ロマンスが足りない!





バラエティなんて大嫌いだ。芸人が幅をきかせるスタジオで、お人形みたいにいなくちゃいけないのに、ノリが悪いと陰口を叩かれる。「あの女優は空気が読めない」だって。バラエティでの空気が読めないから何だって言うのだ。女優は、芸人じゃない。

「名前ちゃん今日のスケジュール確認するね、歩きながら聞いて」
「はい」

局の廊下を歩きながら、マネージャーが分厚い手帳を片手に今日の予定を読み上げる。マネージャーとは、もうなんだかんだ長い付き合いだ。デビューしたときから付いてくれていて、5つも歳上だが同性ということもあり、友だちのようにラフに接してくれている。

「……それから、15時半から山下監督との打ち合わせで……ああ、監督への差し入れは用意しとくね」
「あ、ありがとうございます」
「監督の好きな、いつものカツサンドね」
「いつもいつもすみません……」

気の利く敏腕マネージャーのおかげで、駆け出しながらも、こうして私は女優としてテレビに出させて貰えている。つかつかとヒールの音を立てて、次のスタジオへ向かい廊下を進む。

「……で、18時からは、……あ」
「あっ!!18時はわかりますよ!」
「あはは、さすがだねぇ」

バラエティが嫌いな理由はもう一つ。私にとって大切な思いを、ネタにされてしまうから。

「黒崎さんと、シャイニングTVの打ち合わせですよね!!」



18時までの仕事はすべて、このための前座だ。もちろん、プロとしてしっかりと誇りを持ってこなしたが。
打ち合わせ予定の15分前。会議室5のドアを目前に、私はすーはーと繰り返し深呼吸をしていた。ああ、この時のために、私は今週を生きてきたのだ。ガチャ、とドアノブを勢いよく回す。

「おっはよーーございますっ!!黒崎さん!!!」

部屋の中には黒崎さんと企画のプロデューサー。「苗字さん、今日もよろしくね」と、プロデューサーはいつもの挨拶をしたが、黒崎さんは足組みと腕組みを1ミリも動かさずに「あ?」と言った。だが、今週はついてる。眉を動かしてくれたのだ。

「はぁ……クールな黒崎さん、最高……。今週もエネルギー供給ありがとうございます」

なむなむ……拝むと黒崎さんは「おまえに喜ばれたくてやってねぇよ」と呆れたように視線をスマホに戻した。うーん、ひたすらにツラが良すぎる。
シャイニングTVは、シャイニング事務所の冠番組で、基本的には事務所所属のアイドルやタレント、俳優、歌手が出演する番組だ。その中のひとつのコーナーを私たちふたりが担当している。言わずもがな大人気アイドルグループ「QUARTET NIGHT」の黒崎蘭丸先輩と、事務所の一年後輩の女優である私、苗字名前が、ふたりで様々な企画に挑戦するコーナーだ。愛想のない(最高にクールな)黒崎さんと、黒崎さんに猪突猛進ゾッコンラブな私との凸凹コンビがありがたいことに好評をいただき、4年ほど続く長寿コーナーとして続けさせてもらっている。この企画のおかげで他のメディアにも注目してもらい、今の私があるといっても過言ではない。そんな私のラブアタックを受けて、はぁ……とため息をつく黒崎さんに「吐息を集めて部屋のアロマにしてもいいですか?」と尋ねたが、見事に無視されてしまった。はー、好き。

「さて。再来月の企画は、ふたりでアイスダンスをやってもらおうと思う」
「アイスダンスだあ?」
「えっ、と……スケート、ってことですか?」

今や国民的人気スポーツ アイススケートの、アイスダンスに挑戦するなんて、正直全く自信はない。でも、アイドルとして常に最高のパフォーマンスをしている黒崎さんと、役者という表現者である自分が共に創り出すアイスダンス。そんなの、めちゃくちゃおもしろいに決まってる。

「黒崎くんは乗り気じゃなさそうだね〜。まぁいつもだけど」
「たりめぇだろ」
「えー、でも私と黒崎先輩の""""愛""""を表現なんて、ちょーーーロマンチックじゃないですか?!」
「勝手に言ってろ」

そんなこと言いながら、わかってる。いつものパターンだ。序盤はやる気のない黒崎さんに、やりましょうと猛アタックする私。次第に黒崎さんのプロフェッショナル魂に火がついて、技術面で置いて行かれている私に熱い指導をする。そして拙いながらも、努力の結果を生放送で披露する。お決まりの流れだけど、それが視聴者の皆様が待っている映像なのだ。

