ガタンゴトン、と揺れるあたたかな車内は、私を眠たくさせるには充分だった。
私の隣に座る人は、窓の外の見慣れない街並みには少しも興味を示さない。
何台も持った携帯電話を取り替えながら、ひっきりなしに誰かとやりとりをしているようだった。


海だけが見ていた




昨夜、帰宅したものの夕食をとる元気もなく11連勤目に備えてベッドにダイブした私に、「海でも見にいこうか」などという、なんとも似つかわしくない言葉を発したのは臨也だった。

「……うーん、それもいいかもね…また今度……」
「はいはい、おやすみ」

軽いキスが額に落とされ、そのまま私は死んだように深い眠りに落ちた。
——翌朝目覚めると、いつも起きる頃には姿を消している臨也が、私の目の前に立っていた。

「……あれ?臨也、今日は珍しいね……?」
「おはよう名前ちゃん。まあとりあえず、家出る支度しなよ」
「……へ?」
「海」
「うみ……?」
「ひどいなあ、行くって昨日言ったじゃない」
「…あっ!…で、でもあれって、てっきり冗談かと…」
「へえ、名前ちゃんは俺のこと、そういう意味のない冗談を言うような人間だと思ってたわけだ?」
「お、思ってない、デス……」
「あはは!ちょっとからかってみただけ。そんなに拗ねないでよ」

臨也が海を見に行きたいだなんてありえない。また冗談を言ってからかってるだけ!…だと思っていたら、どうやら本当だったらしい。

「あ。……まって、今日は朝イチで会議の日だ……!!やっぱごめんっ……今日は海行けないや……」
「だーめ」
「……え。」
「仕事なんてさあ、休んだらいいじゃない」
「いやいやいやいや」
「へえ、俺の誘いを断るなんて随分勇気あるなあ、感心するよ。でも、賢い名前ちゃんはそんなことするわけないよね?」
「ちょっ、ちょっと臨也……っ!」

そのまま強引に腕を引かれて、新宿のマンションを出た。
せめて、せめて仕事を休む連絡を……と思っていたら、手に持ったスマホをすかさず奪い取られてしまった。奪い返すこともできず腕を引かれたまま新宿駅に到着。……もうこうなったらヤケクソだ。どうにでもなれ!会社なんて知るか。思いっきり海を楽しんでやるんだから。

「で、電車……!?」
「逆に何で行くって思ったのさ?」
「いや……その〜……別に……」
「お迎えの車が来るとでも思ったわけ?」
「う、……うん……臨也のことだからって思って……」
「ハハっ、名前ちゃんはお伽話の読みすぎなんじゃないの?お姫様じゃないんだからさ。ほら、電車来ちゃうから早く!」
「えっ!か、各駅で行くの!?あっ、ちょ、ちょっと待ってってばっ!」





もうずいぶんと長いこと電車に揺られている。ビルを抜け、知らない長閑な街並みが流れる窓を、私はぼうっと眺めていた。てっぺんを通り過ぎた太陽が、明るすぎるくらいに車内を照らしている。……お腹、すいたな。

「お昼、どうしよっか」
「あぁそっか。名前ちゃんはご飯いるんだったっけ」
「……臨也はご飯、食べないの?」
「うん、いつも昼は食べてないんだ。でもだからって名前ちゃんがいるのにそれに気づかないなんて俺らしくなかったよ、ごめんね。向こうで何か買ってあげるよ」

私は、臨也のことを何も知らない。
一緒に住んでいるのにも関わらず、思えば食事らしい食事を一緒に食べたことなど無いかもしれない。いつも私が目覚める前に何処かに消えていて、私が帰る時間には既に家にいて、私より早く寝ることはない。昼間は何処へ行っているのか。もしかしたら夜も家にいないのかもしれない。お金には困っていないみたいだけど、仕事は何をしているのだろうか。食べ物は何が好きなのか。どんな友人がいるのか。身体だけで愛し合っている私たちは、「恋人」という肩書を求めたことはない。今まで、この関係に名前をつけようなどと思ったこともなかった。私は臨也のことを、何も、知らない。





プシューっと音を立ててドアが開くと、潮の香りがつんと鼻を掠めた。古びた木造の駅は、まるでふたりを非現実世界にいざなうゲートみたい。こんなロマンチックな台詞を、臨也に言えるわけがないけれど。
改札を抜ければ、目的地の海が目の前に広がっていた。近くのカフェテラスで珈琲とサンドイッチだけ買ったら、ゆっくりと砂浜に続く階段を降りる。時刻は午後二時。昼食なんて時間はとっくに過ぎているが、そんなことはさして問題じゃなかった。

