恐ろしい、とんでもない学校に来てしまった。教育実習が始まって早2日目。私は既にメンタル崩壊寸前だった。謎の権力と暴力を振りかざす風紀委員をはじめとして、どう考えてもおかしい生徒たちが、どう考えてもおかしい事態を起こしまくっているのだ。でもこの学校にとってはこれが日常のようで、先生たちも生徒たちも、『またか』とでも言うように平然と暮らしているのだ。

「はぁ……」

もう何度目かもわからないため息が、思わず口から漏れ出した。これから帰ってまた明日の実習に向けて実習記録を書き、授業計画の見直しをしなくちゃいけないなんて。
……多分私、教職向いてないんだろうな。
そう、考えて、どんよりとした気分が更に落ち込んだ、その時だった。

「……この音……」

ぽろん、ぽろん、と聞こえてきたのは、ピアノの音、のようだった。優しく、切ないアルペジオが、疲れた心に響き渡る。
よく耳を澄ましてみると、ピアノ音はやはり音楽室から聞こえてくるようだった。私は何も考えず、気付けば音楽室に向かっていた。中を覗き込むと、そこには……

「……昨日から来た教育実習生か?」
「あ!確かきみは……獄寺くん……?」
「なんだテメー。俺に何か用かよ」

獄寺くんは、私がお世話になっているクラスにいる、目立つ生徒のうちの一人だった。どう見ても柄が悪いし、少し目を話せば煙草を吸っている。なのに成績はずば抜けて良い。
まさか、そんな獄寺くんが、音楽室で一人ピアノを弾いているだなんて、夢にも思わなかったのだけれど。

「さっきの、ピアノ……獄寺くんが弾いてたの?」
「……チッ。わりーかよ」
「う、ううん、そんなことない!むしろ、凄く素敵だったから、吃驚して……」
「……十代目を待つ間の、暇潰しだ」

獄寺くんは、ぶっきらぼうに目線を逸らした。十代目というのは恐らく、彼が仲良くしている沢田くんのことだろう。よく、とても通る大きな声で、沢田くんをそう呼ぶのが聞こえてきていた。

「……実習生。あんた、ピアノ、好きなのかよ」
「うん。……あ、でも、全然素人なんだけどね。子どもの頃習ってて、でもそれっきり。ただ、獄寺くんのピアノの音色が、不思議と懐かしい感じがして……」
「……!……あんた、泣いてんのかよ?」
「へ……?」

言われて初めて、自分が泣いていることに気がついた。パニックになってあたふたしていると、とても自然な動作で、獄寺くんがスッとハンカチを差し出した。

「……まだそのハンカチ使ってねーから、汚くないぜ」
「ご、ごめん……ありがとう……」
「……チッ」

獄寺くんは、照れたような、ばつの悪いような顔をして、相変わらず目線を逸らしたまま、窓の外を見ていた。

「ピアノくらい、いつでも聞かせてやるよ。まだ実習続くんだろ?」
「……うん。でも、私、向いてないのかなーなんて思い始めちゃって。私が無理に留まったら、生徒のみんなにも迷惑かけるし……」

……あ、やばい。また涙出てきた。慌ててポケットからハンカチを取り出して、涙を拭う。

「……俺は、あんたの授業、嫌いじゃないぜ」
「へ……?」
「……山本って野球バカも、あんたの授業はわかりやすいって言ってた」

獄寺くんはやっぱり窓の外を見ている。夕陽が射し込んで、音楽室全体が朱く色づいていった。

「……だから、辞めんなよ。名前センセ」

こちらを向いた獄寺くんが、ニヤッと笑ってそう言った。郷愁に満ちたソナチネと、残酷な程に美しい落陽の影に、私たち二人、包まれてゆく。



ふたつのソナチネの行方






2020/12/5
獄寺好きの友人の誕生日に捧ぐ!

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