この終幕は置き去りのまま何もない




※2部6.5章トラオム読了済推奨。
ネタバレはあまりない(とは思います)が、一応前提知識として。
本編2部6.5章と7章の間の時間軸のイメージです。





僕は苗字名前が、苦手だ。
カルデアでの復帰後初めて苗字と任務を共にしたとき、僕は率直に、気味の悪いヤツだ、と思った。こいつの持つ圧倒的な光のような何かは確かに僕には眩しかったが、そういう話ではない。その光が一時たりとも翳らないことが、とてつもなく異様だった。いつ見ても苗字は明るく笑っていて、それがサーヴァントや周りの人間たちを惹きつけていることは事実なのだろうが、僕にはそれがどうしようもなく気味が悪く見えた。汎人類史の未来という理不尽な責任を背負っているはずなのにそれを微塵も感じさせない、朗らかな顔で綺麗に笑うのだ。

微小特異点の修復のため僕たちは、いつものように現地のサーヴァントたちを交えて任務に当たっていた。苗字は持ち前の明るさで次々とサーヴァントの信頼を得て、1日目の情報収集は滞りなく終了した。今夜は山地で野営を構え明日には特異点修復に向けて大きく動き始める。僕はマップと戦略を頭に叩き込み、一息ついてからテントの灯りを消した。


「……おい。何でまだ起きてる」
「いや〜なんか、眠れなくてさ」

いつもこんな感じだよ、などと笑って苗字が寒そうに顔の前で両手を擦り合わせた。こんなにも夜更けに、暗闇の中で、一人きりで、だ。キャンプの周りに張った魔獣避けの結界を念のため見回りに起きたのだが、まさか苗字とエンカウントするなんて誰が予想しただろう。サーヴァントでさえ見張りを除いた殆どが霊体化している時間。不安定で未知数な特異点という場所の、恐怖すら覚えるほどの暗い静寂の中で、苗字はひとり、テントの外にある丁度良い高さの岩にちょこんと座っているのだ。獣が来ないようにと、律儀に灯りのひとつもつけずに。

「こういう眠れないときはねー、いつも現地のサーヴァントとか、マシュたちとお喋りしたりするんだよ〜」
「はぁ?アンタは人間なんだからちゃんと寝ろよ……ていうか、じゃあ今はひとりで何してんだ」
「今日は良い感じに暇してる人捕まえらんなかったんだよねえ。ちょーショック!寝込む〜」
「軽いなオイ。僕はアンタがいるなんて思ってもみなかったから心臓が止まるかと思ったんだが……」
「そんで、運良く後から誰か来ないかなーって思いながら待ってみてたら、まさかのカドックでウケた」
「ウケないぞ……」

口調も表情も何もかもがいつも通りに明るいことが、この暗闇に佇んだ異常さを浮き彫りにしている。なんと気味の悪い光景だろう。しかし同時に、僕の中には少しの安堵が生まれていた。僕は苗字から2mほど離れた岩に腰掛けた。

「……アンタ、意外と人間っぽいとこもあるんだな」
「急に何?!ずっと人間でやらしてもらってますけど!」
「はぁ……仕方ないから僕も少し付き合ってやる」
「いや頼んでないわ!……あ。もしかしてカドック、私と喋りたいの〜?」
「……うるさいな」

普段誰にも素顔を見せないヤツが暗闇でひとりになりたがるとか、これほど人間らしいことがあるか。別に、苗字に興味が湧いたとかそういうわけじゃない。ただ単に、こんなになるまで苗字のことを見ないふりしたカルデアに恨みのひとつも漏らさないこいつが、どうしようもなく哀れに思えたのだ。
どれくらい経っただろうか。話し始めると意外に会話が弾むものだ。苗字の修復した7つの特異点の話やカルデアに来る前の故郷の話、それから僕の時計塔時代の話なんかを軽くしているうちに、夜はさらに更けていった。明日のことを考えれば一刻も早く眠るべきだと頭ではわかっていても、苗字を見ているとどうもそれを言い出す気にはなれかった。楽しそうに語る彼女が時折、ほんの一瞬だが顔に影を落とすのだ。普段の彼女には見たことのない、憂いを帯びたような表情。見間違いだと言われればそれまでだが、少なくとも僕には初めて見せる"翳り"だった。まるで、目の前に広がる深淵ではなく、その先にあるどこか遠くを見ているかのような。

