夜をくるむ透徹




湿気を含んだ風がじっとりと肌に纏わりついていた。秋なんて名ばかりの、夏の延長線上で。蒸し暑さの名残りを感じながら、今年もまたこの日を迎えたのだった。

「よぉ、来やがったな」
「来やがったな、じゃないよ……あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、す、でしょ!」
「まーんな細けぇことは気にすんなって。お前と拙僧の仲だろ?」

こういう時だけそんなこと言って、ほんっと調子いいんだから。ぶつくさ文句を言っても空却は何ひとつ気にすることはなく、くるりと私に背を向け「とりあえずこっち、はよ来い」とずんずん歩き始めてしまった。おお、なんという傍若無人モンスター。けれど文句を言いながら着いていく私も、幼い頃からこの関係に慣れ親しんでしまったある意味悲しきモンスターなのだ。
空厳寺は、お盆に繁忙期のピークを迎える。ピークを過ぎた後もしばらく慌ただしさが続き……なんというかまあ、簡単に言ってしまえば、繁忙期のバタバタしでしっちゃかめっちゃかに散らかったお寺を、年末を控えたこの時期に一気にみんなで大掃除するのだ。そして、かく言う私も幼馴染なのを良いことに毎年駆り出されている。

「まず……んー名前は、そうだな。本堂の雑巾掛けしてる奴らに混ぜてもらえ」
「うぅ……雑巾掛けかぁ……」
「あ?なんか文句あんのか」
「いやー……空却が日頃、雑巾掛けサボってなければこんなことにならなかったんじゃないのかなあ〜なーんて口が裂けても言えないなあ……」
「オイ!全部言ってんだよっ!」

空却は鬼のような顔をしたが、本当は少しも怒ってなんかいないことを知っている。いつものことだ。今日も変わらず、数秒の沈黙のあと、くすくすとふたりで顔を合わせて笑うのだった。

「ヒャハ、お前、久々に会ったと思ったらちっとも変わっとらんわ!」
「あはははっ!空却ってば相変わらず短気!」
「短気ってテメェコラ名前」
「えっ!?ま……まさか自分のこと、気が長いって思ってたの……!?」
「おうおう、喧嘩売ってんなァ完全に。いいぜ、買ってやろうじゃねーか」
「おら!かかってこいや!」

こんな下らないやりとりも、空厳寺じゃ定番だ。子どもの頃は、喧嘩が始るんじゃないかと周りの大人たちもヒヤヒヤしたものだが(等の本人たちからしたらただの遊びだったのだが)、今となっては「また始まったか」なんて雑にあしらわれてしまう始末だ。

「つか名前、今日の髪」
「……うん?」

空却が、ふと髪に触れる。子どものときから何度も見てきた黄金の瞳が私を覗き込む。何歳になっても慣れることのないこの距離に、私はたまらなくなって睫毛を伏せてしまう。

「結ってんのか」
「そうなの。珍しくお団子に挑戦してみた」
「ん、かわええな、似合っとる」

思わず伏せていた瞼をぱっと開く。けれど、目の前にあったはずの黄金色はもうなくて。代わりに触れられた熱だけがかすかに肌に残っていた。空却はすでに廊下の先で「何しとるー早くしろー」と呆れた様子をしている。こんな立派なお寺の長い廊下で、私だけが、顔に集まる熱をどうにかしようと必死になっていた。

(はぁ……もう、ばか。学習しないなぁ私)


私がようやく追いついたとき、空却のもとにいたのは檀家さんの娘と思わしき小さな少女だった。お母さんの制止を振り切って「くうこー、遊んで!」と無邪気に駆け寄る少女に、空却は「悪ィなぁ。今日は拙僧も忙しいもんでまた今度な」とどこからか取り出した飴ちゃんを渡している。

