うつくしく奪われた涯てに焼き付いたまま




何となしに入った喫茶店は、意外にも混雑していた。通されたのは窓際の席で、一人用のテーブルが申し訳なさそうに佇んでいる。テーブルのこっち側か、あっち側か、つまり窓の外が見える席か、店内が見える席か迷って、隣の人を窺い見た。隣の人と同じ向きに座ろうと思ったのだ。斜向かいとはいえ、頻繁に目が合っても気まずいだろうから。

「あ……」

思わず口から漏れ出てしまって、慌てた頃にはもう遅かった。窓際から店内を見渡せる位置に座るその人は、ゆっくりと顔を上げて、こちらを見た。「ええと」少し微笑んで、首を傾げる。「座らないのですか」

「い、いえ、すみません。つい……」
「いえ、いいのですよ。隣にこんな大男がいれば、驚くのも当然でしょう」
「そ、そうじゃないです!そうじゃなくて……」

私は大人しく、彼の隣に座った。窓に背を向ける形だ。日本中どこを探しても、恐らく彼を知らない人はいないだろう。テレビの中の人だと思っていた、あの神宮寺寂雷が、私の隣に座っている。

「えっと、神宮寺寂雷先生、ですよね?」
「おや。私のことをご存知ですか」

ご存知も何も。この国じゃあなたほどの人を知らないという人がいれば、そいつは多分モグリです。と本人を前に言えるわけもなく。「麻天狼のファンなんです」と当たり障りのないことを伝えた。寂雷先生は穏やかに微笑んで、「それはありがとうございます」と言う。会話の切れ目を見計らってか、店員がやってきて、ご注文はいかがですか、と訊いた。コーヒーとサンドイッチを注文すると、寂雷先生もその店員を呼び止めてコーヒーを追加で注文した。

「実は、少し前に、シンジュク中央病院に入院してたんです。担当は寂雷先生じゃなかったんですけど。でも、ファンだから、寂雷先生だったらいいなぁなんて、こっそり、思ってました」
「ああ、そうでしたか。どこか、お身体が悪いのですか」
「もう大丈夫です。ちょっとお腹が痛くて。でもすぐに治りました」
「それはよかった。手術で開腹した傷は、もう痛みませんか」
「はい。もうすっかり。寂雷先生じゃないけど、きっと担当の先生の腕が良かったんですね」

運ばれてきたコーヒーは、とても良い香りがした。サンドイッチを囓る。カラシが利いたマーガリンがたっぷり塗られていて、食欲で胃がぐるるっと動く。

「ああ、とても美味しそうですね」
「あ、はい。先生はお昼はまだですか」
「ええ。ですが、見ていたらお腹が空きました。同じものを頂きましょうか」

優雅に手を挙げて、寂雷先生は店員を呼んだ。随分手慣れていて、寂雷先生ほどの人でも、こういう普通の喫茶店に来るんだなぁと妙なところで感心してしまう。

「ところで苗字さんは、このあと御用事がありますか」
「い、いえ、特には。今日はもう仕事も終わりましたし。……えっと、というか、先生、私、名前お伝えしましたっけ?」
「おや。伺っていませんでしたか?」
「えーと、言いましたっけ……?」

尋ねても、何故だか寂雷先生は優しく微笑むばかりで答えなかった。店員が寂雷先生のサンドイッチを運んでくる。私と同じ、ハムサンドだ。

「これは確かに、美味しい。カラシが好きなら、たまりませんね」
「……私、カラシが好きって、寂雷先生に言いましたっけ?」
「ただ、あまり食べ過ぎるのはよくない。開腹手術をしたばかりですし」
「……病気を治すのに、薬じゃなくて手術をしたって、私、言いましたっけ?」

小首を傾げる仕草は、不思議と妖艶だった。しなやかに髪が踊る。「虫垂炎は、初期でなければ手術がふつうです」えっと私、お腹が痛い原因が盲腸だったって、言いましたっけ?実際に言葉にして尋ねることはできなかった。人間、焦ると、上手く声が出せなくなるらしい。口をぱくぱくとしている私を、寂雷先生はただ、見ている。

「今日は偶然、あなたにお会いできて良かった」
「偶然……」
「偶然、あなたの仕事先でトラブルがあって、午後がお休みになった。偶然、あなたの行きつけの喫茶店が臨時休業で、この喫茶店に入った。偶然、店内は混雑していて、私の隣の席しか空いていなかった」
「寂雷、先生」

寂雷先生は微笑んだ。私の知る限り、この世で最も美しい微笑みだと思う。それから彼はコーヒーを一口飲んで、「怖がらないで下さいね」と言った。いや、無理です、と言おうとしても、上手く喋れない。

「私はずっと、あなたを探していました。そして今日、ようやくお会いできましたね」
「な、んで、ですか……?」
「たぶん、愛です」

どんな陳腐な言葉でも、彼の口から紡がれた言葉は、ほんものの呪文になるのだ。「愛、ですか……」それは呪文となって、呪いとなって、私に絡みつく。でも不思議と、怖くはなかった。彼が愛だと言うのなら、きっとこれは、愛だ。ああ、きっと、私だって探していたのだ。名前もない、形も、色もない、無色透明な何かを。それをあなたが「愛」と名付けてくれるのならば。もう探す必要はないのだと教えてくれるのならば。私は迷わず、真っ直ぐとその灯火へと手を伸ばそう。たとえその灯火が、私にしか見えない幻だったとしても。


2023/5/21
title by Garnet

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