せかいでいちばんわるいこと


大学デビューに失敗してから、早くも半年が経とうとしていた。
眼鏡からコンタクトに、髪をほんのり茶髪に、それから、初めて買ったファッション雑誌とにらめっこしながら、少しだけメイクの勉強もした。気弱な私も、これからは明るい人のふりをして、憧れのキャンパスライフを送る、はず、だったのだ。

「まあ、現実はそう甘くなかった、よね……」

夕方のコンビニでフロアを清掃しながら、ぽつり、と呟く。お客さんは誰もいないから独り言を聞かれる心配もなく、残酷な昔話を振り返るにはうってつけの時間だった。
大学デビューを試みた私は結局のところ、高校時代とほとんど代わり映えのない、冴えない日常を送っている。18年にわたって身体に染みついた引っ込み思案な性格は、そう簡単に変えることなどできるはずもなく。少し考えれば誰だって考えつくような、当たり前の結末だった。もういっそコンタクトもやめて、眼鏡に戻してしまおうか。なんてことを考える私の頭のてっぺんは、すっかりカラメル色になってしまっていた。


「苗字さん、フロアの掃除終わったならこっちのフライヤー洗っといてよ」
「……あっ、はい」

フロアクリーナーをバックヤードに片す私を、バイトの先輩が目ざとく見つけてすり寄ってくる。

「あのね、私さぁ、今日他の仕事で疲れててさ、だから、苗字さんに品出しもお願いしてもいい?ごめんね?」

慣れてしまえば、こんな役回りにもまったく動じなくなってくる。心が動じなければ、別段傷つく必要も、腹を立てることもない。「大丈夫です」と答えると、先輩は「ほんとっ?!ありがとぉ〜!」と両手を顔の前で合わせて、わざとらしく喜んで、さっきまで居たバックヤードの椅子へと再び帰っていった。別にムカつくこともない。言われたことをこなせばそれで良いのだから。不思議と慣れてしまったから、腹は立たないのだ。

大学と家の中間にある駅のコンビニでバイトを始めたのが6月。最初は何もできないひよっこ新人だったが、半年近くも経てば大体の仕事はできるようになり、よく来るお客さんの顔も少しずつ覚えられるようになった。その中でも特に、近隣の高校に通っているのであろう部活終わりらしき男子高校生集団が、いつしか私の癒しとなっていた。大体いつも20時頃にやってくる彼らは、一体何の部活をしているんだろう。高校生にしては遅い時間だ。もしかして、何かのスポーツの強豪校だったりするのだろうか?……時刻は19時48分。早く来てくれないかなー。なんて、邪念だらけの考え事をしながらフライヤーをスポンジでこすってるうちに、ガラス戸の外に鮮やかな赤いジャージがちらりと見える。ほらきた。とにかくフレッシュで爽やかな、私の癒しボーイズ。

「……いやソレは大袈裟っしょ!!」
「そう?普通だと思うけど」
「研磨さーーん!?せめて否定して!?」
「ぶははは!」

自動ドアが開くのと同時に賑やかな声が飛び込んでくる。そう、これが毎シフトの楽しみなのだ。名前も、何の部活かもわからない、赤いジャージを纏った背の高い男子高校生たちが、私の生活に花を添えてくれている。これだけ聞くとヤバイ人なのだが、ただの健全な店員とお客さんの関係なので!全く問題はないのです!(と、言い張らせていただきます!)

「さっきから全然話聞いてくれないじゃないッスか!!ちょっと俺の話も聞いて下さいよー!!」
「虎うるさい」
「研磨テメェ!!」
「ギャハハハ!」
「おいおめーらうるせぇぞ!!!」
「……はい。」

私といくつも歳は変わらないはずなのに、元気でかわいいなぁ。微笑ましく眺めていると、リーダー?らしき、背の高いツンツン頭の人がみんなを一喝。お約束の流れだ。そしてその後、いつも彼はレジにそっと寄って、

「……うるさくしてスミマセン」
「い、いえ。全然、大丈夫ですよ」

軽く会釈をするのだった。なんて、礼儀正しい人。それでいて、みんなをまとめるリーダーだ。先輩の言いなりになっている私とは正反対の人間。この人が私よりも歳下だなんて、悲しいくらいに信じられない。後輩っぽい青年が、アイス売り場から「黒尾さん!ガリガリ君の梨味出てますよ!」とこちらに向かって声をかけた。くろおさん、と呼ばれた彼は、「まじかよ買いだわ」と笑いながらアイス売り場へ向かっていった。黒尾さん、の広い背中を眺めながら、私もあんな風に居られたら……などと、柄にもないことをぼんやり考えた。

「フライヤー洗い終わった?苗字さん」
「ッ!は、はいっ!?!」
「ごめんね、レジの5百円玉、切らしちゃったんだよね」
「え……えっと……あの、」
「銀行で両替、お願いしてもいいかなぁ?」
「……わかり、まし、た」
「よかったぁ!ありがとうねほんと!」