「……帰りたい、のか?」

──故郷で過ごした日常に。
僕が不意に、話を遮って言葉を漏らしたものだから、苗字はきょとんとした顔でこちらを見た。

「ああ、いや帰りたいよな、そりゃ。なんでもない、忘れてくれ。……クリプターであった僕が言えたことじゃないな」
「…………帰りたいよ」

真っ直ぐな声だった。先刻までの気の抜けるような明るい声色とは違う。

「でも、帰れないの」
「白紙化……しているからな」
「ううん、そうじゃなくて。……もしも全部取り戻せたって、きっと帰れないよ、私は」

何を言っているんだ、と僕が眉を顰めると苗字が困ったように笑った。ふと、彼女の肩、腕、脚に巻かれた包帯や絆創膏が目に止まった。

「自分でわかっちゃうんだ。命をすり減らしてすり減らして、もう、あんまり残ってないことくらい」

僕は何も言えなかった。「わっごめんごめん、暗い話しちゃったね!そんなつもりじゃなかったんだけど」あまりに痛々しく笑うから、直視したくない、とさえ思った。今まで苗字が見せていた綺麗な笑顔はすべて、この不安に震える彼女を内包しながら、それでも前へ進もうとする気味の悪い責任感によって、みんなのためだけに創られたものだと知ってしまったのだ。キリエライトは、ダヴィンチは、カルデアは、このことをどこまでわかってやっているのだろう。僕が返す言葉を選べずにいることに気付いたのか、苗字が「もう、寝よっか」と言った。彼女がそっと、腕に巻かれた包帯を隠すように摩るのを見ないふりをして、僕は、ああ、と何の答えにもなってない返事をした。テントへ戻ろうと立ち上がると、苗字が僕へ振り返る。真っ直ぐに僕を見て何かを納得したように目を細め、「うん、やっぱり」と口を開いた。

「あのね、人類最後のマスターを一緒に背負ってくれる人が、カドックで良かった」
「……勘弁してくれ」

アンタと同じようになれだなんて、たまったもんじゃない。僕はひとつため息をついて、冷静に言葉を紡いだ。

「……悪いが、一応言っとく。僕はアンタと違ってそんな大層なものを担いでるつもりはない。この瞬間を生き延びるためだとか、そういう、正義感とは無縁な理由でマスターをやってる。人類の未来が僕にかかってるとか、そんな重苦しいことは考えたくもないからな」

冷たいが、これが事実だ。変な期待なんか持たれても困るし、世界のために平気で自分を犠牲にできてしまう苗字の姿には心底、共感などしたくないのだ。だというのに、彼女は傷つくどころか安堵のような表情を浮かべていた。

「そういうカドックだから、良かったって思ってんだよ」
「はあ?」

僕の発した疑問符に「おやすみー」とだけ返して、苗字はテントに戻って行った。何だというのだ。釈然としないまま、僕も自分のテントへと戻り、釈然としないまま寝袋に潜り込んだ。最後の言葉がどういう意味なのかは正直わからない。が、あいつとお近づきになるのはごめんだった。……今日は同情から苗字と交流したわけだが。仲良くなったというよりは、彼女に近寄らないべき理由が明確になった、という感じだ。内面を知ったことで、悪いヤツじゃないことはわかったし、案外人間らしいことも知った。しかし、明日からはその笑顔を見て、気味の悪さの代わりに哀れみを感じてしまうかもしれない。そのように笑え、そのように生きろと求められた、哀れな生け贄だ。……まあ、杞憂だと思いたいが、これを機に苗字の中で友だち意識が芽生えたりなんかして、僕に近づいてくるようなことがないと良いのだが。



