※社会人設定





ひっきりなしに響き渡るガヤガヤと耳障りな話し声。お酒と煙草の臭い。いつもと違う距離感。どれを取っても、後悔しかなかった。会社の飲み会なんて、いつぶりだろうか。基本的には断っているのだが、今回ばかりはと、課長に強引に連れてこられてしまったのだ。

「苗字さん、ノリ悪いんだからもう〜!ほら、飲んで飲んで!」
「はあ……」

課長はしきりに、「飲みニケ—ションだよ!飲みニケ—ション!」と言った。前時代的だなぁなんて、言えないけど。素直に感心する。多分、普段から人と余り接しない私を見て“親切心”で、この誰の物かもわからない歓送迎会に呼んでくれたのだろう。でも、ハッキリ言って余計なお世話、だ。会社の人と仲良くしたいなんてそもそも思ってないし、お酒はめっぽう弱いのだ。ああ、早く帰って一人でご飯を食べたいし、何でもないテレビをボーッと見たい。

「そういえば苗字ちゃんってカレシとかいるの?」
「えっと……」

いつの間にか、呼び方が苗字さんから苗字ちゃんに変わっている。そして何となく、(物理的な)距離が近くなっている。セクハラとか、そういうことではないと思いたいけど。こういうのが嫌なんだ。だから来たくなかったんだ……と思いながら、なんとか苦笑いをして、お通しのザーサイをつついていた。

「佐々木課長!そういうの、今時じゃセクハラッスよー!」

良く通る声でそう聞こえた。そのあと、ぐいっ、と、肩が押される感覚。先ほどまで『そんなに近づく必要ある?』と思うような位置にいた課長と私の間に、無理矢理人が入ってきて、間に座ったのだ。

「オッ!今日の主役じゃないかぁ!」
「やだなあ、主役、俺じゃないッスよ。今日は経理部の新人歓迎会じゃないッスか」
「そうだったかな?でも山本君、キミは今日いっぱい数字上げたんだから、ほとんど主役みたいなもんだろう!ほらっ、飲め飲め!」
「あざーっす!」

茫然と、課長と話し始める山本さんを見た。営業部の大エースがやってきて、課長はすっかり私のことなんて忘れて、山本さんに夢中だ。お陰で私は無事うっとうしい課長から解放されることができた。……と思ったら、山本さんはちらっとだけこちらを見て、一瞬ばちっと目が合った。助けてくれた……のだろうか。

「……お、ビールがなくなったな。山本まだ飲むだろ?」
「あー……、苗字さん、大丈夫?」
「へっ?!」

突然自分に話が飛んできて、変な声を出してしまった。うう、課長もこっちを見ている。

「苗字さん、何か顔色悪いし、具合悪そうだけど、帰った方がいいんじゃねえ?」
「えっと……」
「……課長、俺、苗字さん駅まで送ってきますっ!」
「おお!山本ぉ、さすがジェントルマンだな。送り狼すんなよー!」
「あはは、しませんって!」

朗らかな笑顔のまま、山本さんは小さく、「行こうぜ」と囁いた。そそくさと鞄を取り、小汚い居酒屋の出口に向かう。山本さんはまるで本当に介抱してくれるみたいに優しく私の腕を掴んで、そのまま一緒に店を出た。
課長から助けてくれて、しかも飲み会から抜け出すのを手伝ってくれるなんて、何て優しいんだ。仕事が出来る上に上司にも気に入られてしかもこんな地味な同僚にも優しいだなんて、神はこの人にいくつ与えれば気が済むのだろうか。

外に出るとぽっかりと間抜けな月が浮かんでいる。生ぬるく吹く風が不思議と心地よかった。

「ありがとうございました。抜け出させてくれて」
「あー、いやごめんな、どっちかっていうと、自分のため。俺も抜けたかったから苗字さん利用しちゃった。佐々木課長、悪い人じゃないけどなー、飲むとダル絡みしてくるからさ」
「いえ、すごく助かりました」
「それは良かった。苗字さん、JR?」
「はい」
「じゃ、一緒だ」

山本さんは当然みたいに隣を歩き出した。なんだか不思議な心地だ。営業部のスーパースター、女子社員の憧れのまとである、あの山本さんと一緒に歩いているなんて。そもそも、山本さんが私の名前を覚えていてくれたことから驚きだ(さっき課長が呼んでたのを聞いただけかもしれないけど)。

「でも、ちょっと意外です。山本さんって、飲み会とか好きなイメージです」
「あー、好きじゃねーよ。得意なだけ」
「得意?」
「そ。苗字さんは飲み会不得意でしょ。その反対。それだけ」

