地上にうかぶ愛と空虚と




ああ、こいつはいつだって唐突だ。そして自己中。こちらの都合なんてお構い無し。まさか早朝5時半に電話が掛かってくるなんて誰が予想できようか?朝のアラームが鳴ったと思って手探りでスマホを手に取り、薄目で確認する。そして目に飛び込んできたのは、画面にでっかく明滅する、『波羅夷空却』の文字だった。

「……朝っぱらから……なに……」
「おう、起きてたか!」
「……あんたに起こされたんだよ……」
「ヒャハハ!早起きは三文の徳だろうが!」

きゃんきゃんと耳に刺さる空却の声で、否応なしに目と頭が冴えてきた。外はまだ暗く、夜明けまで時間がありそうだ。

「今日、夕方の5時半にうち来いや」
「……はあ?」
「ちょうど12時間後だ。バカなてめぇでも覚えやすいってもんだろ!」

なぜ、朝っぱらから電話で起こされ、わけもわからず呼び出しを告げられ、そしてついでにバカにされなきゃいけないのだろうか。「死ね」と短く言って電話を切って、再び布団に潜り込んだ。時間に余裕のある二度寝ほど、気持ちのいいものはない。すう、と溶けるように、私の意識は再び落ちていくのだった。


結局あのあと寝坊して、化粧もそこそこに大学の講義に滑り込んだ。二度寝すると人は寝坊するという言わずと知れた常識を、身をもって証明しただなんて、恥ずかしくて誰にも言えない。講義のノートを必死に取りながら、朝の会話を反芻していた。あれは夢だったんじゃないか、と思ったけれど、スマホには確かに着信履歴が残っているし、通話時間42秒という妙に生々しい数字が今朝の記憶と合致している。幼馴染みである空却が、マイペースに我が儘を言い、私がそれに振り回されるという構図は昔から変わらないし、半ばそれに慣れつつある自分もいる。

(馬鹿みたい、だよなぁ)
と思わざるを得なかった。私は、小さいときから空却が、好き、だった。でも、空却は私の事なんて見ていなかった。いつも私だけが彼を見て、遠くに行ってしまう背中を追いかけているのだ。


「おう!来たか!……つかお前、相変わらずブッサイクな面してんなぁ。いい年の女なんだから化粧くらいしろや」
「うるっさいなぁ……。誰の所為で朝寝坊したと思ってんの?」
「カカカ。拙僧の所為だとしたら愉快愉快」

律儀にも約束を守り、17時半に訪れた私を出迎えたのは、そんな超超超失礼な憎まれ口だった。部屋に入ると、空却の部屋いっぱいに、本の山が積まれている。良く見ると、それは古そうな専門書もあれば、ジャンプもあるし、新聞もある、という支離滅裂なラインナップだった。ここまで来ても、私は自分が呼ばれた理由がまだわからない。

「こいつらは、昨日納戸を整理したら出てきた、いらねぇ古書たちだ。ガキの頃に拙僧が溜め込んでたらしいな、記憶はねぇが」
「……それで?」
「そして、古紙回収は明日だ」
「…………で?」
「そしてそしてぇ、拙僧は今から出掛ける」
「……それって、」
「おう、察しがいいな!名前、よろしく頼むわ」
「はい?!?!」

空却は屈託のない笑顔で、あっけらかんと理不尽な要求を申してきた。そういえば良く見れば、今日の空却はなんだかいつもと比べて小綺麗にしているような気もしなくも、ない。

「えっと、勘違いなことを祈るんだけど……もしかして、出掛ける用事って……」
「あ?んなこたどうでもいいだろ」
「私には聞く権利くらいあると思うんだけど。……合コン、でしょ?」
「……ああ。女だよ、わりーか」

ニヤ、といやらしく笑って、空却は試すみたいにこちらを見た。ああ、この顔が、この瞳が、たまらなく好きなのだ。悔しい。悔しいけれど、この瞳にいつも化かされて、しがみつくのをやめられない。
昔からこの人は何故だかよくモテた。女の人がいつも言い寄っていて、空却はその中から選り好みするだけだ。私はいつも、空却の背中ばかり見ているというのに、空却の周りにいる名前もない女達は、空却に選ばれたり、選ばれなかったり、するのだ。私は元よりその土俵には上がれない。幼馴染みでも、朝っぱらから電話が来るような仲でも、すっぴんで気兼ねなく会える仲でも、そんなのなんの意味もない。空却に、選ばれて、好きだと言われて、手と手を触れ合えないのならば、『幼馴染み』なんて、愚にも付かない、意味のない肩書きだ。

「……別に、あんたが誰と付き合おうが興味ないけどー」
「ああそうかよ」
「変な病気とか移されないようにね?一応、幼馴染みとして忠告しとくけど」
「ばぁか。てめぇは余計なこと考えずに古紙を縛れ」
「それ、人に頼み事する態度?」