心配事というのは大抵現実になる。そう、僕がご丁寧に作ってしまったフラグが、見事に回収されたのだ。

「あ!カドック、お昼食べた?」
「……まだだが」
「じゃ、食堂行こ行こ!今日の当番はキャットだってさっ」

先日の微小特異点は無事に修復し任務は遂行された、のだが。帰還してからというもの、苗字は何かと僕に話しかけてくるようになった。それどころかお昼やブリーフィングの合間、就寝前など、少しの暇さえあれば僕の元へとやってくる。……冗談じゃない。しかし断って波風を立てる方がよっぽど面倒なため、渋々付き合うのが大抵だった。僕は苗字を嫌っているわけではない。ただ、深く付き合うと碌な事にならないと分かっているだけだ。向こうから近寄ってくるものは仕方がない、深入りしないように気をつければいい。そうして今日も、苗字とキリエライトの他愛のない話に適当に相づちを打ちながら、トマトリゾットを頬張った。
オルテナウスのメンテナンスがあるとかでキリエライトが席を外した。お昼時をだいぶ過ぎた食堂は、無人とは言わないまでもそのほとんどが空席となっていた。

「……カドック、あのね」

ああ、まただ。こういう時の苗字を、僕はもうそういうものだと受け入れ始めていた。

「昨日のオーダーで、采配失敗しちゃってさぁ」

苗字は無理して笑うのを辞めた。あの日から、僕に対してだけ。キリエライトや他のサーヴァントがいないところで……正確には僕の前で、弱音を吐くようになった。

「キメラの攻撃を避けきれなくて、ほんとに左目なくなったかと思った。……怖かった」
「そりゃ、怖いだろ」
「……うん、本当に、怖かった。怖かったよ」

今にも泣き出しそうな、がらすのように濡れた大きな瞳が俯いた。

「でも、ギリギリのところでランスロットが弾いてくれたから間一髪。……あはは。こんなに闘ってきてるはずなのにまだ下手なの、ウケるよねぇ」
「ウケないな。何が悪いか分かっているのなら反省して次に活かすだけだろ」

彼女のことだから、きっと他のヤツの前では「怖い」だなんて一言も言わなかったのだろう。きっとみんなへ明るく謝って事態を上手に収めた後に、今も彼女の中でだけ執拗に自分を責め続けている。

「けど、」
「?」
「今回の場合は同行したサーヴァントも悪いな。おまえの采配が甘かったのも確かだが、それをカバーすることも可能な布陣だったはずだ。対応できなかったサーヴァントもおまえと同等かそれ以上の失態だと僕は思う」

彼女が欲しいのはこんな言葉ではないのだろうが、魔術師の先輩として、マスターとして、冷静に分析を述べる。つらかったよな可哀想に、などと寄り添ってやることは、僕のすることではないと思ったからだ。

「……うん、マスターとしてちゃんと反省する」
「おい」
「でも、ちょっと心が軽くなった。ありがとう。カドックに話聞いてもらって良かった。カドックは、私と同じだから」

ゆっくりと微笑んで、「ダヴィンチちゃんが呼んでる!もう行くね」と駆けて行った。その背中をぼうっと見送る。……僕は、どこかで何かを間違えたのだろうか。苗字に近寄りすぎないように気を付けていたつもりだった。寄り添わないことが僕にとっての最適解だと信じていたが、正直なところもう何が正解かわからなくなっている。一体、僕に何を求めているのか。どれだけ気持ちに寄り添わない返答をしても、苗字は僕に弱音を吐くことを辞めなかった。

『そういうカドックだから、良かったって思ってんだよ』

なぜだか、あの夜に聞いた彼女の声が頭の中でリフレインする。



明日、ついに南米に向かうことが決まった。デイビットと敵として対面することは確かに複雑な心境だが、寝返った以上は、カルデアの勝利のために尽力すると決めている。僕の心に迷いはなかった。
正午のブリーフィングを終えた後、何やら突如現れた微小特異点の修復だとかでカルデア全体がバタバタとしていたが、かなり影響の小さな特異点だったらしく、修復にはさほど手こずらずに苗字も夕方ごろ無事に帰還したと噂に聞いていた。そのため明日のオーダーに予定の変更はなく済んだそうだ。文字通り決戦前夜にまで闘わされるなんて可哀想なヤツだ。そんなことを思った、矢先の出来事だった。僕は明日に備えて早い時間から自室で就寝の身支度を整えていた。コンコン、覚えのないノック音が聞こえ、ドアを窺い見る。僕の元へ訪れる者なんて、医療スタッフやダヴィンチくらいなもので、しかも、それも先ほど済ませた。そうなれば、必然的に思い当たるのは一人だ。

