36度2分の純情




ゆらゆらと、月の揺れる晩だった。揺れているのは月か私か、なんて。そんなの、もうどっちだって良かった。

「名前」

私はなんとなく、振り返らない。それはとくに意味のないほんの小さな出来心だったが、一郎はもう一度、私の名前を呼んだ。

「……名前。こんなとこで、何してんだよ」
「見ての通り、ブランコに乗ってるの。懐かしくなっちゃってさ」
「……こんな時間にか」

ブランコを漕ぐのをやめて、一郎へ振り返るついでに公園の時計を見やる。午後8時過ぎ。その割に、辺りはもう真っ暗だった。公園の周りを囲む街灯のオレンジ色が、ふたりの横顔を頼りなく照らしていた。不機嫌を隠そうともしない一郎の「何時からここに居るんだよ」という問いかけに、「5時くらいかな?」と答える。もう3時間もここに居たのかと自分でも驚いたが、一郎は表情を歪めたまま黙って私のことを見ていた。

「お前、何で断った」
「……」

一郎が、どうしてそんなことまで知っているのだろう。さすが、情報早すぎ、なんて冗談めかしてでも言える空気ではなかった。まだその話題に触れて欲しくないのにと思いながらも、一郎がこんな時間にわざわざ私を探しにくるということはそういうことだと、本当はわかっていた。

「……空却から、聞いたの?」
「いんや?空却が言うと思うか?」
「思わない」
「俺には隠すつもりでいたんだな」
「一郎には、関係ない」
「あるだろ」
「ないよ、だってこれは、空却と私の問題だから」
「そう、思うのかよ」

一郎は明らかに苛立っていたが、それが何故なのか私にはわからなかった。一郎はハッとして、「……悪りィ」とばつが悪そうに呟いた。
また、だ。また、同じセリフ。今朝の記憶が、はっきりとした色相と温度を持って、鮮明に思い出される。朝日が昇る前、まさにこんな暗い空の下。一郎の苦しそうな声が、記憶の中の声と重なって響く。


「……悪りィ。聞かなかったことにしろ」
「空却、」
「んな顔すんなや。拙僧は、今までもこれからも変わんねぇよ。とにかく、お前が気にすることじゃねぇってこった」
「……ごめん」

謝んな、惨めになんだろ。と、空却はぼろぼろと泣く私の背中を、壊れ物を扱うように優しくさすってくれた。誰よりも傷ついているのは、彼だというのに。
そうして今、あの時とよく似た優しい手で、一郎が私の頭をぽん、と撫でる。

「空却はお前のこと、ずっと好きだったんだぜ」
「……」
「ま、本人は俺に隠せてるつもりみたいだったけどな」

はは、と一郎は乾いた声で笑う。俯いていた顔をふと上げると、左右で光彩の違うがらすのような瞳がまっすぐに私を射貫いていた。なぜだか、ぎゅ、と胸の奥が熱を持った気がした。

「お前も、空却のこと好きだったんだろ」

季節外れの肌寒い風が、私たちの間をすり抜けた。ふわりと舞った色素の薄い猫っ毛が、一郎の右手に微かに触れる。

「……なんで、それを……」
「そりゃあ、ずっと見てりゃ嫌でもわかる」
「……へ?」

ずっと髪を撫でていた手が、動きを止める。

「お前のこと、ずっと見てた。……この意味、わかるか?」
「……」

わかる、と答えてしまったら、ここで何かが終わってしまうような気がした。きっと、ずるい女なんだ、私。わからないふりをすることで、今度は一郎を傷つけようとしている。

「なあ、名前。俺はお前のこと、ずっと、好きだった」
「……一郎……」
「本当は、お前が空却を選ぶなら身を引こうと思ってたんだ。空却にだったら、お前のこと任せられるって思った。でも、お前は……」
「……私は……この3人の関係を、壊したくなかったの。……ずるい、よね」

私は、ずるいから。自分の手のひらはきれいなまま、傷つくふたりを見ないふりしながら、"仲良しな3人"で在り続けたかった。そんなものは夢物語だとわかりきっていたのに。

「俺が惚れちまった時点で、俺たちは、いつ壊れても可笑しくなかったのかもしれねえな」
「……違うの、私は……っ」
「ごめんな、名前」
「いちろ、」

こんな苦しそうな顔をする一郎を見るのは、初めてだった。たったの半年だが、私たち3人はいつも、どこに行くにも何をするにも一緒だった。それなのに、一郎のこんな顔を、私は知らない。

「名前、……絶対にお前のこと、大切する。空却よりも優しいぜ、俺は。喧嘩だって、空却に負けてねえ。身長だってあるしよ。顔も、そんな悪くねーと思うし…」
「いち、ろう……っ」
「俺のことを好きになれなくたっていい。空却を好きなままでもいい。嘘でもいいんだ、俺を、選んでくれないか?」

気づいたときには、無我夢中で一郎の胸に飛び込んでいた。一郎は、驚きながらも私をしっかりと受け止める。ああ、私は一郎に酷いことをしている。これは、私のエゴだ。今ここで一郎を傷つけたくないなんていう、汚らしく身勝手な選択だ。

「……いいのか、名前」
「一郎、ごめん、ごめんね……私……」
「……いいんだ」

そして私たちは、どちらからともなく触れるだけのキスをした。一郎も、わかっているのだと思う。私たちは、きっと幸せになれないということを。間違った選択肢を選び取ってしまったことを。白く光る月明かりは、いびつなふたりにはあまりに眩しく、思わず瞼をぎゅっと閉じる。瞼の裏に広がる暗闇は足下まで伸びていて、ふと気を抜いた途端に飲み込まれそうになるけれど、私たちは手を繋いで、この暗闇と隣り合わせで歩いていくのだ。ああどうか、私の罪を、私たちの間違いを、この揺れる月だけはどうかずっと赦さないでいて、と願った。


2023/3/1
title by Garnet

.