余映と残熱



「おっ、おかえり名前、遅かったね」
「な……なんで徹が、うちに……?」

梅雨が明け、本格的な夏がやって来た。世間ではクールビズ、なんて言ってるけど。うちの会社のお偉い方々はそんな気は毛頭ないらしく、スーツ着用必須だ。シャツの胸元を掴んでハタハタと風を送っても、全然涼しくならないし、寧ろ余計に汗をかいた気がした。家に帰ったらすぐにクーラーを付けよう。そう思いながら、汗だくになって最寄り駅から徒歩15分。ようやく家につき、玄関を開けるとそこには、ムカつく顔の元彼が、いた。

「って誰の顔がムカつくってぇ?!」
「え?!考えてることどうしてわかったの?!」
「名前は考えてることすぐ顔に出るんだよっ」

ていうかなんでいるのどうやって入ったのあっヤバ風呂場に下着干しっぱなしかもてか徹に会うの地味に5年ぶりくらいだなぁ……とか。色んな考えが一気に頭に浮かんできて、私は混乱状態だ。何も言えず、口をぱくぱくさせてる私を見て、徹は、しょーがないなぁ、と笑った。

「オムライス、作って待ってたんだから。名前、好きだったでしょ?」
「あ、うん、好きだけど……」
「じゃあとっとと座る!今、俺特製のとびきりのオムライス、食べさせてあげるからね」

言われるがままに、食卓につく。すると出てきたのは、きらきらと金色に輝く、宝石みたいなオムライスだった。思わず、見入ってしまうくらい、綺麗だ。徹の顔を伺うと、「なーにこっち見てんのさ。ほら、冷めるよ、食べて」と徹は自慢げに言った。

「美味しい……」
「人心地着いた?」
「……うん」
「ほら、名前が好きなウィンナーも入れて置いてあげたよ」

ようやく落ち着いた私は、ニコニコと笑って目の前に座っている徹をじっと見る。……久しぶりに会う、元彼。高校卒業後、海外のチームに行くと聞いたのは、彼の引っ越しの前日だった。もっと早くに教えてよ、と泣きながら言う私に、そんなことしたら行きたくなくなっちゃうでしょ、と彼は小さく言った。それが最後、徹と交わした言葉だった。あれから5年。もう徹に会うことはきっとないんだろうな、なんて思ってた。別に絶望じゃない。少し寂しいだけだ。……と、思ってたんだけど。

「……で。もう一回聞くけど。何で徹がうちにいるの」
「何でって。合い鍵くれたのは名前でしょ」
「それは、そうだけど……」

幼かった私の、せめてもの抵抗だった。遠距離恋愛はたぶん、俺らは無理だよ、と徹は優しく言ってくれたけれど、私は見えている一縷の望みを捨てられるほど、大人じゃなかったのだ。その時に、これから一人暮らしを始める部屋の鍵と住所を押しつけた。……その時の合い鍵を使って、入ってきたのだと、徹は言う。

「5年も連絡取ってなかったのに、私が引っ越してないって、よくわかったね」
「いーや、ダメ元だったよ。寧ろいないだろうなぁって思ってたのに、表札見たら苗字って書いてあったから、舞い上がっちゃった」

……って、私が聞きたいのはそういうことじゃなくて。手段も勿論気になるところだったが、本当に聞きたかったのは、何故、徹が、私の家に来る必要があったのか、ということだ。

「……何か、あったの?」
「うん?」
「いやだって、徹が突然うちに来るなんて……変だから……」
「ああ、そういうことね。違うよ、うちのクーラーが壊れちゃったから暑くて、避難しにきたの」
「は……?クーラー?」
「そーそー。今日すっごい暑いでしょ。熱中症になっちゃうよ」
「そ、それだけ……?」
「うん。それだけ。」

やっぱ予想通り名前の部屋は快適だわ、なんて付け加えながら、徹はまるで日常みたいに笑って見せた。
私は食べかけのオムライスに視線を落とす。高校生の頃、私たちが付き合っていたあの頃、徹は料理なんてしたことはなかった。綺麗に形作られたオムライスが、離れていた5年間を物語っているかのようで、少し、寂しい。