「……勘弁してくれよ」

嫌な予感はしていたが、無視をするわけにもいかないので諦めてドアノブを回した。

「……あ、カドック、う、遅くに、ごめん……」
「!おまえ、それ……っ」

待ち構えていたのは、予感していたよりもずっとずっと最悪な展開だった。ぼろぼろと大粒の涙を溢しながらドアの前に立っている苗字は、身体中に、そして顔にまで大きなガーゼや包帯を巻いていて、うっすらと血の滲んだ白いそれらを、僕は直視できずに思わず目を見開いて立ち尽くしていた。

「……あー、とりあえず、入ってくれ、ここじゃ誰に何を誤解されるかわからない、からな……」

苗字は何も言わないままこくりと頷いて、部屋に入った。そして僕を通り越して、勝手にベッドにぽす、と座った。弱々しく泣いていたってマイペースなところは変わらないんだな、と思いながら人ひとり分くらい空けたその隣に僕も腰掛ける。

「……その、なんだ。大丈夫か?話くらいは聞く」
「困らして、ごめん」
「本当にな。困ってるぞ僕は」

僕がしばらく黙って待っていると、少し落ち着いたらしい彼女の涙は止まっていて、すんすんと鼻を啜りながら笑って見せた。

「あー、あはは。ほんと、ごめん。ようやくちょっと落ち着いた!カドックパイセンのおかげっす」
「……無理に明るくしなくていいぞ」
「……うん」

苗字は癖のように髪を耳にかけようとして、頬のガーゼに指が触れてしまった。それまで忘れていたその痛みを思い出したのか、また少し表情が強張ったように見えた。"かなり影響の小さな特異点"で"修復には手こずらず""無事に帰還"などと一体誰が、誰が言い出したのだろう。僕は腹の奥がグツ、と揺れた気がした。

「……急にね、明日が怖くなっちゃってさ。さっきの特異点で死にかけて、痛くて……そこでふと、ああ第七異聞帯に行くの、もう明日なんだなぁ、って思っちゃったの」
「……ああ」
「それで、急に身体が震え出して。どうしたらこの怖いのが落ち着くんだろーって考えてたら、……なんか、無性にカドックに会いたくなってさ。変だよねえ、こんな夜なのに、ごめん」
「別に、おまえが謝ることじゃないだろ」
「……私、こんな、ただの弱い人間なの」

カドックなら、わかってくれるでしょ?苗字は力なく笑う。ああ、わかっている。お前は誰よりも、ただの人間だ。

「……明日は予定変更なく決行だってな」
「らしいね。よかった」
「……」
「嘘だよ、何もよくないよ。痛いし……怖いよ」

彼女は俯いていた頭を起こし、ただ真っ直ぐと無機質な部屋の空白を見ている。何となく、僕も同じように部屋の方を見たまま耳を傾ける。

「私ねー、今までの人生、同い年の子がやってるようなこと、なんにも経験してきてないんだ。なんにも経験してないのに、このまま、死んじゃうんだよ」

僕は、何も言えない。死なないよ、なんて何の慰めにもならない嘘を吐くことも、できない。

「実はさ、ふふ、悪い子にもなってみたかった」
「……はあ?」
「ちょっとだけだよ?二十歳くらいになったら悪い子になって遊んだりして、その後少し大人になったらまた真面目に戻るの。大学生っぽくて良くない?」
「魔術師じゃない一般の人間じゃ、そういうヤツも多いらしいな……」
「でもこんな話、誰にもできなくってさ。サーヴァントたちはやっぱり英雄だから……現代を生きる私とは違う。どんなに親しくしてくれる英霊だって、根本的に私とは何もかもが違うんだ。新所長も、ムニエルさんも他のスタッフのみんなも、優しくて大人で、それで、マシュは私思いで、純粋で……」

