吐き出された煙が天井に昇っていくのを、ぼんやりと眺めていた。左馬刻さんは、書類から目を離すことなく器用に左手で煙草の灰を落としながら、「何か欲しいもんはあるか」と言った。

「欲しいもの、ですか?」
「何かあんだろ」
「欲しいものなんてありません。私は、今が幸せですから」

その答えが気に入らなかったらしく、左馬刻さんは不機嫌そうに眉をひそめた。

「ンなくだらねぇこと聞いてんじゃねぇよ殺すぞ」
「すみません。でも、お気持ちだけで充分です」

一年のうち、今日だけ。左馬刻さんは私を子どものように甘やかす。私はそれがくすぐったくて、もどかしくて、どうも苦手だ。気遣わなくていいと何度言っても、左馬刻さんは毎年、この日になると私を甘やかすのだった。

「……もう5年、か」

左馬刻さんは、独り言のようにぽつりと呟いた。私は自然と、左馬刻さんの横顔を見つめてしまう。

「……おし、今日の仕事は終わりだ。出る支度しろ、名前」

左馬刻さんは、かけていた事務仕事用の眼鏡をはずして、乱暴にデスクへ放った。



——5年前。
左馬刻さんの属する火貂組の末端構成員が起こした、とある内部抗争に巻き込まれて運悪く命を落としてしまったのが、私の父だった。左馬刻さんが駆けつけたときには一足遅く。病院のベッドに突っ伏してひとり泣いている私に、深く頭を下げて「責任は取る」と言った彼の真剣な表情を、今でも鮮明に覚えている。

「今日からここに住め。金は……まぁ、なんとか、してやる」

言われるがままに連れてこられたのは、何の変哲もない、普通のアパートだった。

「……あ……あの、ここは……?」
「俺の家だ」
「へ……?」
「あーーその、なんだ。俺はほとんど事務所で寝泊まりしてんだ。だからここは好きに使え。必要なもんがあれば言え。わかったか」
「は、はいっ!……えーと、あの……」
「左馬刻だ」
「さまとき、さん。ありがとうございます」
「礼なんか言うんじゃねぇよ。……元はといえば、うちの奴らのせいだ」

申し訳なかった。と深々と頭を下げる左馬刻さんを、許すことも、責めることもできない子供の私は、ただただ左馬刻さんの罪滅ぼしを受け入れるしかなかった。
それから私は、少しでもお返しをしようと、左馬刻さんの事務所に出向いて事務仕事の手伝いなどを自発的にするようになった。ヤクザの世界を赦すことなどできないけれど、それでも。男手一つで育ててくれた父を失い、家を失い、途方に暮れていた15歳の私に生きる場所を与えてくれたのは、他の誰でもない、左馬刻さんなのだ。




「親父さん。アンタの好きな日本酒、たんまり持ってきたから好きなだけ飲めや」

杯を捧げ、ぐい、と飲み干す。左馬刻さんが瓶を逆さにして墓石にかけた日本酒は、きっとものすごく高価な物なのだろう。それから、二、三言、お父さんと会話をして、「煙草吸って待ってっから、好きなだけ話してこい」と、私の頭をふわりと撫でて、車へ戻っていった。
左馬刻さんは、優しすぎて、ときどき不安になる。もう誰も彼を責めてなどいないのに、誰よりも彼自身が赦さないのだろう。自分で自分を傷つけ続けて、罪を償おうとしている。何をしたら、どんな言葉をかけたら、彼を救うことができるのかが、私にはわからないのだ。
……お父さん。左馬刻さんは、とても優しい人です。でも、とても、不器用な人です。


「意外に早かったな。15分くらいか」
「お待たせしてすみません!今日は、ありがとうございました」
「礼なんか言うんじゃねぇっつの。……ちゃんと話はできたか」
「はい、おかげさまで」
「そうかよ。なら、よかった」

左馬刻さんは運転席の部下に指示を出すと、車の後部座席に乗り込んだ。私はその隣の席にちょこんと乗り込んで、シートベルトを締める。どことなくいつもと違う会話のリズムが歯がゆい。なんだか無性に気まずくて、早く車が発進するのを願った。




「あ、あの、ここって……」
「おー。俺様の家だ」

てっきり事務所に帰るのかと思っていたら、私の住まわせてもらっている、左馬刻さんのアパートに停車した。普段、左馬刻さんがここに来ることは滅多にない。「中で話がある」と言う左馬刻さんを部屋に招き入れる。なぜだか嫌な予感がして、胸がざわつく。
ここにお掛けください、とソファを指差しながら後ろを振り返った瞬間に、「名前」と、嫌に飾り気のない、真っ直ぐな声で、名前を呼ばれた。

