ハッピーエンドの幸先案内



終電間近に駅に駆け込み、何とか家に辿り着く日々も、気付けば3週間となっていた。山のように溜まった洗濯物を見て見ぬ振りをして、眠りについてはまた数時間後には家を出て働く。鏡の中のゾンビみたいな顔色の自分も、悲しいかな見慣れてしまった。別に、うちの会社は元々そこまで忙しい会社じゃない。ここまで忙しくなるのは年に1度の繁忙期だけで、まあ1年間だらだらしていたツケみたいなものだ。そんな、鬼のように忙しい繁忙期もようやく今日で終わるのだ。
パソコンから顔を上げて時計を見れば、18時。久しぶりの定時退社だ。隣を見れば、同僚は机につっぷしてすうすうと寝息を立てていた。軽く揺すって、「定時だよ。もう帰ろう」と声をかけると、「ああ……」と彼は涙ぐんだ。彼の涙の意味は痛いほど良くわかる。地獄の終わりとは、斯くも眩しいものなのだ。

「久しぶりに、寄って帰ろうかな」

普段であれば、3日か4日に一度程のペースで寄って帰るバーがある。飾り気はないがいつも賑わっていて、不思議と横浜の街に馴染んでいる。そこで1・2杯飲んで帰るのが、いつものルーティンだった。ここ1ヶ月ほど、忙しすぎてとてもじゃないが行けていなかった。久しぶりにあのマスターの顔や、マスター特製のナポリタンが恋しい。だいぶ寝不足だし、疲れているけど、明日は久しぶりの一日オフだ。ちょっとくらいお酒を飲んだって、神様は怒らないだろう。

「こんばんはー」
「おお。名前ちゃん、久しぶりじゃない」

前と変わらず、マスターは人の良さそうな笑顔で出迎えてくれた。(あ——)店内をざっと見ると、カウンター席にもう一人見知った顔があることに気がついた。

「理鶯さん!お隣いいですか」
「ああ、苗字か。久方ぶりだな」

理鶯さんとは、何度かこの店で会ったことのある顔なじみであり、私の片思いの相手、でもある。「ちょっと、仕事が忙しくて……。理鶯さんに中々会えなくて、寂しかったですよ」と大袈裟に理鶯さんを覗き込んでみると、理鶯さんは「ああ、確かに、顔色が悪いな。目の下の隈が酷い。まるで山姥のような形相だな」とにべもなく言った。勿論、片思いは目下惨敗中である。

「苗字がそこまでの形相になるとはな。厳しい戦いだったようだ」
「理鶯さんって、結構容赦ないですよねー」
「寝不足か?それに、栄養不足だろう。ストレスもあると見える」
「あー、あはは。まあそんな感じです」

苦笑いをしながらハイボールを煽ると、理鶯さんは、む、と顔をしかめた。「寝不足にアルコールとは。感心しないな」まるで母親かのような言いように、私は思わずくすっと笑ってしまった。厳めしい見た目に、壮絶な背景。理鶯さんを怖がる人は沢山いるけれど、私には全然、怖い人には思えなかった。

「だって、久しぶりに解放されたんですよ。一杯飲まずにやってられますか。しかも理鶯さんが隣にいるから、安心安心」
「しかし、貴殿の体調が心配だ」
「ま、明日は久しぶりの休みだし。多少酔っても大丈夫ですって」
「む……そうか」

そう言いつつ、私はちょっと危うい気配を感じてはいた。焦点が合いづらい。視界が揺れる。「あ、ちょっとお手洗い、」席を立って数歩、よろけそうになるのをなんとか堪える。

「大丈夫か」
「あ、はい、すみませ……」

いつのまにか、理鶯さんが身体を支えてくれている。嬉し恥ずかしなんて思っている、暇もなく。理鶯さんの逞しい腕に見惚れている、暇もなく。へたり込んで立ち上がれなくなってしまった私は、妙に冷静な頭で、(そういや、寝不足、だけじゃなくて空きっ腹に酒は流石にまずかったか……)と数分前の自分の行動を後悔したのだった。




「……で、これってどういう状況です……?」
「ああ、苗字。早かったな」

あのあと、酔いつぶれて帰れなくなり理鶯さんにお世話になり気付いたら裸に……なんてことは当然なく。社会人として至極真っ当に、水を飲んで少し回復した私はなんとかタクシーを捕まえて自宅に一人で帰ったのだった。それからお行儀良くベッドで眠り、一応午前中には目覚めてシャワーを浴びた。よーし今日はのんびりした休日を過ごそう、なんて思いながらスニーカーをつっかけて特に理由もなくコンビニまで行こうとした、私を出迎えてくれたのは、この閑静な住宅街に全く似つかわしくない人物、理鶯さん、だった。

「何でここにいるんですか……?」
「昨日話したことを忘れてしまったか?昨日は貴殿も同意していただろう」
「昨日?えーっと……」

言われると確かに、理鶯さんが私に何かをしてくれるとか何とか言っていたような記憶が微かに蘇ってきた。なにぶん、結構酔っ払っていたのであまり記憶がない。自分自身の判断を信じるならば、昨日私が同意したということは、恐らく変な誘いではなかったのだろうが、じゃあかといって何に誘われたのかも検討がつかない。