こいつが僕に何を求めてるのかが、分かってしまった気がする。僕が寄り添おうが寄り添わまいが、関係なかったのかもしれない。僕が、ただの人間で、凡人の、マスターである限り。

「私ね、まだ成人してないの。成人式、出てみたかったー。あ、成人式っていうのはね!私の故郷にそういう催しがあって、ヨーロッパにもあるのかな?わかんないけど。二十歳になったら同じ地域の同級生たちが集まって、偉い人とかの話を聞いてお祝いするんだ。成人おめでとーって。振袖着ておめかししてさ!中高の頃の友達と久しぶりに会って、それで、育ててくれた親に感謝しながら、初めてお酒を飲むの」
「……おい、」
「それでね、煙草だって吸ってもいい歳になるから、えへへ、悪い子の私はちょっと吸うんだけど、少し大人になって、真面目になるからやめるの」
「頼むから、もうやめてくれ……」

前を見ていたはずなのに、気付いたら僕は苗字の横顔を見ていた。聞いているこっちがどうにかなりそうで、頭痛がする。変わらず真っ直ぐ前を見たまま淡々と話していた彼女が、僕の方に顔を向けて、そして、視線が交わった。

「でも、現実の私は、成人式も、お酒も煙草も経験せずに、死ぬの」
「……」
「汚れたことなんかないの。あは、私ってほら、人類の光だから?」

そんなに悲しそうな顔で笑わないでくれ。どうしたらいいか、わからなくなる。僕と苗字の間にあったひとり分の隙間は気づけばもう半分くらいになっていて、体の横に置いていた手に少し指先が触れている。僕が相槌を打つのを待たずに、彼女の唇が開いた。

「汚れたことがないのは、肺だけじゃないよ」

苗字は、触れていた僕の右手を取ってそのまま、自分の心臓のあるところ……左胸の、柔らかい部分に押し付けた。

「身体も、だよ」
「っ!!」

咄嗟に彼女の手を振り払って、身体を遠ざける。恋愛経験の多くない僕でも、苗字のこの行動がどんな意味を持っているのかくらいわかる。振り払われた苗字の手は行き場を失い、自分の胸の前で拳を握っていた。ああ、拒絶されたのだから当たり前だ、彼女はまた泣き出してしまいそうな顔で俯いた。

「そ、そんな顔するなよ……振り払って、悪かったよ……」
「違うの、ごめん。私だよ。私、今どうかしてる」
「ごめん、僕もそういうつもりじゃ……いや、違うな、そうじゃない。そうじゃないだろ。とにかく落ち着け苗字。……いや落ち着くべきなのは僕もだな。悪い、まず僕が冷静になる」

ああ完全に僕は気が動転している、そんなことはわかっている!だが、僕より冷静じゃない苗字を前に、痛む頭を抑えながら呼吸を整えるつもりで何度か、ゆっくり、ゆっくり深呼吸をする。

「はぁ……苗字の気持ちはわかるが……いやわからないが……おまえのそれは、恋愛感情じゃない」
「……そう、だね」
「そんな大事な経験を、僕が奪って良いことじゃないだろ。というか、そんな責任を負うのは正直ごめんだ……」
「……ありがとう。あは、また困らせちゃった、ごめん」
「だから、そんな顔するなよ。困るだろ」

眉尻を下げて、へら、と笑う苗字に、心臓の奥がギュッと痛んだ。でも、おかげで張り詰めていた部屋の空気が少しだけ弛んだような気もした。

「……一応、伝えておくことがある」

苗字がきょとんとした顔で、僕を見る。

「いつかのおまえは、おまえと僕が同じと言ったな」
「言った……?かも」
「自分の発言くらい覚えてろよ……」

苗字は少し舌を出してちょけた表情をしたので、仕切り直しに一回咳払いをした。

「……僕はそれについて、ふざけるな、と思ってる。同じなわけがないだろ。古今東西の英霊にこんなに慕われて、期待もされて、馬鹿みたいに重たい希望を担がされながらも笑うお前と、僕なんかが、同じなわけがないんだよ」
「私が同じって言ったのは、そういう意味じゃないよ」
「わかってる、そりゃ、それが全てじゃないが……何が言いたいかっていうとさ、まあ……すごいヤツだよ、おまえは」