「臨也はさ、どうして海なんか見たくなったの?」
「どうしてって?今日は珍しく質問責めだねえ、名前ちゃん。君は俺に興味津々ってわけだ。悪い気分じゃないなぁ」
「茶化さないでよ。だって、臨也って……」
「海なんてイメージない?」
「、あ……うん。そう」
「そうだねえ、その通りだ。正直言えば、海が見たいなんて一度も思ったことがない。そうだな、今日は俺の気紛れとでも思っておいてくれればいい」
「もう、なによそれ。……あ、もしかして臨也、仕事で悩んだりしてる?」
「あのねぇ、名前と違って俺はそんなに繊細じゃないよ?」
「わ、私が悩んでたの、知ってたんだ」
「そりゃわかるさ。誰かさんが毎日毎日、死んだような目をして帰ってきて、死んだように寝落ちするとこ見せられたら、嫌でもね?」
「うぅ……耳が痛い……」
「名前ちゃんさ、連勤続きなことだけじゃなくって、会社の人間関係にも悩んでるでしょ」
「……臨也には何でもお見通しだね」
「はは、俺を誰だと思ってんのさ」

いやいや、誰だと思ってんのさって言われても。何者なのか教えてくれた事なんてないくせに。臨也は私のことを何でも知っているというのに、臨也は私に何も教えてくれないじゃない。わかってくれていたことへの嬉しさに混じって、ちょっぴり拗ねる気持ちを誤魔化すように曖昧に笑って見せた。
広大なブルーと、細波の音が心地よい。一定の、それでも少し不揃いなリズムが全身に反響する。現実世界なんか、何処かへ置いていってしまうみたいに。都会の喧騒から逃げるように各駅停車で海へ向かう男女、なんて。私たちまるで心中するみたいだ。そんなおセンチな妄想が、死ぬつもりなんて1ミリもない私の脳内にふと浮かんできたことが可笑しくて、くすりと笑った。しかし面白さを共有しようにも、“死んだら救われるなんて人間は愚かだ”と言っていた彼に伝えたところで、こっぴどく馬鹿にされることは目に見えている。

「なに笑ってんのさ?」
「わ、笑ってないです〜」
「ふうん」

臨也はにやにやと私を見つめて笑っている。そんな顔さえも整ってるなんて反則だ。どこを探しても、この人に勝てる要素が見当たらなくって、「なんかだんだんムカついてきた」と言ったら、俺は何にもしてないのにね?とさらに上機嫌に笑うだけだった。

「……海、きれいだね」
「うんうん、そうだねえ」
「臨也、本当に思ってる?」
「ああ本当だとも」
「嘘ばっかり。わざとらしすぎるもの」
「ひどいなあ。俺、嘘なんかついたことないのに」
「それも嘘」
「ははっ、名前ちゃんには何でもバレちゃうなあ」
(それも、嘘、)


それからしばらく私たちは、ただ広大な自然の中でいろんな話をして過ごした。よく考えたら、臨也とこんなにたくさんの言葉を交わしたのは初めてだった。暮れ始めた陽の光が、彼の顔に影を落とす。その横顔は、オレンジとブルーの絵の具を混ぜたような、海の色にひどく美しく映えていた。それでもやっぱり、こんなにも静かでゆっくりとしたこの場所は、冷たいコンクリートが似合う臨也には、悲しいほど似合わない。

「あっ!そういえば、携帯返してよ」
「嫌だって言ったら?」
「ちょっと、臨也。めんどくさいよそれ」
「名前ちゃんにそんなつれない態度とられたら……俺、悲しくて立ち直れないかも……」

ハァ、とわざとらしく溜息をつく臨也は、演技じみた台詞を吐きながらも躊躇無くスマホを返してきた。何だったんだ今の茶番は。私は飲み干したアイスコーヒーのカップを、肩掛けの鞄の中に放り込んだ。


「私今日さー、当日欠勤どころか無断欠勤しちゃったんだよね」
「あっれー?!それってぇ、大丈夫なのー!?」
「わざとらしすぎる!あんたのせいだわ!」
「うそうそ、謝るよ。ごめんってば」