どうしてこうなっちゃうんだろ。私が悪いのかな。何を頼まれても断れない私が、悪いのかな。
……ダメだ。慣れたと思っていたのに、こんなことで心が乱されてしまうなんて。もっともっと、心を無にして、感情が出てきてしまわないように、鍵をかけなくては。ぐっと感情を押し込んで、先輩にニコッと笑いかけた。もう少しだけ彼らの青春を見ていたかったが仕方ない。お店用のお財布を掴んで、自動ドアの外へ出た。

よりにもよって、銀行がいつもよりも混んでいたのだ。窓口に辿り着くまでに、10分も待つことになるなんて。じゃらじゃらと小銭の鳴る封筒を手に店に帰ったのは、高校生たちが帰ってしまった後だった。……まあ、わかっていたことだけれど。残念な気持ちを抑えてレジに入ると、不機嫌そうな顔をした先輩がバックヤードからこちらを見ていた。

「随分とかかったみたいだね、苗字さん」
「……え、あの」
「お店、結構混んで大変だったんだけど?」
「その……銀行がすごく並んでいて」
「そうなの?ふーん。本当かどうかわかんないけどさぁ、先輩にレジ任せっきりにしといて、それはどうかと思うよ」
「…………す、すみま、せん……」

どうして。どうして。どうしてこんなに私は弱いんだろ。どうして言葉を返せないんだろ。こういうときに、なんて返せば良いかわからなくって謝ってしまう自分が悔しくて悔しくて、涙が出る。ああ、だめだ。泣いたらまた責められる。先輩にバレないように、目元を上手に拭う。

「はぁ……まぁいいや。苗字さん、今日21時まででしょ?早く上がんな」

時計を見れば、時刻は21時過ぎを指していた。

「は、はい……。すみませんでした……」
「もういいから。次はちゃんとやって」
「…………はい、お疲れ様でした……」



10月の夜は、薄手のニット1枚で出るには肌寒く。自動ドアの外に出ると、スカートから覗く太腿を、ひんやりとした冷たい空気が触れる。まだ21時だというのに外はやけに静かだ。こんな夜は、自分を責め立てる頭の中の声を何度も何度も反響させてしまう。

(はぁ……こんなんじゃ、こんなことでへこたれてるようじゃ、私は——)

「なあ、」
「ッへ?!」

私は、ダメだ。
——そう思いかけたとき、後ろから不意にかけられた声。
振り返るとそこには、帰ったはずの、黒尾さん、が立っていた。

「なあ、あんた、なんで我慢してんの?」
「…………え……」
「ずーっと、我慢してません?」
「なに、言って……」

私なんかに何の用があるのかとか、私なんかのことを覚えてくれているはずがないとか、そもそも黒尾さんは何のことを言っているのかとか、聞きたいことは山ほどあったが、うまく言葉にならない。ぼたぼたと、瞳から零れたそれのせいで、うまく声が出ない。

「……っ…ぅ、」
「えっ!!あ、そ、その、スミマセンっ!急に声かけちゃって……!怪しいもんじゃなくて、えっと、そのっ、」
「ぇぐっ、ひぐっ……わ、わたしこそ、すみ、ませ……っ、とまらなくなっちゃって、」
「えーと、と、とりあえず落ち着くまで、そこのベンチ、座ります……?」

偶然通りかかった小さな公園には、ベンチがひとつ。泣き顔のままで家に帰れば母に心配をかけてしまう。泣き止むまでの寄り道くらいは許される、かな、?
ベンチに腰掛けると、何の躊躇いもなく隣に座る黒尾さん。彼にとっては当たり前のことなのかもしれないが、免疫のない私にとっては心臓に悪い距離だ。異性への緊張だけでなく、気まずさや惨めさが押し寄せて、顔を上げることができない。こんな些細なことにも、違いをまざまざと感じさせられる。

「涙、止まりました?」
「……は、い」
「よかった」
「あの、さっきの、どういう……」
「いや、どうもこうも、俺が思ったこと言っただけですよ」
「……?」
「ずっと、無理してるじゃないですか」
「……そんなことっ、」
「ある」

力強い言葉に驚いて顔を上げると、思ったよりも近くに、思ったよりも真剣な、黒尾さんの顔が、私の瞳を見つめていた。私は咄嗟に、目を逸らす。

「俺って、意外と人のことよーく見てるんスよ」
「へ、?」
「我慢はお肌によくないデスよ?苗字サン」
「あ、わっ、なんで、わたしの名前……」
「ハハ、制服の名札に書いてますヨ」
「あっ!」

恥ずかしくなってたまらず顔を手で覆うと、黒尾さんの楽しそうな笑い声が隣から聞こえる。

「あ、そういや俺の名前まだ、」
「黒尾さん、ですよね……?」
「え」
「コンビニで、みんながそう呼んでいたから……」

そう言うと、どうしてか彼は口元を手で覆い、そのままのポーズで固まってしまった。……私が、何かしてしまったのだろうか……?