苗字は一瞬驚いたような表情をして、ゆっくりと瞬きをすると、強かに、にかっと笑った。

「……ふふ、優しいね。やっぱり、カドックでよかった」
「おま……話聞いてたか?」

「うんうん聞いてる聞いてるー」なんて揶揄う苗字は、さっきまで泣いてた人間とは別人みたいで、つい、僕は笑ってしまった。それを見て彼女も笑った。そしてまた訪れた優しい沈黙の中、静かなこの部屋で、苗字と僕の不安だけが息づいていた。ああ、僕らは明日、第七異聞帯へ向かうのか。不意に思い出させられたその事実が心臓へと突き刺さって、僕の鼓動を急かしているようだった。

「……なぁ。今日くらいは、おまえがやりたいことの何かひとつくらいなら付き合ってやっても、いい」
「!……本当?」
「ああ。わかってると思うが、今日だけだぞ。それも、他のヤツにバレずに、だ」

魔が差したんだ。いろいろ考えすぎて、僕はどうにかなってしまったのかもしれない。そんな僕の心中はつゆ知らず苗字は「カドック!もう、ほんと、ありがとう!」と目を輝かせていた。こんな表情を見せられたらもう、今更やめようなどと言い出す気はどこかへ行ってしまった。仕方ない、ここまで来たのなら、僕も最後まで付き合ってやろうじゃないか。

「何ならできるかな。しかもバレずにって、どうやって?」
「問題はそこだな。まあ、普通に考えて成人式を再現するのは無理なんだが……」
「だよねえ。うーん、あとは、お酒は飲んでみたいけど、ダディには……なんか、バレそうだよね……」
「そうだな。あのバーテンには在庫でバレるな、確実に。あの過保護っぷりだ、何を言われるかわかったもんじゃない……」

そこで僕はふと、思い当たる。

「ああ、煙草なら……僕が魔術用の備品として所持してるものがあるから、まあ、それでよければ一本くれてやってもいいか」
「え、いいの?」
「……いや、うーん、これもバレたら誰にどう言われるかわからないんだけどな……」
「バレなければ大丈夫!」
「まったくおまえは……」
「そうと決まれば、よし決まり!善は急げならぬ悪は急げ、だ!いざ喫煙所へ、レッツゴー!」
「はぁ……いいか?誰にもバレずに、だぞ」

勢いに流されて、部屋を飛び出た。飛び出た、といってももちろん慎重にだ。苗字は「万が一誰かにバレてもカドックのせいにはならないように頑張るから安心して!」などと楽しそうに宣っているが、当たり前だ。僕のせいになんかなってみろ、それこそ僕がリアルに、マジで死ぬ。遅い時間だからか、はたまた大決戦の前夜だからか、幸運にも廊下には誰にもいない。気配を探りながら慎重に進んでみたものの、スタッフやサーヴァントの誰一人とも鉢合わさずに、無事に喫煙所まで辿り着いてしまった。中を覗いてみるが、電気が消えていて、誰も使用していないようだった。

「あれ……第一ミッションクリア、意外とチョロすぎ……?」
「調子に乗ってると足元すくわれるぞ」

スライド式のドアを引くと、意外とずっしりとしていた。手を離すと勝手に閉まるタイプだ。それを片手で抑えながら苗字に視線を送る。「ほら、入れ。静かにな」「ありがと」ウィスパーボイスで会話をして、彼女を先に部屋に入れた。外から見てもバレないよう電気は消したまま、真っ暗な部屋に僕も入った。こういうドアは慎重に閉めないと、音が鳴って誰かに気づかれてしまう可能性がある。僕は後ろ手でそっと、ゆっくり、ゆっくり、丁寧に閉めた。

「……ふぅ。これでやっと少し、一安心だな」
「はーっドキドキした〜!なんかこういうの初めて!楽しいねえ」
「あんまり大きい声は出すなよ」

ドアを閉めたことで、ようやく普通に声を出せるようになった。いたずらして遊んだ子どもの頃を思い出して、なんだかんだ、歳柄もなく少しだけワクワクしてしまっている僕がいる。そういえば、同年代とこんな風に無邪気に遊ぶなんてのは、いつぶりだろう。

