この雑多な街シブヤにも雪は降る。水っぽい雪は積もることなく泥と混じり、この街の汚い景観によく馴染むようだ。
シブヤ駅からほど近く、宮益坂を少し上ったところに、私がバイトをしているライブハウスはある。今日は一段と冷えるなぁ、なんてぼんやり思いながらゴミを出しに裏口を出ると、決して綺麗とは言えない雪化粧が私を出迎えたのだった。今日はこれから大きなイベントがあるから、電車、止まらないといいけど。ゴミ袋の口をもう一度結び直し、寒さに身体を震わせながら中に戻った、その時だった。目に入ったのは、裏口入ってすぐ奥に小さく座る、人影だった。

「……幻太郎さん、またサボりですか?」
「おや、見つかりましたか」

我が街シブヤを代表するチーム、Fling Posseの一人、幻太郎さんが段の所に座り込み、本を開いていた。あれ、確か今、ちょうどFling Posseのリハ時間のはずだけど、と思った瞬間、ステージの方から「あれ?幻太郎がいないなぁ。ま、いっか★」という乱数さんの声がマイク越しに聞こえ、すぐにPAや照明との打ち合わせが始まったようだった。

「サボるとき、いつもここですね。音合わせに行かなくていいんですか?」
「そういうことは乱数に任せておけば間違いないですし、帝統がいれば寂しがることもないでしょう。ですので小生は休憩です」
「あはは、なるほど。うちみたいな小さい箱は、控え室がなくて申し訳ないです」
「いえいえ。床に座ることで精神を鍛えておりますので、拙者には丁度良かったで御座るよ」
「えぇ?!そうなんですか?!」
「ふふ。嘘ですよ」

ものすごい人気グループのFling Posseだけど、こうして小さなライブイベントにもたまに顔を出してくれる。もちろん、Fling Posseが出てくれればチケット即完売の満員御礼で、箱からしてもありがたいことこの上ないので、都合が合えば積極的に出演をお願いしているという話も聞いたことがある。そんな中で、こうして雑談をできるくらいには、メンバーとは顔見知りになることができた。特に幻太郎さんは、時折こうして裏口近くの物陰で一人過ごしていることがあって、通りがかる度にちょっとした雑談をするくらいの仲だ。

「外は雪が降り始めたみたいですよ」
「ああ。道理で底冷えしますね」
「いやいや、こんなところにいるから寒いんですよ。客席行ったらもうちょっと暖かいと思いますよ?」
「暖かい客席だなんて、そんな居心地のいい場所にいたら、ぽかぽかして眠ってしまうではないですか」
「あはは。居眠りする幻太郎さん、見てみたいです」
「乱数に叩き起こされますよ」

ステージの方を見ると、なにやら照明と真剣に打ち合わせしている二人が見える。まだリハは終わらなさそうだ。本当はこれからフライヤーの挟み込みをしなくちゃいけないし、雪が積もるようなら雪かきをしなきゃいけない。うちは地下にあるので、階段を降りるお客さんが滑って転んでしまったら大変だ。……色々と仕事は思い浮かぶ。でも私はそっと、幻太郎さんの隣に座った。

「おや。貴女もサボりですか?」
「ライブが始まったら働きづめなんですよ。今くらいいいじゃないですか」
「ふふ。麿が店長に言いつけてクビにしてもらうでおじゃる」
「どうせ嘘でしょう」
「ええ、嘘です」

幻太郎さんは、私の方を向いて相変わらず嘘くさい笑顔を浮かべた。こうしていると、色んな苦しいことを忘れられるような気がした。外で降る冷たい雪も、孤独も、絶望も、全部ひっくるめて。

「……幻太郎さん」
「なんでしょう?」
「嘘、をついてくれませんか?」
「はて?」
「……私のことが好きだと。愛してる、と、言ってくれませんか?」

どうして、自分がこんなことを口走ったのか、わからなかった。毎日、同じ事の繰り返し。そんな中、現れた、Fling Posseという非日常が、私の思考を狂わせたのかもしれない。

「いいですよ」
「……えっ……」
「名前、好きだよ。君のことが本当に大切だ。僕は君のことを愛してる」

幻太郎さんはとても美しい笑みでそう言ってくれた。この人は、綺麗な韻を踏むときと全く同じ、綺麗な笑顔で、私を騙してくれるのだ。

「嘘ですよ」
「……はい。わかってます。幻太郎さんは単に私のお願いを——」
「と、いうのも、嘘です」
「……え?」

悪戯っぽく微笑んで、幻太郎さんはすっと立ち上がった。「さて、そろそろ出番ですので」と言って真っ直ぐに歩き出す。吃驚して、座り込んでいた私は、我に返って立ち上がった。今の私に出来ることは、フライヤーの挟み込み。外の雪かき。今からの彼らのステージを最高のものにする手伝いをすること。そしてステージが終わったら、さっきの言葉の真意を、幻太郎さんに尋ねなければいけない。



或る雪の降る日のこと





2021/1/23

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