ノ ン フ ィ ク シ ョ ン を
揺 蕩 う 僕 ら



それは、ある気持ちの良い初夏のことだった。中間テストを目の前に控えた高校生達は、その日の最後の授業が終わると思い思いの場所に散開していく。塾や予備校に行く生徒、ここぞとばかりに遊びに行く生徒、芸能活動に力を入れる生徒。私はと言えば、塾や予備校に行くお金もなく、家は集中できない、芸能活動ももうやめてしまった、ということで、教室に居残って勉強をしていた。

暑いな、と感じてふと我に返る。ああ、もう夕方だ。そろそろマックに移動して勉強の続きをしようかな、なんて考えながら伸びをした。立ち上がり、鞄を持って振り返ると……もう一人、教室に人がいたことに、気がついた。
今まで全然、気付かなかった。私の二つ後ろの席で、思いっきり突っ伏して鼾をかきながら眠っている、四葉環だ。水色頭のつむじが目に入った瞬間、『どきん!』と、(いや、だなぁ。今の、私の心臓の音?)

「のんきだなぁ……」

なんて、自分の心臓を誤魔化すみたいに、あえて口に出してみる。それにしても、今や超人気グループとなったアイドルのメンバーとは思えない無防備さだ。起こそうかどうか迷っていると、環は「ふごッ」と鼻をならしたかと思うと、「うわぁ!寝てた!」と叫びながらガバッと起き上がった。

「ごめん!そーちゃん、寝過ごした!……って、学校……?んで、そーちゃんじゃなくて、名前っち……?」
「び、びっくりした……」
「あ、おはよー、名前っち」
「いや、おはよーってあんた、もう夕方……」

環は私の言葉を見事に無視して、「んー」と伸びをした。顔にはくっきりと机のあとがついている。

「てか名前はこんなとこで何してんの?」
「勉強だよ。あんたはさ、こんなところで居眠りなんて、仕事は大丈夫なわけ?」
「ん、今日はテスト前だからオフだった。ゆっくり寝られてラッキー」

人なつっこい笑みをこちらに向けて、環は机に再びしなだれかかった。てっきり環ももう帰るのかと思ったんだけど、どうやらまだ眠気が取れないらしい。とろんとした環の目は、とても心臓に悪い。余計なことを考えないうちにそろそろ行くか、と腰を上げると、環はぶすっとした顔で「えぇーっ」と声を上げた。

「名前っち、もう帰っちゃうの?俺とお喋りしようぜー」
「いや……もう起きたなら帰ればいいじゃん」
「だって、帰ったらいおりんが勉強しろってうるさいんだもん」

いしし、と環は歯を見せて笑う。そういえば、環と一織は他のメンバーと一緒に寮暮らしをしてるんだったか。ガミガミと小言を言う一織の姿が目に浮かぶようで、私は少し笑ってしまった。……別に急いで帰る用事もないので、環の誘いに乗り、少し話していくことにした。

「んーと、最近面白いこととかあった?」
「……お喋りしようぜとか言ったくせに、早速話題ないわけ?」
「うるさいなー。えーとじゃあ、名前っちは好きな奴とか彼氏とかいる?」
「え……?!」

ど、どういう意味……?!環の顔を見るけど、いつもと同じように眠そうな顔をしているだけで、環の考えは全く読めない。あーもう、やっぱり心臓に悪い!

「べ、別に……そういうのは特に……いないけど……」
「そーなんだ!じゃあさ、ちょっとお願い、あんだけど」
「何よ……?」
「俺と付き合ってくんない?」
「は?!」

突然飛び出た爆弾発言に、「ゴホッ!」と思いっきりむせてしまう。と、突然何言ってるのこいつ?!

「あ、間違えた。俺と、付き合ってる『フリ』してくんない?」
「つ、付き合ってる、フリ……?」
「そー。実はさー、今度恋愛ドラマ出るんだけど、さすがに恋愛経験0じゃ頼りないってそーちゃんに言われたんだよね。だから、名前っちに手伝ってもらって雰囲気だけでも味わえないかなって」

なーんだ、なんて落胆している場合ではない。私は冷静を保つのに必死だ。
環は、高校に入学して最初に仲良くなった男の子だった。気が合うので何かと一緒にいたから、『付き合ってるの?』なんてからかわれるのもザラだったけど、私は環のことを異性として全く意識していなかった(この頃の自分を殴ってやりたい)。それが変わったのは、アイドルとしての環を初めて見たとき、だった。たまたま、ネットで話題になっている動画を見ると、そこには、普段の環からは想像も出来ないほど、キレのあるダンスで、自分の仲間たちを救う環の姿があった。
そこから環が一気にトップアイドルへと上り詰めていくのは、時間の問題だった。
高校で少し仲が良いくらいの自分が、トップアイドルである環と釣り合わないなんてこと、わかっていた。だから、必死に私は気持ちを押し込めて今までやってきたのだ。なのに、この男は、こうやって私の心を、いとも簡単にぐちゃぐちゃにしてしまう。

「……ダメ?」
「……そ、それって私じゃない方がいいんじゃない?マネージャーさんとかいるでしょ……?」
「うん、でも、やっぱマネージャーだと『仕事』って感じがしちゃうんだよね。頑張んなきゃって無駄に気合いが入っちゃうっていうか。そーじゃなくて、もっと、フツーっぽいの、味わってみたい」

そう言うと、環は私の返事も聞かず、「じゃスタートね」と言って立ち上がり、私のすぐ隣の席に座った。無駄にどきどきと五月蠅い心臓を、どうやって止めればいいのかわからない。窓から入る夕日の赤が、余計に私を混乱させてくる。

「名前」

環は私の名前を呼び、手を取った。大きい、男の人の手。暖かい。

「好き、だよ」

じんわりと、よくわからない吐き気のような叫びのような感覚が胃の中を上ってくるのを、何とか押しとどめる。環の顔を見るのが怖い。自分が今どんな顔をしているのか、環に見られるのが怖い。環の手に包まれた自分の手ばかりを見ている。冷静になれ、冷静になれ私。これは、一時の戯れだ。環にとっては、お芝居のためのただの練習だ。このお芝居は、いつかは終わる。今身を預けてしまったら、お芝居が終わった瞬間に、奈落に落ちてしまうのだ。冷静になれ、冷静になれ私。これは現実じゃない、残酷なお芝居だ。身も心も預けちゃダメだ。

「……名前も、何か言ってみて」
「……あ、私……」
「難しい?」
「……ごめん……できない……」

いつのまにか、自分でも気付かないうちに、私の目からは涙がぽろぽろと流れ落ちていた。環に掴まれていた手を振りほどき、慌てて涙を拭う。

「ご、ごめん。そんなに嫌だった?」
「ううん、違う、違うの」

これ以上、自分の心に嘘はつけない。でも、環のことも困らせたくない。

「私、演技とかやっぱ、できないや……素人だもん」
「……今わかったんだけど。俺、やっぱ恋愛ドラマって向いてねーかも」
「ええっ?そ、そんなことないよ!ごめん、私のせいだよね、環は悪くないよ!私がちょっと演技とか……難しかっただけだよ……!」
「いや、名前っちはすごい良かったよ。俺が、演技とか苦手ってこと。あと——」

環は、何故かもう一度私の手を掴んだ。

「ドラマなんかより、名前の方がいーなって思っちゃったもん」
「へ……?」
「……もっかい、続き、言っていい?」

そう言うと、環はぐっと私を抱き寄せ、耳元で囁いた。

「好き、だよ。名前」


2020/6/21

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