それ以上空却の顔を見ていられなくて、わざとそっぽを向いて、雑誌を縛るフリをしながらそう言った。本当は、女の人の所になんて行って欲しくない。本当は、引き止めたい。でも、そんなふうに素直な女の子みたいな態度を取るには、私達は一緒に居すぎたのだ。何か余計なことを言って、今の関係を壊すのが怖かった。だから、古紙整理なんてどうでも良い仕事に夢中になるふりをして、必死に彼の瞳から目を逸らしているのだ。

「んじゃ、行ってくらぁ。……多分、朝まで帰んねーから。それ終わったら適当に家戻っとけよ」
「……言われなくてもそうするっつーの」

まだ、空却の顔は見られない。縛る古紙がたくさんあって良かった。

どのくらい、経っただろうか。元から単純作業は嫌いじゃないのも手伝って、気付けば夢中になって作業していた。廊下の方から誰かの足音がして、我に返る。時計を見るともう22時近かった。廊下の足音はずんずんと大きくなり、ドアがバンと大きな音を立てて開く。

「ああ?なんだおめー、まだ帰ってなかったのか」
「こんなに古紙を貯め込んだ誰かさんのおかげでね。……てかあんたこそ、朝まで帰らないんじゃなかったの?」
「……うるせー。お前がまだいるとは思わなかったんだよ」

空却の顔は心なしか赤く、お酒を飲んでいるみたいだった。合コンだからあたりまえか。何対何だったんだろう。女の子可愛かったかな。でも朝帰りじゃないんだ。……さっきまで無心で作業してたのに、突然湯水のように邪念がわき出てくる。どうにか集中しようにも、空却がふらふらとした足取りで、しかし足音はドシドシと妙に大きく、酔っ払い然として部屋中を歩き回っているので、気にするなと言うのも無理な話だ。

「ねー、うるさい。気が散る。犬じゃないんだから、ふらふら歩き回らないでよ」
「あ?誰が犬だボケ。てめぇの方が犬じゃねぇか。俺が命令すりゃワンワンって尻尾振って言うこと聞くんだからよ。ヒャハハ!」
「片付けやってくれてる幼馴染みに感謝の言葉もないわけ!?」
「感謝感激雨嵐〜ってなァ」

ひゃはは、と笑う空却は、ほろ酔いも手伝ってかどことなく上機嫌だ。「あー、ヤキソバ食いてえ」いつの間にか私の隣に胡座を掻いて座った空却が行った。そこに座るなら手伝えよ。

「合コンで何か食べてきたんじゃないの?お洒落な料理」
「んなもん口に合うか。拙僧はペヤングが食いてえ。湯、沸かしてきてくれや」
「……なんでもかんでも言えば私が言うこと聞くとでも思ってる?」
「事実だろ。ほれ、お手」

空却は真面目な顔して私の目の前に手のひらを出して見せた。お手なんかするわけないじゃん、と思うけど。空却がこれまで付き合ってきた女の人たちの中で、ふざけてお手を要求された人はどのくらいいただろうか。

「……わん」
「ぎゃはは!!本当にしやがった!マジで犬じゃねーか!」
「……うるさいなぁ」

お手なんて馬鹿なこと、するんじゃなかった。なんて後悔しても後の祭りだ。空却は息が出来ないくらい馬鹿笑いして、ひいひい言っている。……私はどうせ、幼馴染みですらない、お笑いものの犬扱いだ。

「あー、笑った。マジでするとはな。恐れ入ったわ」
「ちょっとやってみただけだよ」
「#名前#が犬ならいいのにな。そしたら拙僧が飼ったる。そんで首輪つける」
「首輪?!もー、何でそんな物騒なこと」
「お前を逃がさないようにだろ」
「何で私が逃げるのよー」
「そんなもん、」

突然、隣の空却から手が伸びてきた。え、と思う間もなく、天井が見える。空却の顔が見える。押し倒されたのだと、ようやく気がつく。

「拙僧がこういうことするからだろ」

畳の良い匂いが鼻の奥に届き、空却の瞳の深淵が私を捉えているのがわかった。初めて見るその表情に、うるさく心臓が鳴っている。

「私、」
「お前、バカだからな」
「私達、幼馴染みで、」
「こうでもしねぇとわかんねーだろ」
「くうこ、」

前触れもなく、強く口づけられる。身じろぎすると、空却は私の手首も強く掴んだ。幼馴染みだからとか、犬だからとか、女だからとか。名前だけの肩書きに踊らされて、独り土俵の上で相撲を取っていたのは私だけだったのだ。ああ、今、初めて理解した。唐突で、自己中なこの破戒僧は、全てをなぎ倒し、枠組みを壊し、そして残る何者でもない私を奪ってくれるのだと。

2021/8/14

title by プラム

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