「苗字」

名前を呼んで、胸元のポケットから取り出したライターと、一本のタバコを手渡した。

「あ、ありがとう!」
「湿気っちゃいないが、備品用に買ったものだ、味の保証はしない」

大丈夫だよわかんないから、と苗字はそれを受け取ると、背の高い灰皿の横にしゃがみ込んだ。しばらく、初めて手にした煙草とライターと睨めっこしてから、壁にもたれ掛かって立っている僕をじっと見て首を傾げた。

「カドックは?」
「は?……ああ、僕は吸わないぞ。僕は煙草なんかで早死にしたくないし、何よりも、"未成年"だからな!」
「わーん!カドックがいじわる言う〜」

たはは、と苗字は笑いながら、それでも辞める気はさらさらない。「ちゃんと見ててやるから」と言うと、安心したように頷いて、その手に持った煙草を恐る恐る咥えた。

「はは、よく咥えるほうがわかったな。葉っぱ側を咥えるんじゃないかとヒヤヒヤしていたんだが」
「ふふん、巌窟王が吸ってるのいつも間近で見てるからねぇ」
「……アイツ、おまえの部屋で吸うのか?」
「たまに」
「さすがに叱った方がいいぞ……」
「……ねえ、カドック。火どうやってつけるの、これ」

見ると、ライターを上手く扱えずに何度もホイールを空振りしている。普段使いするつもりで買っていないから、ターボライターなんていう便利な代物じゃなく、安価なフリントライターだ。確かに、慣れない人間が火をつけるのは難しいだろう。「コツがあるんだよ、貸してみろ」と僕はもたれ掛かっていた壁から背を離し、苗字と同じ目線にしゃがんだ。口に咥えられた煙草の先に手を添えて、ボッ、とライターに火をつけてやる。端っこが赤く、黒く変色していく。真っ暗な部屋の中にただ一つ、煌々とした燈が灯った。僕が苗字の目を見てこくりと頷くと、彼女は思いっきり、フィルターごしに息を吸い込んだ。

「っ!!」

そして、思いっきり、咳き込んだ。

「げほっ、げほ、」
「まぁ、だろうな……」

ぜえぜえ苦しそうに肩で息をして、それでもまだ咽せ返っておさまらない。げほげほと咳き込む苗字の背中を、僕はしゃがんだまま軽く叩いたりさすったりしてやる。煙草はまだ長く残っていたが、なんとなく、苗字はもう吸わないだろうと思った。彼女の手から煙草を受け取り、水に落とした。灰皿の中から微かに、ジュ、と炎の鎮火する音が聞こえて、なぜだか、僕らふたりの小さな非行ごっこは、もうこれで終わってしまったんだ、と思った。

「……やっぱ、ダメだね。はは、私にはまだ早いってことなの、かな」

あは、あはは、と嗚咽のように笑いながら、苗字はしゃがんだ膝に額を付けるように俯く。

「……私っ、まだ、まだ生きてたいよ……カドック」
「っ、」

さっきまで止まっていたはずの涙を濡れた瞳からぼろぼろ溢しながら、他のヤツらには見せないような顔で苦しそうに笑うもんだから、僕の中に込み上げてきた何かが、じくじくと熱を持った。

「生きるんだよ、一緒に!」

つい僕としたことが、こんな、何の確証もない、感情的な言葉を吐き出していた。魔術師らしくない、全くもって理論的でない言葉を。そして苗字は目を細めて、笑った。

「……ありがとう」

気付いたときには、苗字の身体を力いっぱいに抱きしめていた。僕たちふたりはどこにも行けない。こんなことをしたって、どうにもならない。何も解決しないことはわかってる。こんなとき、こんな気持ちになったとき、僕より優秀な魔術師たちならばどうしていただろうか。そんなことできやしないくせに、僕は、苗字を護ってやりたいなどと、思ってしまったのだ。


2023/1/29
title by Garnet

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