「何でしたっけ……?」

恐る恐る、尋ねてみるけれど、理鶯さんは表情も変えず、「行けばわかる」と言うのみだった。

小一時間、歩いただろうか。そもそも遠出するつもりもなかったので、服は最低限だしすっぴんだし靴はボロボロのスニーカーだ。それでも何とかついていける程度に、理鶯さんは私に合わせてゆっくりと歩いてくれていることがわかった。気がつけばいつのまにか住宅地を抜け、辺りにはだんだんと緑が増えてきている。へー、横浜ってこんな緑豊かな場所もあるんだぁ……じゃなくって。

「り、理鶯さん、もしかして、山……に向かってます?」
「ふむ。山、といえば、山か」
「それどういう意味……?」

理鶯さんといえば、山での野営だ。以前、山でのハイキングを誘われたがガチすぎて断ったことすらある。しかもどう考えても今の私はハイキングできるような準備状態ではない。いや、ここまで来ておいて今更言うのもなんだけれども。私は理鶯さんのガチハイキングについていけるようなタフな人間でもない。

「あの、理鶯さん、私やっぱり……」
「よし、着いたぞ」
「え……?」

同時に、視界を覆っている茂みたちを理鶯さんが掻き分けた。そこに広がっていたのは、山……ではなく。

「お花畑……?」

まず目に飛び込んできたのは、ここが横浜だとは俄に信じられないような広い青空。それから、凹凸のないなだらかな地面に広がる草花だった。

「野生のカモミールの群生地だ。小官がハーブティーを飲むときはいつもここで採取している」
「カモミール、ですか?」
「ああ。昨日、貴殿は言っていただろう。ストレスが強く、夜も眠れない時があると。それで、小官がカモミールティーを淹れてやろうと提案したのだ」
「あ、それで……」

恐らく、昨日の私はカモミールティーを淹れてもらうことには喜んで頷いたものの、それがまさかカモミールそのものを摘みにいくことを誘われているとは夢にも思わなかったのだろう。
ゆっくりと、花畑に近づいてみる。青リンゴのような、爽やかな香りが鼻を抜けた。

「わざわざ、連れてきてくれたんですか……?」
「ああ。苗字が心配だったからな」
「嬉しい……」

花畑なんて、来たのは子どもの頃以来じゃないだろうか。なんだか子どもみたいにはしゃいでみたい気になって、私は草花の中に駆けていった。

「すごい!きれい……!」
「転ばぬようにな」
「あはは。理鶯さん、保護者みたい」

一本、二本、と摘んでみる。理鶯さんが用意してくれたバスケットに入れていった。摘んだカモミールは、洗って花びらを取り除き、黄色い部分だけを乾燥させてお茶にするのだそうだ。子どもみたいに駆け回る私を、理鶯さんは穏やかに見守っている。気付けばバスケットはカモミールでじゅうぶん満たされていた。「このくらいか」という、理鶯さんの言葉を合図に、帰路に就く。

「……今日は、ありがとうございました。何だか、楽しかったです」
「ああ。小官も、貴殿が喜んでくれて嬉しい」
「……私」
「ん?」

これまで私は、理鶯さんには嫌われているのではないかと、不安だった。私の気持ちを知って、躱しているんじゃないかと。被害妄想だって、頭ではわかっているけれど、心が追いつかなかった。だから勇気が出なくて、ちゃんと気持ちを伝えたことはなかったのだ。……でも。

「私、理鶯さんのこと好きです。だから、今日こうして、一緒にお花畑に来られてよかった。理鶯さんが私の体調を案じてくれたのも、嬉しかったです」
「……苗字」
「もしかしたら、理鶯さんは私のことそういう風には思っていないかもしれないけど。でも、言っておきたくて」
「む……」

それきり、理鶯さんは黙ってしまった。……やっちまった。困らせてしまった。視線の行き場がなくなって、理鶯さんの持つバスケットのカモミールを見た。可愛らしい花たちが、折り重なって眠っている。

「ご、ごめんなさい。こんなこと急に言われても困りますね」
「いや。苗字、すまない。何と言うべきか考えていたのだ。……てっきり、貴殿は小官の考えがわかっているものと思っており言語化を怠った。小官の責任だ。戦場において報連相は必要不可欠。それを怠るとは軍人としてあるまじき失態だ」
「え、えーと……?」

重厚な語り口で捲し立てられ、理鶯さんが何を言いたいのかイマイチよくわからない。

「つまり……?」
「小官は当然苗字を大事に思っているし、貴殿の好意もしかと受け止めている」

相変わらず、言いたいことはよくわからなかったけれど。気付けば理鶯さんのでかくてごつい手が、私の片手を包んでいた。えっと、これってもしかして、ハッピーエンドってことで、オッケー?


2023/12/6
title by 誰花

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