。信じられない光景に、裏切られた事実に、目眩がした。
人は驚きすぎると声が出ない事があると、遠い昔、誰かからそんな話しを聞いた事があった。
まさしくそれだと、私は今更ながらに実感している。それを教えてくれた誰かに、伝えてあげたい。声が出なくなるだけじゃない。呼吸も上手く出来なくなるって。ううん、きっと息を吸うのも躊躇う余り、呼吸を止めてしまうんだって。だから苦しくなるんだって、そう伝えてあげたい。
仕事の疲れで重たいはずの瞼が、疲れなんて忘れたかのように限界まで開き、目の前の事実を取りこぼさないようにと見つめる。
見逃さないように瞳に焼き付けているはずなのに、視界には薄い膜が張っていき、段々と、しかし着実に世界がぼやけていく。ついには目尻に溜まっていた涙が零れ落ち、静かに頬を伝った。
それらを拭う事も出来ないくらい、目の前の光景から目を逸らせない。・・・否、逸らしたいのに、見たくないのに、逸らす事が出来ない。
胸が痛い。苦しい。息が出来ない。苦しい。痛い。気持ち悪い。
気付けば口を手で押さえていた。
宙ぶらりんになっていた片方の手の内にあるスマホが震える。
『今職場の人達と一緒にいて、これから飯食ってくるから、電話できないわ。ごめん』
仕事終わりに時間が合えば、家に着くまでの帰り道、電話をしながら帰るのが日課だった。
毎日ってわけじゃない。お互い働いているし、残業だってある。今みたいに職場の人達とご飯に行く事があれば、電話が出来ないときもある。勿論それは私も。
電話が出来ない日は寂しいけれど、仕方がないと思っているし、お互い社会人で忙しい身だからと割り切っている。だけど今日はそうじゃない。
2人は仲睦まじそうにホテルの中へ入って行った。
ーーー
ーーーー
ーーーーー
「ーーー・・・うそつき」
思わずそう吐いて捨てた。
先程の光景を思い出していたせいか、いつの間に足が止まっていたらしい。
ヤバい。今度こそほんとに泣きそう。駄目だ、我慢しろ。家までもうすぐだから。
涙が零れる前に袖で強引に拭う。
再び早足に歩き出すと、ふいにスマホが震えた。着信相手を確認する。次いで表示をタップして電話に出た。
耳朶に響く聞きなれた友人の声。『おう、お疲れ』って言われただけなのに。今日も一日お互いに仕事お疲れ様って意味のお疲れって分かっているのに。何故だろう。酷く安心した。
安心する余り、せっかく我慢していた涙が、簡単に決壊してぼろぼろと瞳の端から涙が溢れる。強張っていた緊張が一気に解けて、顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。
家に着くまで泣かないって、そう決めていたのに。
既にべしゃべしゃになっていた袖で涙を拭っていると、嗚咽が聞こえていたのか。少しだけ驚いたような、焦ったような、私を心配する声がスマホから聞こえた。
『・・・? ・・・泣いてんのか?』
「泣いてない」
『鼻声で言われても説得力ねーから。・・・どうしたんだよ』
「お酒飲も。めちゃくちゃ飲みたい気分」
『・・・・・・・・・・・・飲み屋?それとも宅飲み?』
あからさまに話を逸らした。電話口の向こうから溜息が聞こえる。諦めや呆れにも似た、深い溜息だった。
面倒を掛けて申し訳ないと思ってる。むしろこれから更に面倒を掛けてしまうのは、正直私の中では決定事項なので、会ったらちゃんとお礼を言って謝り倒したいとも本気で思っている。けど、今は駄目なんだ。何も言いたくない。
長い間を経てそう質問される。倉持は聡い。私の中で何かがあったのだと、気付いている。それも悪い方向に。
泣きながら電話している時点で何かあったことは、誰が見ても丸わかりだろうけど、きっと彼は、その原因を言わずとも勘付いているはずだ。だけど、今はまだ言えない。言う気になれない。それを言葉にする勇気が、私にはまだないのだ。
「・・・宅飲み」
倉持とはよく2人で飲んだりするけれど、2人きりでどちらかの家で飲むのはこれが初めてだ。一応彼氏がいる身だし、一也と倉持が高校からの友人だとしても、流石に2人きりの宅飲みはお互い避けていた。
だけどもうどうでも良い。いつもだったら居酒屋とかだけど、今日は外で飲む気分にはなれないし、そもそもこんな不安定な状態のまま外で飲むなんて、何かしらしでかしそうで不安だ。
きっと泣いてしまうに違いない。これは確信出来る。
だったら家で何も考えずに飲みたい。
宅飲みが決まったや否や、矢継ぎ早に明日仕事は?と聞かれて、明日は午後から仕事だと素直に伝える。
『俺がお前の家行く。酒も買って行くから、お前は真っ直ぐ家に帰って大人しく待ってろ』
特に異論もないので先程と同じように頷いた。
駅のホームにいたのか、電話口から案内放送が聞こえてきた。
ありがとう、じゃあまた後でね。そう言って電話を切ろうとした時、
『泣くと更にブスになるから、家まであと少しだけ耐えろよ』
じゃあ後でな。
言い逃げのようにそう言い捨てられ、呆気に取られた私は暫く耳にスマホを当てたまま呆けてしまった。
耳に当てていたスマホを正面に見据える。今のは倉持なりの気遣いの言葉なのだろうか・・・?
ブスと言われて普段なら腹が立つのに、何故だか今日は胸がじわりと温められる。言葉は刺々しいのに、心配や気遣いが含まれたそれに、ふっと思わず笑みが零れた。
もう遅いよ、倉持のせいで既に涙で顔がぐちゃぐちゃだよ。
乱暴に涙を拭って前を向く。家まであともう少し。もう少しだけ頑張ろう。そしたら優しい友人が私の愚痴に付き合ってくれるらしいから。
・・・・・・きっと急いで家に来てくれるんだろうな。
優しくも不器用な友人の姿を思い浮かべたら、なんだか少しだけ息がしやすくなった気がした。