感情図鑑


数字の羅列をノートに書き取る。ただそれの繰り返しで、数学の授業はほんとうに退屈だった。あー、早く練習がしたい、と脳内で何度目かもわからない独り言が通り過ぎていく。ふと隣の席を見ると、苗字が真剣にノートを見つめている。俺とは違って、ちゃんと数字に向き合い、数式を解き、この授業の内容を身につけようとしているのだろう。俺は、苗字をじっと見つめる。苗字はこちらを見ない。いくら俺が見つめても、苗字は、こちらを見ない。

「及川、女子見てないでせめて前向けー」
「ちぇ」

無粋な先生がみんなの前でそう言って、クラス中がどっと笑った。苗字はクスリともせずに、まだノートを睨みつけていた。
少し遠くを見ると、岩ちゃんがこちらを向いて口パクで『しゅうちゅうしろ』と口を動かすのが見えた。相変わらず世話焼きなもんだ。俺はあくびを咬み殺し、仕方なく黒板を見た。俺が苗字を見ていたように、今苗字が俺を見ていたらいいのに。なんて、ありえないことを夢想しながら。

「おーし、早く体育館行くべ、クソ及川」
「岩ちゃんっ!クソは余計だからクソは!」
「うんこ川」
「余計悪くなってるよ?!」

チャイムが鳴ると同時に、俺たちは立ち上がった。他の生徒達もゆっくりと、帰り支度を始める。ロッカーに詰め込んでいたジャージを取り出し、体育館へと急ぐ。
教室を出る、その刹那、苗字と、目が、合った。

「おらっクズ川ボーッとしてねぇで急げ!」
「あいたっ!岩ちゃんヒドいっ!」

容赦なく後頭部にシューズの袋をぶつけてきた岩ちゃんを一睨みしてから、教室に視線を戻すと、もう苗字はこちらなんて見ていなくて。生真面目に教科書やらノートやらを鞄に入れていく苗字を尻目に、教室を後にした。苗字は俺を見ていない。俺は苗字ばかりを見ている。苗字を見る度に、心臓が痛みで疼くようだった。こんなことは初めてだ。こんな気持ちは、初めてだ。この感情には、何という名前がつくのだろう。




「……おい、クソ川。集中できねぇなら帰れ。それか水でも被って気合い入れ直してこい」
「岩ちゃん……」

へなちょこサーブを5回連続で打ったとき、流石に岩ちゃんがそう声を掛けてきた。どんな悩みも、バレーに打ち込んでさえいれば、全て消えると思っていたのに。藁にもすがる思いで、岩ちゃんを見る(キモッという岩ちゃんの台詞は都合良く無視することにする)。

「なんかね、こう、心臓の所が、ぎゅっとつままれたみたいに痛いんだよ」
「病気だろ。病院行けよ」
「でも、幸せで、ぽかぽかーって気分になるときもあるんだよ」
「ヤクでもやってんのか?」
「なのに、それは全部、すぐに流れて行ってしまって、全然満たされなくて、欠けていて、すごく苦しいのに、何だか無性に『生きてる』って感じがして……」
「……及川」

まるで哀れむかのような顔で、岩ちゃんはハァとわざとらしく超大きなため息を吐いた。

「そりゃ、恋だよ。…………なんてな」

岩ちゃんは顔に似合わないそんな可愛らしいことを言ったあと、俺の頭をバシッと叩いた。

「……痛いんですけどぉ」
「んなこと言ってねーで、早く戻って来いクソ及川。次へなちょこサーブ打ったら一人でグラウンド100週な」
「鬼ですか?!」

確かに、岩ちゃんの言うとおりだ。こんなこと、考えてもきりがないし、どうしようもない。俺にできることはただ一つ、バレーに打ち込むことだ。
岩ちゃんは、恋だなんて(冗談だろうが)言ったけど、そんなこと、あるはずがないのだ。今まで、沢山の女の子と付き合ってきたし、それなりに好きだと思って、大事にしてきた。でも、こんな思いをしたことなんて、なかったのだ。これが恋だと言うのなら、今までの俺の心は、何を感じていたのだろうか?




「お前、バレーができなかったらただのクズなんだから早いとこ調子戻せや」
「ひどっ!岩ちゃんひどっ!」

練習を終えて、学校を出る頃にはすっかり暗くなっていた。この時間になると、学校に残ってるのなんてバレー部くらいのもので、鍵を閉める先生達の迷惑そうな顔も見慣れてしまった。

「明日も朝練だからな。夜更かしすんなよ」
「岩ちゃんは俺のかーちゃんですかー」

岩ちゃんは、少し不思議な表情をした。ぶーぶー言ってる俺を見たかと思うと、少し遠くの、俺の後ろの方に視線を移して、また俺の顔を見た。初めて見る岩ちゃんの表情。それこそお母さん的な、何か暖かい目で見守るような、期待に胸を躍らすような。

「及川」
「なんだよっ!」
「……ちょっと用事思い出した。学校戻るからお前先に帰れ」
「はー?何だよ急に」
「いいから」

そう言うと、岩ちゃんは足早に学校の方へ駆けていく。その岩ちゃんを目で追うと、同じ方向、学校の方から、誰かが近づいてくるのが目に入った。
……嘘でしょ。
心臓が神様の手で握られたみたいに、ぎゅっと締め付けられて痛む。

「……苗字ちゃん」
「あ、及川」

苗字は、スクールバッグの他に、いっぱいに分厚い本を詰めた手提げ袋を肩に掛けて、校門を出てくるところだった。

「こんな時間まで学校にいたの?」
「図書館で本読んでたから。及川は、部活?」
「う、うん。そう。大会近いから……」

何で俺はこんなに、苗字を前にすると、何も喋れない、つまらない男になってしまうんだろう。何でこんなに、心臓が痛いんだろう。何でこんなに、幸せな気持ちと、満たされない寂しさと、焦りと、欲望と、切なさと、情熱に、苛まれているのだろう。

「そっか。頑張ってね。応援してる」

苗字はそう言うと微笑んだ。ぎゅっと、内臓を絞られたような心地だ。校門を見やると、ニヤニヤ顔の岩ちゃんが遠くに見えた。なんだよ、なんだよこれ。本当に、恋って言うのか?



2021/5/22
これ実は続きが……あるのですが……いつか書く……かもw
title by プラム

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