でも助かったのは本当で。あのまま仕事をし続けていたら、いずれ私は壊れていたかもしれない。私の為に臨也が誘ってくれた、なんて乙女みたいな妄想はしない。そんなのありえないことぐらい、私がいちばんわかってる。彼がどうして海になんか来たがったのかは未だにわからないけど、そんなことはもう気に留めても仕方ないのだ。臨也本人に聞いたところで、茶化してはぐらかされて、結局のところ何もわからないだろうから。
受け取ったスマートフォンの着信通知を開く。鬼電の形跡が残っているものとばかり思っていたのに、現実というものはもっと、味気のないものだったらしい。


「臨也、私ね?当日無断欠勤したこと、どうやって謝ろうとか、いっそのこと辞めちゃおうかとか、いろんなこと考えてさ」
「うん」
「それにね、私が急に休んだことで私が抱えてたたくさんの案件、誰も代わりにできる人いないし、私のせいで職場のみんなを困らせちゃったなって、罪悪感を感じてたの」
「……」
「でもね、見てよこのメール!いつも通りなの、何もかも。あはは、おかしいでしょ?」
「……名前ちゃん、」
「私が居ても居なくても、なんにも変わらなかったんだって!あ、はは、ほんと、馬鹿みたいだなーって思っちゃってさあ、だってさぁあんなに身を粉にして辛い思いしてでも自分が辞めたら困る人がいるとかどうとか考えてたのだって全部全部私の独りよがりだったってことじゃん?それってマジですべらない話だよね!サイコロ回ってきても安心だわ〜」
「名前ちゃん!」
「……、っ」


しん、と静まり返ったふたりの間に、波の音だけが微かに響いていた。呼吸の音ひとつでも、簡単に壊れてしまうほどの静寂。水平線に沈み始めた太陽と、それを迎え入れようとする海原だけが、美しく儚げで、それでいて何よりも強く、息をしていた。この海になら、飲み込まれてしまっても、構わないような気がした。足首を濡らす潮に、このまま攫われてしまっても。




「ね、臨也。私と一緒に死んでくれる?」


私がこう言ったら、臨也はなんて嘘をつくのかな。冷たい目をして、レンジでチンしたみたいな、あたたかいニセモノの笑顔で。いいよ、って、言うのかな。臨也はきっと、私の気持ちを知っていながらずっと、この先も私を見ることはないんだろう。それでもいい。それでもいいから、今はその上質な嘘に愛されたいの。


「ダメ」


いいよって、言葉を聴く準備をしていたのに。上手に創り上げられた、嘘みたいにきれいな笑顔を見る準備をしていたのに。


「絶対、ダメだよ」


どうして私の目の前にいるこの人は、こんなにも泣きそうな顔をして、消え入りそうな声で、ダメ、なんて。それじゃあまるで、まるで私を、

「死ぬなんて、俺が許さない。絶対に」
「……どうして」
「どうしても」

腕を引かれて身体の支えを失った私は、今にも泣き出しそうな男の腕の中に収まる。……もしかして、もしかしなくても、私は臨也に抱きしめられて、る?

「……困るから」
「…………え……?」
「名前ちゃんが居なくなると、俺が困るんだよね」
「……う、うそ……!だってそんなのっ、臨也は嘘つきだよ……っ!私のことこれっぽっちも見てないくせに、!私は、私は臨也のこと……っ」
「愛してる」
「……!」
「愛してるんだ、名前」
「いざや、」

今までに見たことのない真剣な眼差しで、臨也が私を見つめる。目が、離せない。

「だから、絶対に死ぬなんて許さない。俺と生きてよ」

「…………ふ、ふふ、」
「……このタイミングで笑う?名前ちゃん、もうちょっと空気読んでくれないかなー?」
「ふふふ、ごめんごめん!だって臨也、それってまるでプロポーズみたいなんだもの」
「あはは、誓いの指輪はいるかい?」
「らしくない冗談言っちゃって。……でも、もっと大事なもの貰ったから、指輪なんていらないよ」
「……」
「臨也、私も。私も愛してる」
「知ってるよ」
「……嘘つき」
「ははっ、名前ちゃんにはなんでもバレちゃうな」


陽が沈んでしまう前に、ふたり並んで現実世界に戻るためのゲートをくぐる。まるで海が飲み込んでくれたかのように、私を満たしていた不安や恐怖はもう姿を消していた。
人気のない車両で揺られながら、私は臨也の肩に頭を預けて眠った。目が覚めることに怯えて眠れなかった日々はもう終わり。臨也が不器用な手つきで優しく撫でてくれるのが心地よくて、永遠に駅に着かなければいいのに、なんて思いながら。
……この後、駅について目が覚めた私は、自分の左手の薬指を見て驚くことになる。




2020/6/14
title by 確かに恋だった

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