小指程度の温度でいい



この喫茶店で夢野先生と打ち合わせするのも何回目だろうか。静かなジャズが流れるレトロで落ち着いた店内には、数人の客がまばらにいるだけだ。各々、ゆっくりと美味しいコーヒーを嗜み、新聞を読んだり、本を読んだり、何か仕事をしたりして、思い思いに過ごしている。大人のための、良質な静寂を味わうための純喫茶。……のはずなのだが。

「もぉっ、こんなオシャレなお店、ゲンタロと名前ちゃんだけの秘密にしてるなんて、ズールーいっ!」

物静かな雰囲気に随分似つかわしくないピンク色の存在が、どう見ても店内で浮いている。もちろん私だって、彼のことは知っている。シブヤで彼のことを知らない人はいないだろうし、なによりも夢野先生のご友人なのだ。

「名前ちゃん何にするっ?僕ねークリームソーダとぉ、ナポリタンとぉ、パンケーキとぉ、パフェとぉ、」
「乱数さん、頼みすぎですよ。そんなに食べきれなくないですか?」
「確かにぃ!アハ☆僕ってばうっかりさん!」
「乱数、はしゃぎすぎです。少し落ち着いて下さい」

乱数さんが動く度、ぴょこぴょこという効果音まで聞こえてきそうだ。初めて会う彼は、ポップな見た目に違わず、御機嫌な人だった。夢野先生は慣れっこのようで、何度も呆れたようにため息をついている。乱数さんの突然の乱入にも、動じていないようだった。私はといえば、かの有名な飴村乱数に会えて、しかもこうして一緒に食事……なんていう非日常のシチュエーションに少し浮かれてしまっているのは事実だ。

「すみませんね、名前さん。これでは打ち合わせになりませんね……」
「い、いえ、こういう日もありますよ。賑やかで楽しいです。先生の原稿は事前にメールで頂いて読んでますし、とりあえず先に食事を取りましょうか」
「ええ、そうですね。恐縮です。乱数もこの調子ですし、何か胃に入れれば落ち着くと思いますが……」
「もうっ!人を食いしんぼみたいに!」

わざとらしく頬をぷくっと膨らませる乱数さんを、可愛いと思ってしまうので多分私は単純なんだろう。夢野先生に促されてメニューを見ると、ナポリタン、オムライス、ピザトースト、エビフライ、クリームソーダ、チョコバナナパフェ、パンケーキ、コーヒーゼリー……といかにも喫茶店というようなメニューが並んでいて、どれも美味しそうだ。

「ここは結構軽食も美味しいんですよ」
「そうなんですね!打ち合わせで使うときはいつもお茶の時間だったので食べたことなくて。実はちょっと軽食も気になってたんです」
「この際です。好きな物を食べて下さいね」

大らかに夢野先生は言うが、もちろんこのお代はこちら持ちである(乱数さんの食事代を何と言って経費で落とすか……)。ここはもともと、私と夢野先生が打ち合わせをする際に良く使っている喫茶店だった。数年前、夢野先生に指定されて使い始めたのがきっかけだったが、私もここを気に入り、それ以来他の作家と打ち合わせをしたり、一人で仕事をするのにもたまに使わせてもらっている。シブヤ駅からは遠いが、その分混み合うことなく静かに利用できる、穴場的スポットだった。

「お待たせしました。スパゲッティナポリタンをご注文のお客様——」
「はいはーい☆僕僕!こっちにちょーだい!」

早速ナポリタンにがっつく乱数さんを見ているだけで、食欲が刺激された。私も負けじと厚切りのピザトーストを頬張る。どっさりと具の乗ったピザトーストは、シンプルだが結構お腹がいっぱいになりそうだ。一方夢野先生は落ち着いていて、まずは一口コーヒーを啜る。それからミックスサンドを少しずつ啄む姿に、乱数さんが「げんたろ、口が小っちゃいねぇ、リスみたい!」とからかうので、私も思わず笑ってしまう。

「苗字はんまで、ひどいでありんす〜。わっちはそれはもう酷く傷ついたでありんす〜」
「幻太郎、泣いてる。かわいそー!でもだいじょーぶ、口が小っちゃくて可愛いよって褒めたんだよ!ね、名前?」
「あはは、そうですよ。褒め言葉です。夢野先生があんまりお上品だから」
「全く。乱数に悪気がないのはわかりますが。苗字さんのそれは悪意を感じますよ」
「う、う、嘘ですって!」
「ふふ。小生も嘘です」
「もう、焦ったじゃないですかー……」
「焦る苗字さんも可愛らしかったですよ、リスみたいで」
「先生〜!」

夢野先生はいつも私よりも上手だ。からかうように、少し笑って、いつも私を翻弄する。はじめは、この人に興味があった。それがいつしか、ただの興味ではなくて、異性としてはっきり好意を抱いているのだと、自覚したのはいつだっただろうか。それでもこの好意を打ち明けるつもりはなかった。壊してしまうくらいなら、このままがいい。ただの、作家と編集。それだけの関係が、いついつまでも続きますようにと、ありえないことを夢想しているのだ。