そう言って、眉尻を下げて笑う表情に、心臓がドキッと鳴る。

「……得意なのに、好きではないんですか」
「まぁね。俺なんて、人に媚売るくらいしか脳ねーもんな。楽しくは、ないな」
「そ、そんな……。山本さんは仕事も凄いし……」
「アハハ、フォローありがとな。でも、仕事だって、こんなの全部、ご機嫌取りが得意なだけだよ。……俺はさ、中身のないペラペラヤローだよ。だから必死に、笑顔振り撒いて、その場を盛り上げて、楽しい雰囲気にしてるだけ」
「山本さん……」
「今日の取引先の社長も、『山本君!期待してるよ!』なんつってさ。期待なんかされたって、俺には何もできないのに。俺には何も、ないのにな」

何も、言えなかった。何か言葉を発したとしても、きっとそれは私の罪悪感を慰めるだけで、山本さんの心には響かないだろうと、思ったから。ただただ流れる気休めみたいな沈黙の中、私は彼を見つめるしかできなかった。
……すると突然、山本さんはパン!と両手で自分の頬を叩いた。ビックリしてそちらを見ると、叩かれた部分がくっきりと赤くなっている。

「ごめん!こんなこと言われてもこまるよな。あー、ビール飲みすぎたんかな。うし、気合い入れ直す」
「困るなんて、そんなこと、ないです。私こそ、気の効いたこと言えなくて……」
「……いや、何も言わないでくれて、ありがとう。変に励まされるより、百倍嬉しかったよ。なんだろうな、苗字さんって、何か話しやすい雰囲気っつーか」

山本さんはまっすぐに私の目を見つめながらそう言った。お日様みたいな瞳から、目を離せない。山本さんが同僚の皆や、上司、取引先の方にまで人気がある理由が、ようやくわかった気がした。

「山本さんが、何もないなんて、そんなはずないです。だってこんなに、暖かい目を、してるんだもの」
「……苗字さんって、おもしれーのな。何か、他の人と違う気がする」
「そんな……。山本さん、きっと疲れてるんですよ。嫌いなのに、得意なこと、頑張りすぎて、ストレス溜まってるんです。何か好きなことして、ストレス発散しましょう!それがいいです!」
「好きなことね……」

少し考えるように、山本さんは顎に手を当てて首を傾げた。その姿はなんだか少年のようで、私は少し嬉しくなる。

「……一つだけ、あった。好きなこと。俺自身も何でか忘れてたんだけど……俺、野球が好きでさ」
「野球、ですか?」
「ああ。結構野球少年だったんだぜ。……色々あってやめちまったんだけどな。これでも結構上手くて、期待もされてたんだ」
「いいじゃないですか、野球!」

私が大袈裟に喜ぶと、山本さんも少し嬉しそうに笑った。野球が本当に好きだったのだろう。先ほど見た少年の面影が、山本さんの心にまだ野球が住んでいる証左のような気がして、私は益々嬉しくなった。不思議な感じだ。昨日まで遠いあの人だったはずの山本さんのことで、どうしてこんなにも気持ちが動かされるのだろう。

「バッティングセンターでも行こうかな」
「いいと思います」
「……それってさ、」

山本さんは言いづらそうに、頭を掻いた。眉尻を下げて、窺うようにこちらを見る。

「苗字さんも一緒に来てくれる?」
「へっ……?」
「そうしたら俺、もっと元気が出る気がするよ」

冗談、だろうか?社交辞令だろうか?『なんてな』なんて言って、私の気持ちを惑わせるのだろうか?
でもいくら待っても、山本さんからは『なんてな』とは聞こえてこなかった。山本さんは、不安そうにこちらを窺っていた。

「わ、私で、よければ……」
「よっしゃ!ありがとな!あー、楽しみだ。今週の日曜、どう?」
「は、はい……」

驚くほど流れるように、とんとん拍子に決まっていく。私はただただ呆然としてしまって、山本さんの顔もまともに見られずにいた。

「お、JRついた。苗字さんどっち?」
「……総武線です」
「俺、京浜。じゃ反対側だな」

じゃ、また。そう山本さんは言って、いともあっさりと帰って行った。

普段関わりのない営業部の先輩社員に、飲み会の帰りに駅まで送ってもらった。
ただそれだけ。たったそれだけなのに。
どうしてこんなに日曜日が待ち遠しいのだろう。どうしてこんなに、あの少年の顔をもう一度見たいと思ってしまうのだろう。


少年野球は昨日でおしまい




2020/11/8

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