きみといっしょの明日のつづき



その日俺は、急に降ってきた雨に、たまらず近くにあった喫茶店に駆け込んだ。今となって思えば、その日の俺の行動は英断と言うほかない。その日たまたま入ったはずの喫茶店でその日たまたまマスターの代わりに店番をしていたマスターの孫、つまり名前がたまたま俺と同い年でたまたま俺たちのインディーズ時代からのファンでたまたま俺と名前は意気投合し、それ以来俺は足繁くその店に通うようになったのだから。

大袈裟に言えば、それは俺の人生を変えたと言っても過言ではないだろう。いつも、俺がきついときに、名前は俺をそっと支えてくれた。例えば、俺が他のメンバーに何となく引け目を感じていることも、名前は敏感に感じ取っていたようだった。だからと言って名前は別に俺を変におだてたりお世辞を言うわけではない。ただ静かに珈琲を出しながら、「そんな素敵な人たちから信用され、背中を任されているのが三月さんなんでしょう?」と、そっと背中を押してくれるのだった。

逆に、俺自身でも気付いていなかったような些細なことに、名前は気付いて声をかけてくれることもあった。番組で俺が上手くMCを繋げたとき。笑顔を絶やさず踊れたとき。そういう場面を見たらしい名前が、ちょんちょんと俺の肩を指でつついて、「このあいだの、歌番組。MCのとき、グッジョブでしたね、三月さん」と丁寧な物腰に似合わないいたずらっ子のような笑みで、俺も知らない俺の良いところを教えてくれるのだ。

いつしか俺は、この喫茶店に行くのが、珈琲めあて、ではなくなっていた。……これじゃ、キャバ嬢に本気で貢ぐキモいオッサンと同じじゃんか!と、頭をかきむしったりもしたけれど。……と、とにかく、俺はできるだけキモくならないように、あくまで美味しい珈琲のついでに名前と話せたら嬉しいなぁー的精神で、でもあわよくば名前ともっと仲良くなりたい、なんて思いながら、何度も店に足を運ぶのだった。

「あ……れ……?マスター、名前は?」
「ああ、またお前さんか。……名前なら、今日は体調崩してお休みなんだ」

名前が体調を崩すなんて、珍しい。俺は心配になりながらも、(……つっても、俺にできることなんてないからなぁ)なんて諦めムードで、1杯だけ珈琲を飲んだらすぐに店を出た。
名前と話して過ごすはずだった時間を持て余して、喫茶店の周りをふらふら歩く。歩きながら、頭に浮かんでくるのは、やっぱり名前のことだった。(やっぱ心配だよなぁ。マスターに差し入れでも預けてくればよかったな……)
ぼーっと考え事をしながら歩いていたから、周りをほとんど見ていなかった。人気のない角を曲がると、同じように向こう側から曲がってきた人物と危うくぶつかりそうになる。

「わっ!す、すみません……!」
「こちらこそすみません……って、え?!三月さん?!ゆ、夢じゃないですよね……?」
「ええっ?!名前?!なんでこんな所に?!」
「三月さんこそ!」

予想外の展開に、頭がついていかない。初めて店の外で会う名前は、制服姿と違ってラフな感じだった。いつもまとめている髪も、今日は下ろしていて、雰囲気が違う。見たところ、風邪という感じではない。思っていたよりも元気そうな姿に少し安心した。

「今日は体調を崩してるって……」
「あ、えーと……、それは間違ってはないんですけど……えーと……」

名前は、何やら言いにくそうに、唇を噛んだ。そういえば、元気そうとは言っても、よく見るとひどいクマだ。

「ご、ごめん。詮索するつもりなかったんだ。……でも、名前が元気なさそうだからちょっと心配でさ……」
「三月さん……。わ、私……」
「……!名前、泣いてる、のか?」
「ごめんなさい、ちょっと……いっぱいいっぱいで……」
「と、とりあえず落ち着こう!えっと、どっか座れる場所……そうだ、店!店行こう。近くだもんな」

突然泣き出した名前に、俺は右往左往してしまう。とりあえず、震えながら涙をぽろぽろと零し続ける名前の手を半ば強引に掴んで、俺はすぐそこにある喫茶店に舞い戻った。店に入るとすぐに、マスターが事情を察したようで、店の奥に通してくれる。その間も、名前はずっと、目を赤くしながら泣いていた。
腰を落ち着けて水を飲み、しばらくすると、ようやく名前は落ち着いてきたようだった。

