ヨコハマ。光と闇が共存し、救いもあれば絶望もある、混沌の街。私はこの街が嫌いだ。広く美しい海と、ゴミだらけの波打ち際を同時に視界に入れながら、神経質な手つきで煙草を吸う隣の上司を窺う。
「今日は、お疲れ様です。疲れたでしょう」
直属の上司である、入間巡査部長は缶コーヒーを渡しながら物腰柔らかく私を労った。今日は私の初の現場仕事だった。ヤクの受け渡し現場を押さえるために路地裏に潜み、取り押さえたはいいが、いざ連行しようというときに、犯人の中にお偉方の親戚がいることが判明したのだ。入間部長が内々に上手く処理してくれたらしいが、この件は表沙汰にはできず、私の初仕事は、大変だった割に正当な成果は何も無し、というなんとも不完全燃焼な結果となってしまった。身体的にも、精神的にも、どっと疲れ切った私に、入間部長は「ちょっといいですか」と言った。そのまま少し足を伸ばしてやってきた、真夜中の山下公園は、日中と違って静まりかえり、どこか恐ろしげな雰囲気でもあった。
「私、警察官、向いてない、と思います……」
入間部長は、驚かなかった。というか、表情を変えなかった。いつも通り冷たい表情で、煙草の煙を口から吐いた。
「どうしてそう思うのですか」
「私……」
今度は彼は表情を変えた。はあ、とため息をついて、あからさまに眉根を寄せて嫌そうな顔をしたのだ。
「警察官に向いてないだなんて、羨ましいですね」
私はハッとなり、慌てて「す、すみません」と謝った。入間部長は気分を害した風でもなく、何でもないというように再び煙を吐いて、「いえ、こちらこそすみません、意地悪でした」と言った。
「……私、警察官に憧れてたんです。やっと警察学校を卒業できたときも本当に嬉しくって。これで、みんなを守るヒーローの一員になれるんだって。……恥ずかしいけど、本気でそう思ってたんです」
「……そうですか」
「でも、やればやるほど、知れば知るほど、こんなバカげた……ごめんなさい、でも、本当に、こんなバカげた仕事があるかって……思うようになって」
入間部長は私の話を促すように、軽く頷くように顎を動かした。
「世界には光と闇がある。私達はその闇を取り締まる。でも世界は均衡を保つように、絶えず闇が生まれ続ける。……キリが、ないじゃないですか。そしてその闇は、私達警察にもある。私達には、私達を救えない。ましてや、世界を救えるはずなんて、ないんです」
「……随分、ネガティブなんですね」
「あはは。そう、かもしれません。多分、ネガティブだから、警察になろうと思ったんです。この世は多分、放って置いても良くはならない。だから、自分たちで良くしていかなくちゃって。……でも全然、力及びませんでしたね」
入間部長にもらった缶コーヒーを開ける。プシュ、と小気味の良い音がして、一瞬遅れて豆の香りが鼻腔を満たした。リラックスする香りに、一気に肩から力が抜けて、初めて、今まで自分が全身緊張していたことに気付いた。
「苗字がそんなに規模の大きいことを考えていたなんて、思いませんでしたよ」
「……似合いませんよね」
「……いえ」
かぶりを振ってから、入間部長は髪を掻き上げるように額に手を当てた。そのやるせない動作が、何故かとても美しく、私はつい魅入ってしまう。
「確かに。あなたは警察官には向かないようだ」
「……です、よね」
「警察官は、世界の闇を引き受ける仕事だ。陰も陽も入り交じるこのヨコハマで警察になるなら、なおのこと。あなたは恐らく、その闇に耐えられない、陽の人間なのでしょう。こんな汚れ仕事は、俺のような薄汚れた人間にやらせておけばいい」
「……」
「……ですが」
ざ、と波が打ち寄せる音が響く。
「苗字のような人間こそ、必要なのかもしれないな。……俺が苗字を必要としてしまうように」
光と闇、救いと絶望が表裏一体の混沌としたこの街が、大嫌いだ。それでも大嫌いなこの街を私はこれからも守り続ける。美しい潮騒と、くゆる煙草のいがらっぽい匂いを、すぐ傍で感じながら。
明るい夜は来ない