「でも、黒崎くん。今回もやってくれるだろ?」

長年の付き合いのプロデューサーも、わかっている。黒崎蘭丸は必ず、やる。

「……あたりめーだろ。プロだからな」
「はは、そうこなくっちゃ」

そして、「アイスダンスが愛を表現するモンってんなら、おまえとの偽りの愛だろうがなんだろうが、やってやろうじゃねーか」と、私に向かってにやり、と口角を上げた、ように見えた。ああ、そういうところが、好きなんですよ。誰にも媚びない、ファンにも視聴者にも同業者にも。黒崎さんは、そうでなくては。

「ふふん、偽りを本物にしてみせますよ!私も一応、プロなんで」
「おー、そうかよ」

「んじゃ、やってみろ」上がっていたと思った口角はもういつも通りの無表情に戻っていた。そんなクールな顔面も、最強に最高で、脳内でスクショを撮りまくったのだった。

事務所の長寿コーナーともあり、打ち合わせはかなり長引いた。スケジュールの確認や練習期間の確保、曲の選出、振り付け師や指導者選びなど、本来ならばタレントが口を出さないところまでもを詰めていく。プロデューサーもタレントもスタッフも、みんなが一丸となって創っていくというのは、番組が小さかった頃からやっている企画ならではなのかもしれない。当初1時間半の予定が、押しに押して3時間もの時間が経過していた。とはいえ、いつも大抵長引くため、この企画の打ち合わせの後は予定を入れないようにしてもらっている。

「さすがに、そろそろお開きにしようか」

プロデューサーが区切りをつけて、「では続きの打ち合わせは次回に」と解散の流れになった。実践練習が始まるのは再来週らしい。今日からはいつもより寝る前のストレッチを入念にしなくちゃ。プロデューサーが会議室を出るのを見送って、私もトートバッグの中に手帳と資料を詰め込み帰り支度を整えた。さてと、帰る前に黒崎さんの美しい顔面を目に焼き付けるとしよう。そう思って黒崎さんを見ると、バチリ、視線がぶつかった。まさか、まさか黒崎さんが私のことを見ているなんて誰が予想しただろうか。長い付き合いだから見られること自体には慣れているが、なにせこっそり盗み見るつもりだったため心構えをしていなかったのだ。思わずすぐに目を逸らしてしまう。こんなにも顔が熱いということは、きっと黒崎さんから見たら真っ赤になっているのだろう。低く掠れた、優しい声で「はは、そろそろ慣れろよ」と笑われた。ああよかった。ヤバいミスとか、メイクが変だとか、服が変とか。見られていたのはそういう理由ではなさそうだ。

「おまえ、この後空いてんのか」
「……へ?」
「この後空いてんのかって聞いてんだよ」
「…………へ!?」

聞き違いだろうか。いやいや、きっと、はいと答えればダメ出しだとか、この書類纏めとけ!とか、そういうことを言われるんだ。期待はすると危ないもの。もちろん、ダメ出しも書類のお片付けも、黒崎さんのお願いならばすべてバッチ来いですけども。

「一杯付き合え」

一杯付き合え!??!?!
黒崎さんと言えば、基本的に人付き合いをあまりしない上にお酒をあまり嗜まないお方。お金が掛かることも避けるとか。そんな黒崎さんがそんなセリフを言うなんて、想像したこともなかった。

「だから、一杯付き合えつってんだよ」
「く、黒崎さんと……私が……?!」

やっぱなんでもねえよ、と言いかけたのがわかった。繋ぎ止めたくてどうしても早口になる。

「行きます行きますどこへでもお供します!!」

ハ、と笑って「じゃ、決まりだ」黒崎さんは私の額をコツンと小突いた。

「おい、てめえ勘違いすんじゃねえぞ」
「勘違い?します!!」
「すんな!!」

珍しくちょっとだけ楽しそうに笑う黒崎さんがいて、目の前がくらくらした。あなたが好きですと何回言ったって、こんな気持ちは100分の1ぽっちも伝わってないのだろう。それでもよかった。
話を聞くと、どうやら「お気に入りの飲み屋を紹介する」という別番組の企画で、行ったこともないお店を勝手に番組から指定されてしまった、らしい。収録の予定は来週。それまでに一度くらいは行っておかないとまずいということで、丁度良く空いていたのが私、だったと。うん、なるほど。「勘違いすんじゃねえぞ」はツンデレではなく本当だったんですね!

