もしも空虚を愛せたら



※大学生




ゼミの課題が終わらない。できる限りの手は尽くしたと、自分では思う。でも終わらないのだ。どうしても終わらないのだ。いいところまでは行った。というか、行きすぎた。頑張りすぎた。たかだかゼミのレポート一つに対して、力を入れて論じすぎた。
結果、大量の参考文献。参考文献、まだ載せてない。締め切り、残り15分。

「本当はあんたなんかに、助けを求めたくなかった……!」
「そんなこと言っちゃっていいのかな、名前ちゃん。今、名前ちゃんを助けられるのは俺しかいないんだよ〜?」
「くっ……!この私がクズ川に助けを求めることになるなんて、一生の不覚……!」
「ひどいよ名前ちゃん!君まで岩ちゃんの真似してそんな呼び方するなんてさ!」
「うるっさいヘラヘラ男!」

目の前でニタニタ笑う男、及川徹は、ムカつく奴だ。誰よりもヘラヘラして、誰よりも軽薄に見せて、その実誰よりも努力を惜しまない。白鳥みたいな奴なのだ。

「おっとぉ〜?いいのかな?お願いする相手にそんな態度でいいのかなぁ?」
「うう……参考文献の打ち込みを……手伝ってくださぁい!コノヤロー!!」
「コノヤローは余計なんですけどぉ」

何で私がこんな奴に頭を下げなきゃならないのだ。事務作業を後回しにした私のバカ!こんなやつと同じゼミ取った私のバカ!こんなやつしか友達がいない私のバカバカッッッ!!

「だいたいさ、参考文献なんて、後回しせずに、載せる度に後ろにくっつけときゃ、後で困ることもないのに。きっとそんなバカは名前ちゃんだけだよぉ、ぷぷぷ」
「う、うるさい!私は美味しいとこ後に取っておくタイプなの!」
「はい意味わかりませーん」

及川は唇を尖らせておちょくるように言う。くそ、くそ、くそ!

「いいよねぇ、あんたは何でもそつなくこなしてさ、加えてモテモテで天才セッターで高慢ちきで糞性格悪い」
「途中から悪口」
「本当のことです!」
「だいたいね、俺みたいな超ウルトライケメン天才セッター様を捕まえて、こんな雑用させて、その上そんな口の利き方するなんて、名前ちゃんか岩ちゃんくらいのもんだよ」

ハイ出た、”岩ちゃん”。私はこいつが”岩ちゃん”と言う度、言い知れない苛立ちが胸の上の方までこみ上げる。むかむかと、胸焼けみたいに、その苛立ちは私の胸に居座るのだ。及川は、”岩ちゃん”以外に懐かない。知ってる。なのに、どうしてこう、微かにイラッとしてしまうんだろう。幼馴染みで、中学からずっと一緒にバレーボールをやっている相棒。そんな二人の間に入る隙間がないことなんて、頭で考えれば明々白々だ。及川が気軽に”岩ちゃん”と言う度、私は部外者だということを、思い知る。

「もーいいからっ!とにかく参考文献打ち込んでってば!私頭から入れてくから!及川後ろからよろしく!」
「ん、おっけ〜。お、あと残り5分だぞ。間に合うかな?間に合うかな?」
「う、うるせー!とにかく手を動かせ!」
「アハハ、焦ってる名前の顔超面白ーい」
「テメエ……!」

私の焦りとは裏腹に、及川はニヤニヤ顔を崩さない。しかも全然急いでくれない。あと4分、あと3分、刻々と近づいてくるデッドラインに、私の頭は混乱で爆発しそうになる。

「やばい、やばい、先生もう来ちゃったかな?……ああ、あと少しなのに、間に合わない……っ!」
「あと1分だよぉー」
「何なのお前、私の絶望を見てそんなに楽しい?」
「え、別に?……あと30秒……あと15秒……3…2…1」

ぽろーん、と間抜けな音でチャイムが鳴った。……終わった。人生、終わった。私はこのゼミに全てをかけていたのだ。及川と無駄話をしていたせいで、参考文献も打ち終わっていない上に印刷もしていない。うちのゼミの先生は厳しくて有名で、少しの遅刻も許されない。

「課題……完成してないけど……ゼミ、行かなきゃだよね……」

がっくり肩を落とした私に流石に同情したのか、及川も神妙な顔で背中をさすってくれた。
……と、思いきや。及川は私の背中をバシッと叩き、いつものようにニコニコと笑った。

「そんな名前に、サプラ〜イズ!」
「……は?」
「情弱な名前に教えちゃうよ。なんと、今日のゼミ、教授が風邪引いて休講でーす!」
「はあああああ?!?!」

慌ててスマホで休講情報を調べると、確かに、載っている。そういえば、先週、先生は時折咳をしていたような気もしてきた。

「何で最初に言ってくれなかったのよっ!」
「だってぇ、焦ってる名前ちゃんが面白かったんだもん」

……殺意ってこういうことを言うのだろうか。のほほーんと長い手足を投げ出してパソコンの前に座るこの男を、殴ってやりたいと本気で思ったのは後にも先にもこの時だけだ(……岩ちゃんなら、本当に殴ってるだろうな)。

「ていうのは、ウソウソ。ほんとはさ、名前ちゃんが俺を頼ってくれたの、嬉しかったんだ。一緒にいたいって思ったから、つい嘘吐いちゃったんだ」
「な……!」
「顔が赤くなってるのは、『私も徹くんと居れて嬉しいっ!』ってことかな?」

小さく、頬にちゅっとキスが降ってくる。

「さ、ゼミは休講になったことですし。今から、何する?」

2020/7/5

.