「おう、今日もかわええリボンつけとんな」

落ち込む少女の頭をぽんぽんと撫でて、ニカッと笑う彼の顔は、慈愛に満ちあふれていた。そうだ、彼にとって、人を褒めることにそれ以外の意味などないのだ。すべての人間へ平等に接する彼の広い器を前にして、私はなんて小さな人間だと、落ち込むのも今日が初めてのことではなかった。頭ではわかっているのだ。わかっていても、空却が私を「かわいい」と言うたびに、このバカな心臓は言うことを聞いてくれない。

「名前」
「……へっ?!」
「何か変なモン食ったかぁ?ボケーッとしくさりやがって」
「い、いや、なんでもないっ」
「……ほーか?んじゃ、お前の持ち場はここな」
「……はぁ……雑巾掛け……かぁ……」
「おーまだ駄々こねるってかぁ?お子ちゃまは口が減りませんねえ」
「ちょっと!同い年なんですけどっ」


私は、昔から空却が好きだった。その感情が幼なじみに対するそれではなく、ひとりの異性へ向けたものだと自覚したのは16のときだ。空却が突然イケブクロへ発った、そのとき、はっきりと気づいたのだ。会えなくなって寂しい、けれどそれよりも、私に一言もなく行ってしまったことが無性に悲しかった。空却にとって私がその程度の人間だったのだと、痛いほど突きつけられた。たぶん、私はずっと空却の特別になりたかったんだ。なんてくだらないエゴだろう。彼を縛ることなんてできやしない……そんなことだって、本当はわかっているのだけど。

私の内心なんて知るよしもない空却は、相も変わらず私をからかおうとニヤニヤと目を細めて私の顔を覗き込んだ。

「まあ、雑巾掛けも修行のうちだと思ってしっかりと励むこったな!」
「えー。私、修行とかしなくていいんですけど」
「んなことばっか言ってっからいつまで経っても“めんどくさい病”が直らねんだろーがっ!オラ、これ水で濡らしてこい」

ポイと雑に雑巾を手渡され、危うく落としそうになりながらなんとかキャッチする。はあ、雑巾掛けかあ……学生のころから嫌いだったな……。万が一と思って高校のジャージを着てきて本当によかった。胸にある「苗字」の刺繍はところどころ糸がほつれていて、さすがに寿命を感じてしまう。いや、むしろよくここまで持ったと思うよ。

「そんじゃあなー。拙僧は庭の方の掃除やってくっから、後でなぁ」
「はいはい。空却もサボらないでちゃんと掃除やるんですよー」
「ハッ、拙僧の心配とかテメーにゃ100年早ぇんだよ!名前こそめんどくさがらずに、真面目にやりやがれ」

そう言って空却は庭の方へ消えていった。うん、確かにマジで、雑巾掛けはめんどくさい。けど、本音を言うと、こんなめんどくさい行事のおかげで今年もまた空却会えたなあ、なんて思ってしまっている。幼なじみは距離が近いなんて、そんなのひどい迷信だ。同じ趣味もない、交友関係も全然違う。大人になってしまった私たちには、会うための口実が必要なのだ。ああ、なんて煩悩まみれ。今灼空さんに会ったら棒でぶっ叩かれる自信がある。





昼間の蒸し暑さとは打って変わって、夜には冷たい北風が肌を晒していた。念のためにと持ってきていたカーディガンに袖を通す。絞った雑巾を物干し竿に掛けたその足で、庭園の見晴らせる縁側にふらりと立ち寄った。そんな折に「よぉ」と声をかけたのは空却だった。

「よぉ、じゃないっての」
「久しぶりの雑巾掛けはどうだったよ?」
「もう満身創痍もいいとこ!減らず口叩く暇があるなら感謝して欲しいんですけど?」
「ひゃはは、いい運動になったろ」
「くたばれ生臭坊主!」

空却は私の立つ隣に座り込むと、お前はここに座れと言わんばかりにすぐ横の床をバシバシと叩いた。慣れっこの私は有無を言わずにそこへ腰掛ける。月明かりに照らされた庭は美しいけれど、どこか恐ろしくもあった。