「てかその番組、ヤラセじゃないですか」
「うるせえ、おれが一番納得いってねぇよ。でも親父がやれってんならやるしかねーだろ」
「ですよねぇ……」

ふたりで会議室を出た瞬間から、話題をサッと切り替える。「最近見た可愛い猫ちゃんの動画があって〜」なんて。番組のこんな愚痴を局の他の人に聞かれるわけにはいかないからね!



黒崎さんのお気に入り(予定)のお店は、テレビ局から3駅ほど離れた繁華街のはずれにあった(タクシーで移動したので定かではないが)。移動中のタクシーでは、沈黙にならないようにと黒崎さんにおすすめの猫動画を見てもらったのだが、思ったより猫への反応が良かったのが嬉しくて、ついつい連続でいくつも見せてしまった。もしかしたら鬱陶しかったかもしれない。でも黒崎さんは、鬱陶しかったら「鬱陶しい」と言うタイプだからきっと大丈夫だろう。

「ここだ」

少し離れたところに停めてもらい、地図アプリを見ながらスタスタと長い足で歩く後ろ姿を追いかけた。着いたお店は、和を基調としたモダンな雰囲気で、それでも高級すぎない、簡素な作りの外装。価格帯は高すぎず安すぎず、落ち着いた雰囲気の居酒屋だった。中は思ったほど広くなかったが、通された席は掘りごたつでゆったりとできる半個室。簾を下ろせば、ここは黒崎さんと私のふたりの空間だった。


「……おまえ、ビールとか飲むんだな」
「う……やっぱ若い女優がビール好きって、引かれますかね……?」
「ハハ、さあな。他がどう思うかは知らねーが、嘘つくヤツよかよっぽど良いんじゃねえか?」

黒崎さんは「じゃ、おつかれ」とビールジョッキを持ち上げて私の前に軽く突き出した。返事をする間も、感情の余韻を整理する暇ももらえない。「お疲れ様ですっ」私もジョッキを持ち上げて、目の前のそれに軽くぶつけた。

「最近、バラエティよく出てんじゃねぇか」
「えっ、知ってくれてるんですか?光栄です!」

ジョッキを傾けて、黒崎さんは眉を顰めた。

「ンな世辞いらねえよ、飲みの席だぞ?事務所じゃねぇんだ」
「お世辞なんかじゃないですよ!私、黒崎さんのお陰でここまで来れたんで。本当に尊敬してる黒崎さんに見てもらえたなんて、光栄すぎて言葉もないくらい」
「まあ、そんなら……ありがとな。そのまんま受け取っとく」

もう一口、啜って、ごとりとジョッキをコースターへ置いた。

「おまえ、バラエティでおれ弄り、されてんだろ」

まさか、そんなことも知っているのか。いや、見てくれてるならそりゃ知ってるか。うまく返答できずに沈黙を作ってしまったせいで、少し、気まずい空気が流れた。

「きつくねえか?」

私は元々、シャイニングTVでの黒崎さんとのコンビがウケて売れた女優だ。それも、熱烈な「黒崎さんラブ」キャラで。お陰様でキャラが立ち、呼んでいただいたバラエティ番組では黒崎さん愛を弄られることが多かった。

「きつい、ですよ」
「……まあ、そうだよな」

何が『黒崎くんゾッコン設定って実際はどうなの?』だ。何が『キャラ付けよく守ってるね』だ。女優に発言権があるのなら、笑わせるなと言ってやりたい。私の大事な思いを、茶化して弄ってネタにしやがって。偽りの愛で、4年も続けられると思うなと。

「正直、バラエティなんて、大っっ嫌いです」
「はは、そうかよ」

静かに笑って、黒崎さんはもう一口、ビールを飲んだ。私は勝手に焦って、「ドラマの現場でもそんな弄りばっかりで嫌になっちゃうんですよ〜!本気で好きだって何でみんなわかんないかなあ。まあ注目していただけるだけありがたいんですけど。あ〜あ、嫌になっちゃう」なんて、ついペラペラと続けてしまう。黒崎さんは、目を細めてまたビールを啜るだけだった。黒崎さんのジョッキに比べて、私のビールはなかなか減らない。

