舌先に焼けつくさよならだけ




オオサカの繁華街から少し離れた雑居ビルの地下、埃で色褪せたパープルのやや重厚感のある扉の向こう。扉の重さに似合わない、カランコロン、と入店ベルの軽やかな音が響く。少し時間帯が早かったのだろうか。店内に人気はあまりなく、スピーカーから流れる有線のジャズがよく聞こえていた。いつもの席に着こうとカウンターへ視線を移すと、主張の激しい黒のファーで着飾った、見慣れた後ろ姿が目に入った。

「次からバーボンはほどほどにする、じゃなかったの?」

後ろから声をかけられて、男は大層不機嫌な声で「あぁ?」と応えたが、隣のカウンターに掛けた私の姿を確認すると、どうやら気分が変わったらしく眉をハの字にして口角を吊り上げた。

「そりゃあ、きっとアンタの記憶違いだな」
「ふぅん?随分と都合のいい記憶ね。まあ困るのは零だから、私は別にいいんですけど」
「ハ、つれねぇなぁ」

言葉とは裏腹に、彼は楽しそうにくつくつと喉を鳴らした。そしてまた一口、ロックグラスを傾ける。大きな球体の氷がグラスにぶつかって、カラン、と小気味のよい音が鳴る。私がマスターに「この人と同じものを」と伝えると、まるで既にわかってたみたいにバーボンのロックがすぐに出てきた。もし私が違うものを頼んだらどうするつもりだったのかは知らないけれど。

「そんなこと言いながら、結局名前ちゃんはおいちゃんのこと、ほっとかないだろ〜?」
「今日はほっといて帰るわよ」
「おいちゃんの記憶が正しければだが、確か前回も、前々回もそう言ってたっけなぁ」
「ほんっと、都合の良い記憶ね!」
「ハッハ、お前に関する記憶だけだぜ?別嬪さんよ」
「……ムカつく」
「おーおー。素直で可愛いじゃねぇか」

「ばか」と呟いてぐっと飲み干す。一杯じゃまだ酔えない。次は何を飲もうか、隣をちらっと見ると、零が自分のグラスをコツ、コツ、とつついて私にウインクして見せた。「ばっかじゃないの」別に飲みたいわけじゃないけど、今日はカシオレ頼んでやるんだから。マスター、と呼び止める前に、勝手に用意されるバーボン・ロック。ああ、もう、バカばっかり。



「はあ……なんでいつもいつも、途中でやめられないの?」

ロックで20杯飲むやつがあるか。そろそろ零には反省してほしいところだが、これもまた、いつものことだった。マスターには「すみませんが今日も零さんをよろしくお願いしますね」なんて責任放棄されて、大男に肩を貸して、引きずるように店を出る。ああもちろん、お金はこの男の財布から出させてもらってますけど。

「これが最後の一杯!なーんて常に思っちゃいるんだけどなぁ。けど、美味いもんが目の前にあんのに、やめろって方が酷だろ?名前ちゃんもそう思わねえか?」
「それで毎回大男を担がされる身にもなってよね」

タクシーを捕まえようと大通りまで出る。車通りは多いのになかなかタクシーは見つからない。見つけたと思っても乗車済みが続き、どうやら今日はツいていない日みたいだ。

「なあ」

耳元で囁かれて、ぞく、と全身に熱が走る。

「なに、よ」
「今、美味いもんが目の前にある。俺にも、お前にも。だろ?」

ようやくタクシーが私たちを認識してくれたようで、目の前でスッと停まった。このままこの男のペースに飲まれるのが悔しくて、誤魔化すように無理やり後部座席に押し込んだ。零は詰め込まれながら「つれないねえ」と豪快に笑っている。「今日はごちそうさまでした!」と半ば無理やりドアを閉めようとした瞬間に、ぐい、と腕を引っ張られた。

「来るだろ?」

そんなに強い力ではない。そうしようと思えば簡単に振り解けるのに、私にはそれができないことを、この男は知っているのだ。

「……わかってるくせに」

唇を尖らせて座席に乗り込むと、彼は上機嫌に家の住所を運転手に伝えた。動き出したタクシーが反対車線に向かってUターンすると、零が私の身体に体重をかける。

「なぁ。毎週毎週、お前に会いに来てんだぜ、俺は」

私だって、同じよ。毎週金曜日、夜の間の短い時間だけ。あのバーで知り合い、週に一度だけ会う関係。これが偶然じゃなく、仕組まれた出会いであっても、もはや私にはどうだってよかった。私たちは、まるでお互いのことを何も知らないけれど、何でも知っているような、そんな錯覚をしていた。友達でもない、恋人でもない。でも、この関係に続きはない。「一夜の過ち」を何回繰り返せば、この感情が過ちではないことを証明できるのかしら。



髪を撫でる大きな手が心地よくて、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。時間を確認しようと開いたスマホの画面が眩しい。3:16、と見えた気がした。ズキズキと痛む頭を抑え、飲み過ぎた昨日を後悔しながら、私はゆっくりと上体を起こす。零を起こさないように、ベッドを揺らさないように、ゆっくりと、床に足を着けた。初めてこの部屋に訪れたときから今もまだ、このキングサイズのベッドの広さには慣れることはできない。

「……あーあ、今日も、口を割らなかったか」

何度この夜を過ごしても、彼が重要な事柄を私に漏らすことはない。文字通り、煙に巻かれてしまうのだ。彼の吐くタバコの煙と共に、モヤモヤとすべてをはぐらかして、それでも、あと少しで手に入りそうだという感触だけ残す、雲のような男。中王区に手を貸しながらもいつ仇なすとも限らない、天谷奴零という得体の知れない男の情報や素性を探る。無花果様が私に命じたのは、そういうものだった。そのためには、手段は厭わない。簡単に言ってしまえば、所謂ハニートラップ、だ。そんな、映画の中でしか見たことないような任務に、私が任命された。それだけで非現実的で可笑しくて滑稽だった。