「夕メシ、食ってくだろ?」
「ご馳走になっていいの?」
「はっ、良いも悪いもあるか。親父はオメーが食ってくもんだと決めつけて勝手にはしゃいでんぜ」

そこまで言われたらお言葉に甘えるほかないだろう。ゴチになりますっ、と手を合わせれば、おう、と低い声が返ってきた。水面に映り込むあかりが反射して辺りを照らす。背の高い木々の頭上に、ぽっかりと黄色い丸が浮かんでいる。まだ満ち足りていない、きっと明日は、満月なのだろう。

「月、綺麗だな」

それは、はっきりとした口調だった。しん、と静かな夜風が、ふたりの間を通り過ぎる。さっきまでは気づきもしなかったのに。左手の小指が、空却の右手に少し触れている。今の今まで、血が通っていなかったのかと思うほど、急にそこが熱を持ち始める。私は何も答えられないまま、空却の横顔を見つめる。聞き間違いなどでは、ない。

「まんまるのお前にそっくり。ぎゃはは」

……ああ、私がバカでした。一瞬でも空却にロマンスを求めた私がバカでした。数秒前に戻って自分の頭を思いっきりブン殴ってやりたい。

「はぁ……空却のシワのないつるっつるの脳みその方がそっくりだと思いますけど!」
「……」

空却が珍しく言い返してこないからまた静かな空気が流れる。ああもう、気まずい気持ちになるから何か言って欲しいんだけど!ちらりと横顔を覗き見ると、空却は、なぜか私の方をまっすぐ見つめていた。月の光に照らされて、顔の片側に濃い影を作っている。その強すぎるコントラストに、目眩がする。

「あんなぁ、名前……お前なぁ」

ああ、その眼だ。黄金の、射貫くような瞳が、また私の心を見透かすように覗き込む。

「お前、大学なんぞ行ったくせして、拙僧よりも教養ねーんだな」
「……ふぇ……?」
「……えーか。……一回しか言わねぇから、よぉく聞いとけ」

空却が私の方に少し、ぐい、と身体を傾ける。見慣れた顔のはずなのに、いつもの距離のはずなのに、なにかがいつもと違うのだ。空却の腕がこちらに伸びてくる。血管の浮き出た逞しい腕、触れなくてもわかる体温。長い睫毛が、彼の頬にくっきりと濃い影を落としている。怪獣のようないつもの彼とは別人みたいな、瞬きひとつで壊れてしまいそうなほど、繊細で、か細い声で、「名前、」と、名前を呼ぶ。そんなの、ずるい、そんなことされたら私は、

「……すき…………」

はっとして目の前の空却を見ると、ポカンと口を開けている。咄嗟に両手で口を押さえるが、もう手遅れで。じわじわと湧き上がる羞恥心に、顔に熱が集まるのがわかった。顔だけじゃない、全身が燃えるように熱い。ぶわっと汗が出てきて、喉はカラカラで、泣きそうになるくらい恥ずかしくて、今すぐここから走って逃げ出してしまいたい。

「ああああーーあっあのっ、えっとごめん!今のは!あの、咄嗟に考えてることが口に出ちゃってっ!いやえーっとちがくてその」

真っ赤な顔を隠しながら、必死に弁解しようと慌てふためいていると、空却はわなわなと肩を震わせて、

「だーーっ!!……くそっ、こういうときくらい拙僧にカッコつけさせろやっ!!」
「……え?」

見たことないくらい真っ赤な顔をして、そっぽを向いてしまった。「あぁーくそ、だーから嫌なんだよっ」と小さな声で何やら文句を言っている。それでも、触れている手をほどいたりはしない。自惚れではないと思う。きっと私は、ごちゃごちゃと難しく考えすぎていたんだ。

「お前といるとしょーもなくかっこわるくなる」

そんな姿が、しょーもなく愛おしくて、可笑しくて。「かっこいい空却なんか好きじゃないし」「あぁ?!」また、私たちふたりはくすくすと笑いながら、まるで確かめ合うように、触れた指先に、ほんの少しだけ力を込めたのだった。


2023/6/26
title by Garnet

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