「わっ、ご、ごめんなさいっ!名前知ってるなんて、キモい……です、よね……っ?!」
「……あ、いや。そういうわけじゃなくて」
「?」
「……あーー、まじか。俺のこと見てくれたとか。ヤバイ、今俺絶対ニヤけてる」
「く、黒尾さん……?」

顔をのぞき込むと、黒尾さんは、ちょっと待ってとジェスチャーをして顔を背けてしまった。

「……まぁ、俺のことは置いといて。苗字さんはさ、無理しすぎなんじゃないのって」
「だから、そんなこと……っ」
「だってさ、泣くほどつらかったってことでしょ?」
「あ…………」

止まったはずの涙が、もう一度溢れ出す。

「私……無理、してたんだ…………」

そんなこと、言われて気づくなんて。私はほんものの、ばかだ。

「……つらいって、思っても……良かったんだ……」
「よーやく気づきました?」
「黒尾さんはどうして、そんなこと知って……」
「見てるから」
「へ……?」
「いつも苗字サンを、見てるからデスよ」
「なに、言って……」

思わず顔を上げる。真剣な顔をした黒尾さんが、私をじっと見つめていて。そのまま、どんな言葉を次に紡ぐのだろうか。息が止まるような静寂の中、心臓の音だけが木霊する。彼の薄い唇が開いたその時、
PiPiPi…と電話の音が鳴った。

「っ!わ、で、電話、私のですね……っ」

スマートフォンを耳に当てると、弾けるような女性の声が耳に飛び込んできた。

『あっ!もしも〜し?苗字さん??』

先輩だ。

『苗字さん、明日暇?』

ああ、嫌だ。聞きたくない。どうしようもなく嫌な予感がして、じわりと冷たい汗が出る。

「えと……明日は……その……」
『明日のシフト代わってくれなーい?明日急用できちゃってさぁ』
「……」
『代わってもらえるってことでいい?よね?』

黒尾さんと出会って、変われたような気がしてた。でも現実はそう甘くない、そんなこと誰よりもわかっていたはずなのに。私はこんなにも弱いままだ。弱虫のくせに、黒尾さんの優しさに甘えて、頼って、強くなったつもりになってた。
ああ、ごめんなさい、黒尾さん。あなたが私を気遣ってくれたこと、とっても嬉しかった。けれど、私はやっぱり変われないみたいです。
電話している私を終始眺めていた黒尾さんは、不思議そうな顔をして首を傾げていた。声を出さずにパクパクと口を動かして「せ ん ぱ い ?」と聞いてきたのでこくりと頷くと、

「あっ、ちょ…っ、電話、!」
「お借りしマース」

私の手からひょいとスマホを奪い取ってしまった。取り返そうと何度も手を伸ばしたが、手首を大きな手で掴まれてしまって身動きが取れない。黒尾さんは私のスマホをスピーカーに切り替えて顔の目の前に持ってくると、そのままはっきりとした口調で、言い放った。

「めんどくさいこと全部、苗字サンに押し付けてんじゃねーよ。意地悪なオネエサン?」
『!?なッ……、』

ピ、と電話を切って当然の顔して「ハイ」なんてスマホを手渡して来た。……な、な、なな、

「なんてことをしてくれるんですか黒尾さんんんっ!!!?!」
「えー?何が?」
「何がって!!これから先輩との関係どうなっちゃうんですか私っ!!!」

わなわなと震えている私を宥めるように、ごめんってば!と笑う黒尾さん。いやこれ違うわ。宥めてるんじゃなくて、からかってるんだこの人!

「でもさ、」
「?」
「俺が言ったことって、ホントは苗字さんも言いたかったことなんじゃねーの?」

そんなことない。って言おうとしたけれど、なぜか声が出なかった。黒尾さん表情は真剣で、初めからからかってなんかいないこと、本当はわかっていた。私は息を大きく吸って、吐いて、それから小さく頷いた。

「よかったーーっ、もし俺の勘違いだったらヤバいことしちゃったって焦ってた」
「ふふ、……黒尾さん、ありがとうございました」
「いーえ」
「でも、あんなこと言っちゃって大丈夫だったのかな……」
「どーして?」
「先輩のお願い、初めて断ったんです。悪いこと、しちゃったな……」
「苗字さんは良い子すぎるんですよ」
「……へ?」
「悪いことなら、いつでも俺が付き合いますよ」

そう言うと黒尾さんは立ち上がって大きく伸びをした。そして、ぽかーんと固まったまま私に、右手をそっと差し伸べる。

「うわ、もうこんな時間っすね。家まで送りますよ」

変わることなんてできないと思っていた私の世界が、鮮やかに色づいていく。私の狭い狭い世界から、いとも簡単に連れ出してくれるんだ、誰よりも優しいその手で。

「…………その、嫌じゃなかったら、なんですけど……、もう少しだけ、一緒にいても……良いです、か……?」

彼は少しだけ驚いたような顔をして、いいですよ、とやさしく笑った。重ねた手は温かかく、内側から私の温度を溶かしていく。
知らなかった。わるいことって、こんなにも温かいんだ。



2021/6/12
title by プラム

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