なんやかんやと雑談をしながら食事をしていたら、あっという間に時が過ぎてしまった。空になった皿を下げてもらうと、満腹感と、それに伴う眠気がどっと襲ってくる。

「ふー、食べた食べた」
「さ、乱数。これから小生たちは打ち合わせに入りますので」
「えー?!帰れって事ぉ?!いやいや、まだデザートも食べたいもん。でも今はまだお腹いっぱいだからぁ、お腹が減るまで打ち合わせ見学しててもいい?ね?いいでしょ?名前ちゃん」
「乱数、苗字さんが困ってます」
「だってぇ、折角名前ちゃんと仲良くなれたんだもん。もっと沢山お喋りしたいじゃん?あ、ゲンタローがうるさいから、ゲンタロー抜きで今度ご飯いこっか?」
「……乱数」
「うひゃひゃ☆幻太郎の顔こわぁい!」
「あ、あの。夢野先生が良ければ、このまま待っててもらって大丈夫ですよ。一区切り着いたらおやつ食べましょう」
「やったー☆名前ちゃんだぁいすき!」

夢野先生が乱数さんを睨み付ける。……た、確かに怖い。乱数さんは気にもしていないようでニコニコしている。こうやって乱数さんの思いつきに夢野先生が振り回されるのは日常茶飯事なのだろう。「たばこ、吸っていーよね?」と言って、乱数さんはポケットから細身の煙草を取り出し、浅く口にくわえた。しかしすぐに「あ、」と口から出して手に持つ。

「名前ちゃん、煙草吸う人?」
「まぁ、たまに吸う程度ですけど……」
「じゃあじゃあこれ、あげるよ!この前試供品でもらったんだけど、バニラのフレーバーなの。気に入ったから、名前ちゃんにもお裾分け」
「あ、で、でも……」

一瞬とはいえ、乱数さんが一度は口にくわえた煙草だ。この歳にもなって、間接キスがどうとか思っている私は幼稚なんだろうか?でも、でも、なんかなぁ、夢野先生の前だし、とかなんとか、逡巡すること約1秒。意外にも、このやりとりを終わらせたのは、夢野先生だった。

「乱数」
「な、なに?幻太郎……」
「……あなた、わかっていてわざとやってますね?」
「アハハ、何のこと?僕、さっぱりわかんないなー」
「乱数?」
「だ、だってぇ、幻太郎に火を付けてあげようとぉ」
「余計なお世話っていう言葉、知らないんですか?」
「幻太郎、顔こわーい」

睨み付ける幻太郎さんに、わざとらしく口笛を吹く(吹けてない)乱数さん。この会話の意味が、わからない。……いやさすがに、全くわからないと言ったら、嘘になる。でも、私が思っている通りの意味だろうか?でもまさかそんな、私のおめでたい期待が、叶うはずかないじゃないか。夢見すぎだばーか。でもそうしたら、目の前で繰り広げられているこの会話はどう説明すれば良いのだ?……脳内で、ポジティブとネガティブが必死に戦っていた。きょろきょろと二人を見る。二人も、こちらを見る。

「……とにかく」

幻太郎さんが、ばつが悪そうに頭に手を当て、ため息をついた。本日何度目のため息だろう。今日私が見た中では、一番深刻そうなため息だった。

「乱数は帰って下さい」
「そう言うと思ったぁー。しょうがない、これ以上幻太郎を怒らせたら後が怖いから、このくらいにしておこうかな」
「え、ちょ、乱数さん帰るんですか?」
「あれれ?名前ちゃんは僕に残って欲しいのぉ?」
「いいえ」

私に向けられた問いかけだったが、答えたのは夢野先生だった。先ほどまでの苛ついた雰囲気はいつのまにかなくなっていて、どこか上機嫌に見えるほどだ。

「さ、乱数。良い子だから早くお帰りなさい。ワンちゃん、ハウスよ」
「わんわん☆じゃ、名前ちゃん、まったねー!」
「あ、え、えっと……」

からんからん、とドアの開閉を知らせる乾いたベルの音だけが残されて、私はおずおずと夢野先生を見た。夢野先生は、ただにこにこと笑っていて、真意が読めない。

「えっと……打ち合わせ、始めますか?」
「いえ、その前に。小生から大事な話をしなくちゃいけません」
「え……?」
「……どうやら、まんまと乱数に火を付けられてしまったようですので」

何を言っているのか、わからない。……いや。さすがに、わかる。夢想していた私だけの夢が、姿かたちを持って目の前で喋っている。私はただ耳を傾けて、夢野先生の次の言葉を待つしかなさそうだ。


2021/10/9
title by suzuro

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