「クーラー……ないと暑い、もんね」
「そうなんだよ〜っ!」

誰だってわかる。そんなのは、嘘だ。でも私は、この人の嘘に騙されてあげるクセがついてしまったのだ。

「ちゃんと修理出した?」
「もちろん」
「いつ直るって?」
「んー、1ヶ月くらい?」
「1ヶ月?長いね」
「……いや、間違えた。2週間だって。だから、ねえ、名前、2週間、ここに住まわせてよ」

徹はにーっと人懐こい笑顔で言った。私は何と言えばいいのか、わからなくて、視線をぐるっと彷徨わせた。
海外に住んでいるはずの徹が、クーラーが壊れたと言ってうちに来た。端的に言って、意味がわからない。1ヶ月、ここに居たいのだと、彼は言う(結局2週間に下方修正されたが)。うちは生憎、二人暮らしには向かない1DKだし、近くにバレーボールの練習場もないし(たぶん)、徹の栄養管理とかそういうことも勿論してあげられない。
バレーボールに打ち込む彼を、私では支えてあげられない、のだ。

「……2週間くらいなら、別にいいよ」
「本当?!嬉しいなぁ。名前と一緒に過ごせるなんて、考えるだけでワクワクするよ」

思い出の中の徹は、いつでもバレーボールが第一優先だった。徹なりに大事にしてくれていることは解りつつも、若い私にとっては物足りなかった部分もあった。その徹が、私と一緒に暮らしたいと言う。バレー選手である彼を支えられない私と、一緒にいたいと言う。……悪くないままごとだ。

「……うん。ワクワクするね」

徹は嘘くさいくらいの満面の笑みで、私の頭をそっとなでた。久しぶりに触れる徹の体温に、一瞬ぐらっと気が遠くなる。徹はそのまま、耳、うなじ、肩、二の腕、と手を滑らせた。怖いくらいに覚えている、この人の手のひらの感触が、私をなでていく。



「ただいまー。……徹、いるの?」

ただいま、なんて、ここ5年言う必要のなかった言葉が、違和感と共に身体の中を走り抜ける。
徹が突然押しかけてきたあの日から、1週間が経っていた。朝、徹の『おはよう』と『いってらっしゃい』で送り出され、帰ると『お帰り』と言ってご飯とともに出迎えてくれた。徹が沸かしてくれたお風呂に入って、徹が敷いてくれた布団で寝た。週末はサンドイッチを作って二人で近くの公園にピクニックに行った。まるで現実感のない、メルヘンチックなおままごとだ。私も、徹も、夢を見ているみたいだった。

「徹?いないの?」

呼びかけながら部屋の奥に入ると、徹はベッドの上にいた。スマホを握りしめたまま、眠っている。私の帰りを待っている間に居眠りしてしまったようだった。鞄を置いて、ジャケットをハンガーに掛けてから、徹の邪魔にならないようにベッドの隅に腰掛ける。すう、すう、と規則正しい呼吸音が、静かな部屋に木霊していた。

「……どうして、私の所に来たの?」

もちろん、眠っている徹は何も答えない。
何度聞いても、徹は理由を言わなかった。私も、しつこく聞くのはやめてしまった。今、私も、徹も、夢の中にいる。夢はいつか覚めるものだ。夢が覚めてしまったら、私は、徹は、どうなるのだろう。
……本当は、わかっていた。こんなことは、いつか終わらせなければいけない。幼稚なおままごとを続けるには、私も徹も大人になりすぎていた。

「夢なら覚めないで、なんて」

言っても意味がないことはわかっている。そして、言ってしまえば徹の足かせになってしまうだろうということも。

私は静かに、徹の瞼にキスを落とす。薄い皮膚の下に、熱い体温が蠢くのを感じる。

それからリモコンを取って、クーラーを消した。数秒で、それまでキンキンに冷えていた部屋に、むっとした熱気が少し戻る。そのうち、徹も暑さで目を覚ますだろう。私達は、いつか目覚めるとわかっているから、安心して眠りにつくことができるのだ。だからお願い、今だけは、良い夢を見ていて。


2021/10/16
title by 誰花

.