6時半、目を擦りながら、何度も鳴るアラームを何度目かでようやく止めた。朝が弱くたって朝シフトには入らなければならない。重たい瞼をどうにかこじ開け、ベッドの隣半分を見やると、いつもなら寝ているはずの人がいないことに気がついた。

「……幻太郎さん?」

呼びかけながら起き上がり、寝室から出て居間に入った、けど、どうやら居間にもいない。しかし、テーブルに置かれたマグカップを見るとコーヒーからはまだ湯気が出ていて飲みかけだし、家にいないというわけでもなさそうだ。とりあえず探すのをやめて、私は私の準備に取りかかる。と言っても、荷物はだいたい整理してあるし、着るべき服はもう決まっているからただ袖を通すだけのことだけれど。

「名前、起きていたんですか」
「はい、今日は朝シフトで……って、いうか、幻太郎さん、どうしたんですか?!」

洗面所から現れたのは幻太郎さん……だったが、どう見てもいつもと様子が違った。というのも一目瞭然、着ているのが、いつもの和装ではなくスーツ、だったのだ。

「何がです?」
「何がです?じゃないですよ。服、どうしたんですか?」
「ああ、これですか。なかなかいいでしょう。今日の授賞式のために、乱数が小生に見繕ってくれたんです」

何でもないという風に言う幻太郎さんは、飾り帯の代わりにベルトを、羽織の代わりにグレーのベストを纏っている。そういえば、大きな文学賞をもらったから、近々授賞式があるんだとこの前言っていたっけ。私は、幻太郎さんのどう見てもいつもと違う雰囲気に、視線を逸らせなかった。気付かずにじっと見てしまっていたみたいで、幻太郎さんのくすり笑いで我に返る。

「あらぁ、そんなに変ですか?あたくし」
「う、ううん!違うんです!そうじゃなくって……」
「ふふ。嘘ですよ。わかってます、貴女がこの装いを気に入ってくれていることくらい」

それはそれで、なんだか見透かされて悔しい気がする……。なんて、言っても意味がないだろうから、言わないけど。
窓から入ってくる朝日が部屋中を照らし、幻太郎さんの書斎が薄紅色に染まる。「ああ、朝日ですね。綺麗な朱鷺色だ」と幻太郎さんは言った。この部屋にたまに泊まらせてもらうようになってしばらく経つけど、朝番の日にしか見られないこの眺めを幻太郎さんと共有できたのは初めてで、何故かとても嬉しく感じてしまう。


「名前。お化粧、終わったら、ちょっとこっちへ来てくれませんか」

洗面所を借りて化粧をしている最中、そんな声が掛かった。仕事に行くとき、私はだいたい薄化粧だ。ものの5分程で、寝室にいる幻太郎さんのもとへ向かうと、彼はそこで姿見とにらめっこしているところだった。

「こっちとこっち。どっちがいいと思います?」

こちらを見もせずに言う幻太郎さんの左右の肩には、それぞれ違ったネクタイが掛けられていた。一つは、パッと見ただけでもわかる、高級そうなシルク生地で、シンプルなデザインのネクタイだ。紺とバーガンディの細いストライプが高級感を醸し出している。もう一つは、紫の地に金でペイズリー柄が描かれた、華やかで遊び心のあるデザインのネクタイだ。どちらも幻太郎さんによく似合っていて、甲乙付けがたい。

「私が決めるんですか……?」
「ええ。良く見て決めてくださいね。これで全ての印象が決まるのですから」
「せ、責任重大すぎますっ」
「嘘ですって。どうぞ気楽に決めてくださいまし」

そう言うと幻太郎さんは、ネクタイを両手に持ったまま、私の方にずいっと身を乗り出した。見慣れたはずの端正な顔立ちが急に近づき、今更ながらに緊張してしまう。

「赤面してるんですか?ふふ、愛おしいですね」
「わ、わざとやってますよね?」
「ええ。戸惑う貴女が可愛らしいので」

彼が愉快そうに笑うので、からかわれたのだとわかる。それでも、自分の顔が赤くなるのを止められるわけじゃない。私は必死にネクタイを選ぶフリをして、幻太郎さんの顔から目を逸らした。今顔をまじまじと見たら、心臓が爆発してしまうかもしれない。

「……決め、ました」
「随分時間がかかりましたね」
「だ、だって幻太郎さんがプレッシャーかけるから……っ!」
「はいはい。それで?どちらが良いと思いますか?」
「こっちが、いいと思います。……幻太郎さんの、瞳と同じ色だから」

そう言って、私は彼の右肩に掛かるペイズリー柄のネクタイを指さした。すると幻太郎さんはするりとネクタイを手に取り、私に差し出した。

「え、えっと……」
「名前が結んでくれませんか?いつも和装なので、ネクタイは不慣れなのです」

にこにこと笑う顔が、また私をからかっているようにも見えたけど。ネクタイを結んであげるくらいならお安いご用なので、素直に受け取り、彼の首に掛けた。……ネクタイを結んであげるだなんて、まるで新婚夫婦じゃないか。……なんて、もちろん口に出しては言えない。

「何を考えてるんですか?名前」
「な、んでもない、です……!」
「ふふ。また、顔が赤い」

できあがった結び目を鏡で確認しながら、幻太郎さんは機嫌良さそうに首を傾げた。ネクタイを締め終わり、最後に濃い紺のジャケットを羽織る。改めて目に飛び込んでくるその姿に、私はまた緊張を覚えてしまう。

「……ああ。今から授賞式に行くのは気が重いですよ。サボってしまいましょうか」
「な、何でですか?!折角素敵な着こなしなのに……」

ふいに彼は手を伸ばし、私の髪を軽く撫でる。

「貴女が、そんな風に可愛らしいから。貴女のいない所なんて、退屈に決まってます」

また嘘ですか、なんて。聞いても意味がないことは、私もわかっているのだ。



どうしようもなくまばゆい朝だ




2021/2/14
title by プラム

.