苦いにび雲を纏う

 真新しい制服はノリがしっかりしていて少し硬い。後部座席で流れていく景色をぼんやりと眺めながら、慧は一つ溜息をこぼした。
 今は4月中旬。入学式から一週間ほど経ち、新しくできた友人や新しい環境での授業に慣れが出てくる時期である。しかし、慧の心情は窓の外と同じく花散らしの雨がしとしとと降っている。というのも、慧は季節外れのインフルエンザになり、本日初の登校なのである。

「不安ですか?」

 運転席からボディーガードも務める女性が言った。その表情はなんだか愉しげである。微笑ましい、というのかもしれない。

「今のお嬢様なら大丈夫ですよ」

 星詠 慧という少女は非常に強力な個性を持って生まれた。個性の名はサイコメトリー。触れたものの考えを読み取れる能力である。そしてその個性の底は未だしれない。
 慧の幼少期は壮絶なものだった。人の思考が読めてしまうため、触れ合いを極端に恐れぬくもりに飢えていた。やがて思考を読める対象は人から無機物にまで拡大した。おもちゃを持てば、以前遊んだ時の情景、両親が買った時の心情、商品棚に陳列する店員の気怠さ、おもちゃの製造過程、と頭の中に浮かぶ。幼い頭を多くの情報が占め、慧はパニックを起こすことも知恵熱を出すことも多かった。
 不憫に思った両親はヒーローにコスチュームや器具を製造している会社に、特殊な手袋の開発を依頼した。慧は手袋により一時平穏を取り戻す。しかし、慧の個性は更なる躍進を遂げ、読み取れる範囲が手に触れたものから、身体のどこかに触れたものになった。
 これにより慧はベッドのシーツなどからも情報を読み取ってしまうようになり、まともに休息をとれなくなってしまった。両親はそれぞれのツテを使ってヒーローに依頼したりして、少しでも慧が安らげるよう計らった。ヒーローは幼い慧に個性の使い方を教えた。
 個性の特性から周囲の人たちは思考を読まれるのを嫌い慧と微妙な距離に居たし、個性のコントロールが不十分であったため体調不良も多く、楽しい学校生活とは無縁な場所で育った慧である。

「さ、着きましたよ」
「…ありがとう」
「そんな着かなくて良かったのに、みたいな顔しないで下さいよ。お嬢様、いってらっしゃいませ」
「ん、いってきます」

 ボディーガードの女性がドアを開け、手を差し出す。少し不貞腐れた顔で白い手袋を着けた手を重ねる。車外に出ると花冷えの寒さが肌を突き刺す。ボディーガードから傘を受け取り、慧は校舎に向かって歩き出した。


 ガララ、と引き戸を開けた。ざわついていた教室はしんと静まり返る。自分の席がどこか尋ねようと近くにいた生徒を見遣る。一番ドアに近い席に座る男子からは理解の範疇を超えたものを感じ取ったため、その隣の席の尻尾の生えた男子に声をかけることにした。

「私の席、どこか知ってる?」
「あ、えっと。あそこだと思うよ。窓側の前から三番目…」
「…ありがとう」

 礼を言うのに間があったのは、自分の座席の前が見るからにガラの悪そうな男子だったからだ。慧は教えられた自分の席に着き、カバンから机に教科書などを移す。
 目の前に来たのは黒髪を一つに束ねた女子だった。

「わたくし八百万百と申します。学級委員で副委員長を務めておりますの。星詠さんは学校をお休みになっていましたから、不慣れなこともあると思います。何かあれば
わたくしにおっしゃってくださいね」
「私は星詠 慧。お気遣いありがとう。早速なんだけど昼休みにノートのコピーをとってもいい?」
「もちろんですわ!!今日ない科目のものは明日お持ちしますわ」
「ん、助かる」

 予鈴が鳴ったため、八百万との会話はここで打ち切られた。午前の授業を終え、八百万と蛙水に声を掛けられ一緒に昼食をとることになった。八百万は細身であるがたくさん食べるようで、重箱にお弁当がみっちり詰められていた。蛙水は家庭的な可愛らしいお弁当だった。
 慧も自分のお弁当を開ける。混ぜご飯に、焼鮭、卵焼き、ひじき煮、きんぴらと純和風なお料理だ。しかし所々焦げているのが気になる。星詠家は言ってしまうと裕福だ。ボディーガードもいるし、セキュリティのしっかりした邸宅に住んでいるし、多忙な両親に代わって家のことをしてくれるハウスキーパーがいる。ハウスキーパーの家守さんは長年星詠に勤めるベテランで、とてもお料理上手である。つまりこれは、