「すみません、取り乱しちゃって……」
「いいっていいって。それより、大丈夫か……?」
「はい……」
「……何か、あったんだろ?」

そう声をかけると、名前はまたぽろぽろと涙を零し始めた。俺が名前の頭を軽く撫でると、名前はゆっくりと口を開いた。

「実は……ストーカーに遭ってる……みたいなんです。それで、ストレスで胃が痛くなって、今日は病院に……」
「ええ?!ストーカー?!」
「はい……。ポストに毎日、『君を見てるよ』って手紙が入ってたり……喫茶店の仕事が終わったらそれを待ってたかのように現れたり……洗濯物が気付いたらなくなってたり……!うぅ……」
「ごめん、話すのもつらいよな。もういいよ。もう、わかったよ」

ひっく、としゃくりをあげながら話す名前があまりにも辛そうで、俺は思わず名前を抱きしめた。……すぐに我に返り、バッと名前を放す。

「ご、ごめん!ストーカーが怖いって言ってんのに、男に急に抱きしめられたら怖いよな!?」

すると名前は泣きはらした目で微笑んだ。

「いいえ。三月さんは……怖くないです。抱きしめてくれて……すごく、嬉しかったです。……もう一回、抱きしめてくれませんか……?」

自分の耳を疑う間も惜しい。俺はすぐに、もう一度名前を抱きしめた。さっきよりも、強く、包み込むように。体の大きくない俺だけど、名前を包み込む準備なら、とうにできているのだ。

「……名前は、俺が守るから」
「三月さん……」
「名前、好きなんだ。ずっと、名前に会いたくて、俺が守りたいって、思ってた」
「嬉しい……。私も、三月さんが側にいてくれたらいいのに、って思ってました。……私も、三月さんが、好きです」
「ほ、本当に……?!嘘みたいだ……!嬉しいよ、名前……!」

ぎゅっと、名前を抱く腕に力を込めると、名前も俺の背中に腕を回してくれる。
俺ができることは限られてるけど。名前を守り、名前を安心させてやりたい。そう胸に誓った。




あれから結局、俺は万里さんに相談することにした。万里さんはまるで我がことのように迅速に動いてくれた。やはり芸能関係はストーカー等の被害は良くあることらしく、手慣れた様子で万里さんは色々な手続きをしてくれた。季節が変わる頃には、無事にストーカーが逮捕されたという知らせが舞い込んだ。

それまで、ストーカーから逃れるため一時的にホテル暮らしをしていた名前が一度家に戻るということで、俺も同行し、一緒に名前の家までやってきていた。

「やっぱり、2ヶ月も空けてると結構埃が溜まるもんですね」
「本当だな。……しかし、あれから2ヶ月か。長かったような、短かったような」
「ホテル暮らしは結構快適でしたよ」

一緒に掃除をしながら、部屋を片付けていく。名前の私生活をのぞき見ているようで、なんだかくすぐったい。

「……あのさ名前。提案があるんだけど」
「なんですか?バルサンなら買ってきてますよ」
「そうじゃなくて!……えーと。ホテル暮らしほどは快適じゃないかもしれないんだけど……。ここを出て、俺と一緒に暮らさないか?」
「へ……?三月さんと……?」
「あーいや、変な意味じゃないぞ!いや、変な意味ってなんだよ?!……と、とにかく。この部屋に一人でいるのって、ストーカーのことを思い出して怖くなったり、心細くなったりするんじゃないか、って思ってさ。……で、どうせ引っ越すなら、と、思ったんだけどな……?」

俺は誰がどう見ても物凄いしどろもどろで。ヤマさんとかがいてくれたら、『格好わりーなぁ』なんてツッコんでくれるんだろうけど、今は頼れるツッコミ役ももちろんいない。俺は怖くて、名前の顔を見られなかった。やっぱ、一緒に住むって急すぎたかな?!まだ付き合って2ヶ月だし……!名前、断りたいけど断れなくて困ってんじゃないか?!
色々な思いがぐるぐると巡って、やっぱり発言を撤回しようと前を向いた、そのとき。

「嬉しい……!もちろん、『はい』ですよ……!」

名前は思いっきり俺にぶつかってきて、俺を抱きしめながらそう言った。俺はよろけそうになりつつ、しっかりと受け止める。

「ほ、本当か……!あはは、俺、すっごい嬉しいよ……!」
「私、本当に三月さんがいて、良かった……!(ぐす……)」
「おーい、また泣いてんのか?名前。よしよし。俺のでっかい胸で泣きなさい!」
「そーいう三月さんも涙目じゃないですかぁ……!」

俺たちは抱き合いながら、お互いを守りながら、泣きながら、笑っていた。ああ、あの雨の日に出会った女の子が、大袈裟なんかじゃなく、俺の人生そのものを変えてしまったのだ。


2020/7/25

.