耳澄ませ世界


「ああ、何か、銃兎の音が聞こえる」
「……はあ?何意味わからんこと言ってるんだ?」

エアコンの風が熱すぎて、室内はまるで夏場かのように空気がこもっていた。心地良く消耗する感覚に身を委ね、少し意識が朦朧としてきたとき、だ。名前はまるで歌うかのように話し始めたのだった。

「別に、意味のわからないことなんかじゃないじゃない。ただ、銃兎の音が聞こえるって言っただけ」
「だから、それが意味わからんと言っているんだが」

何も、名前がわけのわからないことを言うのは初めてじゃなかった。名前はひねくれた哲学的な問答を好み、そのたびに俺は置いていかれるような焦燥を覚えるのだ。しかしそれを彼女に伝える術もなく、俺はなんとか誤魔化すように笑い、名前の様子を窺った。笑顔でない名前によぎる不安を、必死に隠しながら。

「銃兎の声、銃兎の呼吸の音、振動として伝わってくる心臓の音、銃兎の服が擦れる音、銃兎が本をめくる音」
「……それが、」
「そう、それが銃兎の音」

本当に意味が分からない。名前はまるで、ひらりひらりと指の間をすり抜け翻弄する蝶かのようだった。どんなに手を伸ばしても、届くことはない。俺は一人、茫然と立ち尽くし、蝶の方から籠に飛び込んでくれるのを待つほかない。
俺は立ち上がり、窓に向かった。暑くて、頭がぼうっとする。換気をしようと思ったのだ。大型家具店で買った安物のカーテンは、値段の割に遮光性が高く、頑張ってくれている。カーテンを開けると、それまで遮られていた外の明かりが射し込み、部屋が一気に明るくなった。そしてそのまま窓を開けると、暑苦しい空気がそとの冷たい空気に吸い込まれていくのがわかった。そうして俺は、初めてこの部屋が1つの固まりであったことに気がつくのだった。
ひやひやと頬に当たる冷たさが心地良いのに、何故か気持ちは晴れなかった。自分の内に居残る情緒を無視するため、窓を閉めてソファに戻り、煙草に火を付けた。そういえばここで吸うなってこの前言われたばっかりだったか?まあいい。ついこの間外で拾ったライターをポケットの奥にしまい込む。

「そのライターの<かち>も」
「……俺の音、というわけか?」
「そういうこと。ねえ、もう一回窓を開けてちょうだい。閉め切った部屋で煙草を吸うなんてあなた馬鹿?」
「外なら自分も吸うくせにな」
「もうやめたの」
「嘘付け。今日も昼吸ってたじゃねえかこの仮面優等生」
「仮面優等生、あなたとお揃いじゃない。煙草は、それが最後だったの。今日の昼から禁煙してる」
「未練がましいな」
「それもあなたとお揃い」

俺は仕方なく、重い腰を再び上げて窓を開けた。いつもと変わらない風景、窓、部屋なのに、吹き込む空気はいつだって新しい。心地よく吹き込む風は、俺たち二人をどこか違う場所へ連れて行ってくれるかのようだった。俺が窓の外を眺めながら煙草の煙を吐き出すと、名前はくすくすと声を抑えて笑った。呼ばれるようにそちらを見ると、名前はまっすぐに俺の瞳を見ていた。

「なあ」
「何?」
「……結婚しようか」
「あはは、それ、いい音ね」
「……そうかよ」

ふと、名前は立ち上がった。くたびれたソファには、二人分の凹みがくっきりと残っている。目の前までやってきた名前は、俺の口許に手を伸ばした。咥えた煙草が盗られるのを、俺は素直に受け入れる。

「私だって」
「ん?」
「私だって、銃兎がくれた煙草は好きだから吸うし、銃兎の音は心地良いから好きだし、銃兎のその<結婚しよう>という音だって」
「音、ですか、俺の決死のプロポーズは」
「そう、その音にだって、私は銃兎が好きだから応えるの」
「……名前、」
「私、銃兎と、結婚したい。あなたが好きよ。煙草も音も、あなた自身も全部ひっくるめて」

俺だって、好きだよ、お前の音が聞こえるだけで、全てを捨てて良いほどに。なんて、言わなくても伝わっているのだろう。ひねくれものの俺たちとは反対に、俺の音はひどく雄弁なようだから。

2021/4/17
title by プラム

.