「お待たせしました。地鶏の炭火焼きです」
「あっ、ありがとうございます!」

料理が運ばれてきて、内心ホッとする。この話題も、こんな私も、何となく、黒崎さんに見られているのが辛かった。話題にひと段落つけるつもりで、一生懸命にお皿に鶏肉を取り分ける。それをぼーっと眺めていた黒崎さんが、私の顔に視線を移して、口を開いた。

「おまえ、好きなやつとかいんのか?」
「……はあ?!?!」

思わず店内に響き渡るほどの音量が出てしまい、はっと手で口を抑える。私の突然の絶叫の意味を全く理解できていないらしい黒崎さんは、「まあ、芸能界で生きるにはキャラ付けも大事とかなんとか……嶺二も言っていたが。あんまやりすぎっとおまえ自体への周りからの評判に関わるから気をつけろよ」だとかそんなようなことを話していて、私は反射ではい、はい、と相槌を打ちながらも、状況が掴めず言葉の半分くらいしか耳に入ってこない。

「おれに対してそんなのやったところで、何も、やれるもんねえしな」

そして、「ガキんときに取り入ろうとしてくるヤツは多かったが、あいにく今のおれには家柄も財産も地位もねえからな」と続けた。唖然とした。

「私が……黒崎さんから、何か貰おうとしてると、思ってるんですか……?」

絞り出した声は、思ったよりも震えていた。黒崎さんは切長の綺麗な目を少し見開いて、ばつが悪そうに顔を歪めた。

「あー、クソ、悪い。そんなつもりじゃなかった」
「く……黒崎さんの」
「おう?」
「黒崎さんの、バカっ!おたんこなす!オッドアイ!!美丈夫!!!!」
「……後半、悪口じゃなくねえか?」

私の声は、またもや店内に響いてしまっているかもしれない。そのせいで黒崎さんの来週の収録にも悪い影響を与えてしまうかもしれない。けど、そんなことを気にしている余裕はなかった。

「あなたは……今まで何を聞いていたんですか!!私が4年間も好きだと言い続けたの、一体何だと思ってたんですか!?」
「あ、ああ?!そりゃあ、なんかその……キャラとか太鼓持ちとか、もしくはアイドルとしての『推し』とか、そんなんじゃねえのか……?おれを使っておまえがそのキャラで売れんならまあいいか、と思って受け入れてたんだが……」
「わああー!!黒崎さんのアホー!!鈍感!!顔面国宝!!」
「だから後半……」

勢いに圧倒されたのか、黒崎さんはガラス玉のような目を見開いている。私はその瞳をまっすぐに、強く睨みつけた。

「私は本気ですよ!!嘘の好きが4年も続いてたまるかボケ!!!てか、100分の1どころか1万分の1も伝わってないとかドン引きなんですけど!!?
「わ、悪かったな……」
「ああもう!バラエティのやつらがなんもわかってないくせに悪意に満ちた黒崎さん弄りをどんなにしてきたとしても私は黒崎さんにこの思いがほんの1ミリでも伝わっていればそれでいいなんて思ってたのに本人にさえもこんなに伝わってないとかマジで信じられねえー!!!鈍感オバケ!!!オッドアイのイケメン鈍感オバケ!!!バカ!!!大好き!!!」

叫んだ勢いのまま、ジョッキをガッと掴んでゴクゴクとビールを飲み干した。ゴン!とテーブルに空になったジョッキを置いて、呆けている黒崎さんをまた強く睨んだ。なんか、すごいやっちまってる感あるけど、もうなるようになれ!当たって砕ける!頼むから死体だけ回収しておいてくれ!

「……く、」
「……?」
「……っはははは!!」
「あ、え……黒崎、さん……?」
「う、ははは!あー、久しぶりにこんな腹抱えて笑ったぜ」

ぽかんとしている私を他所に、拳で口元を押さえたまま、くつくつと喉を鳴らし笑いを堪えている。

「なあ。今のブチギレ、悪くねぇよ。ロックだぜおまえ」
「……へっ?」

こんなに楽しそうな顔、初めて見た。黒崎さんは、笑いの余韻を流すようにビールを一口飲み込んだ。

「いいじゃねぇか。そういうのをバラエティでかましてやりゃいい。イメージがどうとか考えすぎてもしょうがねえ」
「そういうの……って、今のブチギレのことですか!?」
「おー」

むしろウケんじゃねぇか?知らねえけど。黒崎さんは頬杖をつきながら、お皿に取り分けられた鶏肉を大きな一口で頬張った。

「はいはいあ、ほはえは……」
「飲み込んでから喋ってください!」

既にこのお方ちょっと酔ってる……?!失敬なツッコミをしたつもりだったが、何やら上機嫌にごっくんしてから「そういうとこだよ」と言った。どいういとこ?!

