しん、と静まりかえる室内に、私達は二人、向かい合っている。時折聞こえる室外機の音が、辛うじて二人を現実の世界につなぎ止めてくれているかのようだった。目の前に座る百は、笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか、はたまたその全てか、色々な表情がまざったぐじゃぐじゃの顔をして、居心地が悪そうに手元を見つめている。

「……それって、どうにか……ならないかぁ」
「……うん」

百は、今や日本中誰もが知るようなスーパーアイドルだ。こんな私が、彼と対等に付き合えているなんて、現実味がないなぁなんていまだに思ってしまう。約3年。彼が私とは別世界の人なことを忘れてしまうには短すぎたし、これまでの関係をさっぱりと放り出すことが困難な程には長い年月だ。

「……ヘルシンキ、遠いね」
「……うん」

話しているだけなのに、喉の奥に何かが詰まっているみたいに、息苦しかった。まるで真っ暗闇の中を泳いでいるようだ。右も左も、前も後ろも上も下もわからない、暗闇で。必死に足をばたつかせ、息継ぎに集中している間は、暗闇に圧倒されずに済む。

3年前、偶然、仕事の付き合いで挨拶に行った芸能事務所で出会った私達は、瞬く間に意気投合し、気付けばいつも一緒にいるような仲になっていた。もちろん、百にとってre;valeは言わずもがな一番大事で、私はそこにまさか割って入れるだなんて思っていなかった。一番大事じゃないけど、結構大事。そんな立ち位置が丁度いい、なんて思っていたのだ。
そんな私の青く甘い、馬鹿みたいに幼稚な考えは、いとも簡単に崩れ去ることになった。

思いがけず、私に長期の海外転勤の話が舞い込んだのだ。

「俺は何も言えないよ。正直、名前とは別れたくない、けど。でも名前がずっと目標にしてたチャンスが目の前にあるなら、掴むしかないって思う」
「……百は、優しいもんね」
「ううん、俺、優しくないよ。だって今にも、……今にも、そんな仕事捨てて、ぜーんぶ捨てて、俺の所においでよ、って言っちゃいそう。名前の気持ちとか、夢とか、全部無視して、全てを奪いたくなってしまいそうなんだよ」
「あはは、それってプロポーズ?」
「うん、そうだね。そうかも。でも、こんなプロポーズ、名前を苦しめるだけだね」

百は顔をくしゃくしゃにして笑った。こんな時にでもきれいに笑えるのだから、やっぱりプロのアイドルだな、なんてどうでもいいことで感心してしまう。

「……私も言ってみてもいい?」
「なに?」
「百の気持ちとか、夢とか、プライドとか、現実とか、全部無視して、言うけど。百に、着いてきて欲しいよ。一緒にヘルシンキに来て欲しい。そして二人でゆっくり老いて、ゆっくり死ぬの」
「名前……」
「……なんてね。こんなプロポーズ、百を苦しめるだけだよね」

大きくてぱっちりとした目を何度もしばたいて、百は何かを我慢するみたいに鼻を鳴らした。私も真似をして、ぱちぱちと何度か瞬きをした。それでも、こみ上げてくる熱くて悲しい涙の塊を堪えることなんてできなくて。

「おかしいよね。こんなに苦しい程、好きなのに。一緒にいられないなんて」
「……俺たちは、きっと、またいつか出会うよ。きっとどこかで。信じられないくらい、綺麗な場所で」
「……うん」
「ねえ名前。暗闇で泳ぎ疲れたら、たまに休憩するんだよ。そして空を見て、大きく手を振って。そしたら俺が、きっと手を振り返すよ。俺がきみの、灯台になって、行く道を照らすよ。名前が、安心して、笑っていられるように」

百はいつのまにか、泣いていた。アイドルの笑顔なんて忘れて。小さな子どもみたいに、泣きじゃくる百と私。ちっぽけな私達には、こうすることしか、できなかった。
私達はきっと、これから先も別々の道を行くだろう。でもそれは、本当は暗闇なんかじゃなくて。百がくれた、信じられないくらい綺麗な物を、道しるべに、それぞれの道を歩んでいくのだ。



きみの道しるべになって




2020/11/22

.