「お前、今日からもう事務所に来なくていいぜ」

耳を、疑った。あっけらかんとした態度で、声色で、顔で、言ったその言葉の、意味がまるで、わからない。

「え……は、?」
「だーから、今日からお前は自由だっつってんだよ」
「左馬刻、さん……?」
「悪かったな。5年間、俺に付き合わせちまって」
「あ、あの……っ」
「お前が18になって俺んとこから出てこうとしたときに、引き留めて傍に置いてたのは、俺の我が儘だ」
「左馬刻さん、」
「てなわけだから今日からは俺様から解放されてお前の人生を好きなように生きろ」
「左馬刻さんっ!!!」
「ンだようるせぇなァ!!!」

ハァハァと息を切らして、無言でお互いに見つめ合う。涙が溢れそうなのを堪えて、なんとか声を絞り出す。

「い……嫌、です」
「あ"ぁ"?」
「嫌ですっ!!」
「なんだとテメェ……」
「私がどうしたいのかは、私が決めます……!勝手に私の気持ちを決めないでください!」
「……は、」

堰き止めていた思いが、言葉が、溢れ出す。止めることなどもう、できなくて。

「左馬刻さんは、勝手すぎるんです……っ!18の誕生日に、これ以上お世話になるわけにはいかないと思って出て行こうとした私に、お前は俺のもんだって。そう言ったのは左馬刻さんじゃないですか」
「……あ?」
「それなのに、必要なくなったらバイバイ、って。そんなの勝手すぎますっ!」
「……」
「私が自分で決めたんです、これからは何があっても左馬刻さんについて行くって。それなのに、勝手に私の気持ちを決めないで下さい……!!」
「名前お前……」

左馬刻さんは、私が反抗するなんて思いもしなかったのだろう。目を見開いたまま、真っ直ぐに私だけを見ていた。何秒かの空白。そして、鼓動に同調するかのような低い声が、静かに言葉をこぼし始めた。

「……お前は」
「……」
「お前は、嫌だったんじゃねぇのか」
「……え?」
「親父が死んだ原因のヤツに、振り回されて、短ぇ十代を棒に振って、」
「そんなこと……っ」
「お前もう二十歳だろ。俺のせいで、勉強も夢も恋愛も。十代にやるべきこと、ひとっつもさせてやれなかったろ」

あなたがいたからそれで良かったのだと、言葉にして伝えたいのに、喉がつかえて声にならない。こんなに苦しそうに笑う左馬刻さんを、私は、真っ直ぐに見つめ返すことができない。

「どうしたらお前に償えるのか、ずっと考えてた」
「……」
「俺はお前を護りたかった。だが、お前を護り続けることがお前の自由を奪っているということにも気づいてた」
「……左馬刻さん……」
「それでも、手放す勇気がなかった。……ハ、笑えるだろ」

左馬刻さんの、バカ。償いなんて、そんなのもういらないのに。私に生きる自由をくれたのは、ただひとり、あなたなのに。なんてバカでずるくて意気地なしで不器用で、愛おしい人なのだろう。

「笑いません。絶対に。……私は、左馬刻さんに何て言われようが、左馬刻さんの傍に居ます」
「……なんで、だよ」
「私がそうしたいから、私が決めたことです」
「……」
「あのね、左馬刻さん。私、もう二十歳なんですよ。護ってもらうことしかできなかった子供の私なんて、もう何処にもいないんです」
「……名前」
「子供じゃない、私自身を、ちゃんと見てください」
「…………ああ。そう、だな」

左馬刻さんは、はっと息を吐いて、いつもみたく笑った。ニヤリと口角を上げて、目を少し細めて、自信満々な顔。やっぱり、あなたにはその表情がよく似合う。

「名前、お前は俺様の傍にいろ。これからも、ずっとだ」

もう、欲しいものなんて、何もない。5年前にあなたと出会ったそのときから、ずっとずっと、欲しくてたまらなかったものが、たった今手に入ったのだから。……ああ、いや。でも、もしも我が儘が許されるのなら。

「……やっぱり、私、左馬刻さんがほしい、です」
「ハッ、ガキが。大人ぶりやがって」

私の頭をぽん、と撫でて、「そう焦んじゃねぇよ安心しろ」と、左馬刻さんは耳元でくつくつ笑った。大人になりきれない私は、この早まる鼓動の意味を知らない。



子どもみたいなわがまま




2021/2/21

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