「母さんが作ったんだ…」
「素敵ね」
「うん。母さんが忙しい中無理してくれたんだ」
「まあ。とてもお優しいんですね」

 二人とも高校生活に出遅れた慧を勇気づけるために、母さんが苦手な料理を頑張ってくれたのだと分かってくれた。優しさが誇らしくてちょっぴりくすぐったい。食べ進めていると、警報が響いた。

「セキュリティ3ってなんのことかしら」
「校舎内に何者かが侵入したんですわ!」
「ん、あれ」

 慧は窓の外に、マスコミが校舎内になだれ込んでいる様子を指差す。

「マスコミみたいね」
「そのようですわね…。マスコミでしたら避難するより待機していた方が良さそうですわ」
「私は警察に通報する。二人は各教室に行って待機するよう説明してきて欲しい」

 二人はすぐに了承し、教室を出た。この騒ぎでは昼休みに職員室のコピー機を借りるのは難しそうである。慧はため息を一つこぼしてスマホを取り出す。
 慧が通報役を買って出たのには訳がある。慧の父は警察に勤めている。そして慧の個性は物から情報を読み取ることができる。つまり、犯人の残した凶器に、足跡に、被害者の遺体に触れることで捜査が進展するのである。過去のコールドケースですら、慧は解決に導いてきた。そのため慧には警察に顔が利くのである。

「はい、」
「星詠 慧です」

 警察のお偉いさんのプライベート回線すらも慧は登録してある。星詠 慧だと名乗れば、向こうで動揺が走るのが伝わる。

「雄英高校にマスコミが侵入してます。急ぎ応援をお願いします」
「かしこまりました。すぐに!!!」

 八百万と蛙水が戻るころには、パトカーのサイレンが鳴り響いており、マスコミの誘導がなされていた。騒ぎは鎮まりつつあった。

「ノート……」

 思わずぽつりとこぼしてしまった。慧は案外真面目な性格である。

「そうでしたわ!午後の授業にも差し支えてしまいます」
「騒ぎも収まりつつあるし、コピー機を借りるくらいなら大丈夫じゃないかしら」
「ご一緒しますわ」
「でも二人ともご飯が…」
「星詠ちゃんは職員室の場所分からないでしょう?それに人助けはヒーローの本分よ」

 蛙水に強く言い切られてしまい、三人で職員室に向かった。職員室にはエクトプラズムの分身体がいた。

「失礼します。ノートをコピーしたいのでコピー機をお借りして良いですか?」
「アア、イイゾ」

 足を踏み入れた瞬間に、違和感を覚える。

「……八百万さん、蛙水さん。案内してくれてありがとう。場所はもうわかったから、帰りは大丈夫。二人ともごはん途中だったし、食べてきて。私もすぐ戻るから」
「そうしましたら、わたくしたち先に戻っていますわね」
「うん。ありがとう」

 二人を笑顔で送り出す。ヒラヒラ振っていた手を、下ろすと同時に慧の顔つきは真剣なものに変わった。コツとエクトプラズムの義足が近づいた音がした。

「何カ アッタカ」
「職員室に違和感があります」
「……違和感トハ…?」
「分かりません。ですが、さっきのマスコミの侵入の件といい、気になります」

 慧が白い手袋を取ろうとするのをエクトプラズムは静止した。

「モウスグ昼休ミガ終ワル」
「そうですね。では、放課後に捜査協力させてください。それまで先生方以外は入室禁止でお願いします」
「ワカッタ。警察ニハ伝エテオコウ」

 慧は午後の授業を受けながら窓の外を眺める。マスコミの侵入、職員室の違和感。ただのマスコミが簡単に雄英バリアーを超えて侵入できるとは思わない。騒ぎが意図的なものだとしたら。その目的は…?
 そういえば、朝降っていた雨は上がっていた。