「大体な。おまえはいつも、そこは気遣うだろってとこでやけに図々しいくせに、バラエティがうまくいかねえだの伝わらねえだのウジウジウジウジしやがって」
「ず、図々……っ、!?」
「テメェの強みはその図々しさじゃねえのかよ。なに今更いらねえ気負いしてんだ」

ああ、この人はやっぱり、かっこいい。私の憧れで、好きな人で、道標。その広い背中に、私は何度許されて来たのだろう。

「ま、先輩にブチギレるなんざ後輩としてはアウトだがな」
「す、すみませんん!」

黒崎さんはジョッキを煽るように残ったビールを喉へ流し込んだ。「おし追加だ追加。おまえも何か頼め」といつもより血色の良い顔で言うので、間髪入れずに「ビール!」と答えると、黒崎さんは満足そうに笑った。追加のビールが運ばれてきて、どちらからともなく、ガチャ、とジョッキを合わせた。1杯目よりもスムーズに、ビールが喉を通る。大きめの3口を飲み込んでテーブルに置くと、黒崎さんも同じタイミングでジョッキを置いた。

「ふふ」
「なに笑ってんだテメェ」
「それで……あのその……お返事は……」
「あ?」
「私の本気で好きっていう……一世一代の大告白……」
「ああ、忘れてたわ」
「なっ!」

黒崎さんは、ふう、と息をひとつ吐いて、少し困った顔で私を見た。

「あのな。おれたちの仕事柄、んな簡単な話じゃねえことくらいわかんだろ」
「……はい。すみません……」
「おまえのことは、後輩だが結構認めてんだ。プロとしてマジでやってるってのがわかるから、おまえとなら一緒に仕事すんのも悪くねぇと思ってる。だからおまえのことは、まあその、割と気に入ってんだ。おれにしては珍しくな」

嬉しいけど悲しい、けど嬉しい。世界一優しい失恋だった。欲しかったものはもう貰ったから、不思議と悲しくはなかった。むしろ認めてもらえているなんて夢みたいで、私がこれから生きていくには充分すぎるくらいだ。当たって見事に砕け散った事実は何一つとしてかわらないのだけれど。「だから、」私の複雑な感情を断ち切るように、黒崎さんが言葉を続けた。

「答えんのはまだ、今じゃねえだろ」
「……!」
「まあなんだ、その、おれは人から指図されんのは性に合わねえが……。おまえの図々しさは嫌いじゃねえし、我儘のひとつくらい聞いてやってもいいと思ってる」

黒崎さんが少し、照れているように見えるのは気のせいだろうか。アルコールで頬が高揚しているせいだろうか。もうそんなの、どっちだっていい。私は私だって、ありのままで良いんだって。そう教えてくれたから。

「黒崎さん……」
「……ンだよ、らしくねえって笑うかよ」
「今日奢ってください」
「うっは!!図々しいなおまえ!」

黒崎さんが噴き出して笑う。それを見て、私も思わず大笑い。ふたりの笑い声が、個室の中にこだまする。

「その図々しさ、悪くねぇ!ま、元々事務所で切る予定だったけどな」
「ええ〜!黒崎さんのポケットマネーで奢ってもらって、愛感じたかったです」
「バカか」

初めてこんなに喋るのに、何もかもが自然で。なんだか、まるでずっと昔からこうだったみたいな、そんな不思議な感覚だった。

「黒崎さんっ!私、絶っ対に黒崎さんに好きって言わせてみせますからね!」
「はっ、楽しみにしてるぜ」
「やってやりますよ!アイスダンス、俄然楽しみになってきました」
「スパルタでいくから覚悟しろよ。ぜってぇ泣かすからな」
「うぅ……鬼……!」

にやりと口角を上げて笑う黒崎さんはやっぱりどうしようもなく格好良くて、悔しいけど、まだまだ敵いそうにない。


2023/10/16

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