「ま、それにも慣れちゃったけど、さ」

慣れた手つきで零のPCにパスワードを打ち込んでいく。さて、先週仕込んでおいた仕掛けはどうなったかな。一見わからないように仕込んだプログラムをチェックして、中王区へとデータを送信、と。……重畳。履歴や証拠を全て消してからPCをシャットダウン。もちろん、マウスもキーボードも、元の位置に。
あとはどこかにあるはずの契約書類を見つけないと。音を立てないように、静かに引き出しに触れる。

「……んー……」
「!!」

息を呑んだ。ゆっくりと振り返ると、零が寝返りを打ったみたいだった。よかった、まだ寝ている。安心して胸を撫で下ろしていると、「……名前」と寝言が聞こえて、引き出しを引く手を止める。こんなことしてる場合じゃないとわかっている。けれど、そうせずにはいられなかった。ベッドに腰掛けて、前髪に触れる。見た目によらずサラッとしたドライで細い毛。いつも偉そうに踏ん反り返ってるくせに寝顔はこんなに純粋無垢だなんて、おかしくて笑っちゃう。こんなの見たら、乙女様も無花果様もきっと拍子抜けよ。

「……なによ……寝言でまで私を呼んだりして」
「……」
「ふふ、本当の彼女に殺されちゃうじゃない。いるのか知らないけど」

こういう任務には、向いてる人間と向いてない人間がいる。中王区の誰かが、私のことを天職だなんだとか言っていたっけ。大切なのは、感情移入をしないこと。自分はスパイなんだって、心を殺して演じ続けること。

「……」

胸が苦しくなって、零を真っ直ぐ見ていることができなかった。部屋を見渡すと、チカ、と月明かりを鈍く反射した陶器の色が視界に入った。週に一度しか来ないから要らないって言ったのに。「たまにゃいいじゃねぇか」なんて零に押し切られて買ったマグカップが2つ、食器棚に並んでいた。ピンクとブルーの色違いのチェック柄が、モノトーンでまとめられた部屋に全然似合っていなくて、くす、と思わず笑ってしまう。
感情移入をしない、だって。ばかみたい。

「幸せになんか、絶対になれない、のに」

もぞ、と布団が動いて、零が目を覚ましたことがわかった。「んん〜……」なんて唸りながら眉間に皺を寄せる姿を何となしに見つめてしまう。寝起きの彼の声は普段よりも掠れていて、なぜだか落ち着く気がして好きだった。毛布から出てベッドに腰掛ける私を不思議に思ったのか、零はしばらくこちらを見たままぼーっとしていた。

「……ん〜?……どうした、家探しかぁ?……なんてな」
「ううん、なんでもない。前に忘れていったリップ、どこあるかなって。探してただけなの。起こしちゃってごめん」
「ハハ、そうかい」

こっちこいよ、と言うように零が腕を広げた。私は当たり前みたいにそこに身体を収める。でも私は、間違えちゃいけないのだ。この感情は一瞬だけのものだとわかってる。だから、間違えたりしない。私は彼を利用してるだけなのだから。

「リップなんて忘れてたか?そんなの、言ってくれりゃちゃちゃーっと俺が職場に届けてやったのによ」
「んふふ、冴えないうちの会社に零が?ド派手すぎてみんなドン引きしちゃう」

ああ、あたたかい。どんなにニセモノだらけでも、この温もりだけは本物だから。

「そうかぁ?おいちゃんはむしろ馴染んじまうかもしれねぇぜ」
「そんなわけないじゃない」
「男にも屈しねぇような、ド派手な姉ちゃんだらけだしなぁ」
「え?」

何を言っているのか、よくわからなかった。だって私は、冴えない出版社でOLをしていることになっていて、零は、会社の場所どころか、社名さえも知らない、はずで。

「そういや名前、お前さんの怖ぇ〜上司、お前と同じタトゥー入れてたの見たぜ?」
「見た、って……どこ、で」
「社訓かありゃ?ブラック企業なんじゃねぇかって、おいちゃんは名前ちゃんが心配で心配でよぉ」

「なぁ」そう言って、私の左の腰を優しく撫でる。私の、中王区への、忠誠の誓いが刻み込まれたその皮膚を。

「名前。いい情報、見つけられたか?そいつで上司サンに褒めてもらえるかい」
「れ、零……」

背筋を這うような不安と焦りに心臓がバクバクと警鐘を鳴らしている。この音も、聞かれているんだ。ハッとして、距離を取るように、彼の肩を押す。

「気をつけろよ」
「……え、」

まるで猛禽類が獲物を捕捉するように、その鋭い眼光は私を捕らえて離さない。顎に触れられて促されるままに顔を持ち上げると、彼の親指が私の唇をゆっくりと、なぞる。

「これはハニートラップだぜ、お嬢ちゃん」

これで何もかも、終わりなのだ。最初から、幸せなんてどこにもなかったのだ。嘘つきと嘘つきの物語はここで終わり。けれど、どうしてそんなこと、私に教えてくれるの。最後まで騙して逃げてしまえば良かったのに。そう言うと零は「なんでだろうな」と目を細めた。都合がいいと笑われてもいい。離れた私の唇を見つめるその潤んだ瞳や、頬に触れる指の熱、腰を抱く腕の脈動がすべて、すべて嘘だなんて、私にはどうしたって思えないの。


2023/9/27
title by Garnet

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