雨宿りよりやさしい



そう大きくない八乙女事務所だが、全員を集めればそこそこの規模になる。とはいっても全員集まることなんてそうそうないのだが、今日はその数少ない機会である、事務所全体での忘年会が行われていた。下っ端事務員である私の役目は、基本的にはお酌回りだ。普段は接する機会がないタレントさんたちにも一通り挨拶を済ませた頃には、忘年会自体もお開きの時間になっていた。

「あーあ……姉鷺さんとガールズトークする時間、なかったな〜」

一度仕事のために事務所に帰ると、当然だけどもぬけの殻だった。簡単な作業を済ませて事務所を出る。ふと、頬に冷たい物が触れた気がして空を見上げると、小雨が振り出していた。
(雨か……ツイてないな〜。天気予報じゃ、雨降るなんて言ってなかったのに……)
こんな日に限って折りたたみ傘を持っていない自分を恨む。とはいえ自分や天気予報をいくら恨んだって雨が止むわけじゃない。まぁ、この小雨なら少し濡れる程度で済むだろう。お酌回りのせいで疲れた体で、走って帰る元気もなかった。

とぼとぼと、歩き出した、その時だった。車道を走る高級そうな外国車が、キッと鋭い音を立てて、路肩に止まる。こんな高級車を乗り回すような知り合いはいないので、気にも止めずに通り過ぎようとした……のだが。

「おい、名前」
「ひぇっ!」

車の窓が開き、中から呼び止められる。吃驚して、つい変な声を出してしまった。どきどきしながらそちらを見ると、車の中にいたのは、なんとTRIGGERの楽さんだった。

「が、楽さん……!どうして……」
「今日は車で来てたから酒は飲んでなかったんだよ。で、帰ろうとしたら、雨の中とぼとぼ歩く女が見えたから声掛けた。送ってくから乗ってけよ」

確かに、今日の飲み会中、楽さんは一貫してウーロン茶ばかり飲んでいた(反対に、龍之介さんは酔っ払って大変なことになっていたけど……)。下っ端事務員である私の名前を覚えていてくれただけでも驚きなのに、楽さんが運転する車に乗せてもらうなんて、恐れ多すぎる……っ!

「いいいいいえいえいえ!大丈夫です!こんな濡れたまま乗ったら良い車が汚れちゃいます!」
「何言ってんだ?濡れてるから乗れって言ってんだろ。汚れたら拭きゃいい。……お前には、いつも姉鷺が世話になってるみたいだし。こんな夜中に女一人で帰らすほど落ちぶれちゃいないもんでね」
「でも……」
「あのな。俺がそうしたいから言ってんだよ。さっさと乗れって」
「うぅ……」

そうやって話している間にも、小雨だった雨は段々強くなってきて、肌寒さも増してきていた。確かに、ここで風邪を引くよりも、素直に楽さんのお世話になった方がいいのかもしれない。おずおずと頷き、「じゃあ……」と言って楽さんを見ると、楽さんは形の良い唇をニッと上げて微笑んだ。お言葉に甘えて、ドアに手を掛けようとすると、楽さんが慌てて振り返った。

「……おいおいおい、ちょっと待て、タクシーじゃねえんだぞ」
「へ……?」
「お前が乗るのは、こっち」

楽さんは、顎でくいくいっと助手席を指した。

「でも……」
「いーから」

早く乗れ、という無言のプレッシャーを感じて、早足で車道側に回り込む。「おじゃましまーす」と小さな声で言いながら身を屈めると、「そういうのいいから早く乗れって」と楽さんは笑いながら言った。

「すごい、格好いい車ですね。私、左ハンドルの車なんて初めて乗りました」
「……様になる車にしろって親父に言われて、仕方なく買ったんだよ。俺は別に、車なんてどうだっていいんだけどな」

楽さんははにかむみたいに笑った。静かに車が発進する。私は車に詳しくないけれど、優しい人の運転だな、と思う。

「……雨、降るって知ってたんですか?」
「ん?」

長い信号待ち、沈黙に耐えかねて、そんなどうでも良いことを聞いた。そっと楽さんを盗み見ると、雨で乱反射した信号の光があたって、横顔がきらきら光っている。

「雨が降る日に、ちょうど車なんて、先見の明があってすごいなって思ったので……」
「いや、雨だから車で来たんじゃ、ねーけどな」
「そ、そうなんですか……?」
「ずっと前から、今日は、車でって決めてたんだよ」

信号が青に変わり、車はまた優しく走り出した。ああ、もうすぐ家についてしまうな、とどこか寂しい気持ちが頭をよぎる。

「どうして……」

楽さんが視線だけでこちらを少し見る。この人のこんな優しい笑顔を、初めて見たかも知れない。車は、私の家をすっと通り過ぎた。私は楽さんの方を振り返る。

「口説くなら、しらふじゃないと、格好悪いだろ?」

雨で滲んだ街の明かりの中を、優雅に走り抜けていく。雨に切り取られた車内は、まるで外とは別世界みたいだった。高鳴る鼓動は、たぶん、アルコールのせいじゃない。

2020/8/16

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