落ちたインクが滲むように



レトロと言ったら聞こえはいい。でも実際はただの古臭い店だ。私がバイトする小さな古本屋は、町に一つはあるような、安っぽくてこぢんまりした店だ。好事家が求めるような希少本があるような店でもないし、店主の特別で崇高な趣味が発揮されているような店でもない、ただ生業としてやっているだけの古本屋。私だって、多少本は好きだけど、くらいのレベルだし、大きなこだわりがあるわけでもない。

この店でアルバイトすることを選んだのは、ただの好奇心だった。漫画を立ち読みする小学生や暇を持て余した老人以外は誰も寄りつかないようなこの店で本を買っていく人間とは、どんな人なのだろうかという、純粋な好奇心。しかし、アルバイトをはじめてすぐ、この好奇心は満たされることはないと知った。……単純に、ほとんど客が来ないのだ。漫画を立ち読みする小学生や暇を持て余した老人すら、来てくれれば『今日はお客さんが来てくれた!』と内心喜ぶ程である。それ以外の客なんて、来てくれたら御の字だ。人間観察をして好奇心を満たすなんていう芸当は、期待するだけ無駄というものだ。

(……あ。あの人、来てる)
そんな私の変わり映えのしない日常の中で、あのお客さんが唯一の綻びだった。月に1度くらい、書生のような格好で店中の本棚をぐるりと見て回り、何冊か買って行く。見かけたのは、今日で何度目かだった。ガキでもジジイでもない客という時点で非常に珍しいのに、しかも若い男性、書生のような服装、そして見目麗しいとくれば、当然印象に残っていた。無意識に目で追っている自分に気付いて、慌てて目をそらす。誤魔化すみたいに、手元の本の文字に目を落とした。ああ、文章が頭に入ってこない。あのひとのことがこんなに気になるのは、多分、珍しい客だからというだけでは、ない。

あのお客さんはいつも、『私の棚』を見てくれていた。規則正しく本が整理された書棚の中で、唯一秩序のない一角。小さなスペースだけど、私が選書した本を並べさせてもらっているのだ。その棚を見てくれる客なんて、ほとんどいない。それも理解した上でやらせてもらっている、謂わば自己満足の棚なのだ。誰にも見られないこと前提だとしても、やはり誰かに見てもらえるのは嬉しい。私の好きな本を並べるのは、まるで自分の心の中を開示するような気恥ずかしさがあった。見られたくない、けど見られたい。もっと見てほしい、けど目をそらしたい。

「あの」

レジカウンターで暇つぶしに本を読んでいた私に声をかけてきたのは、あの書生のような青年だった。柔和で儚げで、でも傲慢さも兼ね備えた笑顔に、ますます興味をそそられた。抑えていた好奇心があふれ出さないよう、必死に押さえつける。

「は、はい、何でしょう。お会計ですか」
「ええ」

お客さんが出した古本をレジに通しながら、無意識に本のタイトルをチェックした。三冊まったくバラバラのチョイスだ。現代語訳の平家物語、少し前に流行ったライトノベル、そして江戸川乱歩の『心理試験』。

「……あ、乱歩」
「ああ、あの棚を見て、乱歩の初期作を久しぶりに読みたくなったので。あの棚、誰が選書を?」
「わ、私です……」
「そうでしたか。乱歩の特集の隣に名探偵コナンを置くとは、趣味がいいですね」
「あ、あはは、あれは棚が余っちゃったから冗談のつもりで……」
「先月の浄瑠璃特集も良かった。また、来月も楽しみにしてます」
「あ、ありがとうございます……っ!」

会計を終え、本を紙袋に入れて手渡す。あの棚について誰かに触れられるのは、初めてのことだった。嬉しさと、恥ずかしさが入り交じり、目をしばたたく。

「では、また」

お客さんはひらひらと手を振った。次、あの人に会えるのはまた来月だろう。早くも来月を待ち遠しく思う自分に気がついて、誤魔化すようにぶんぶんと頭を振った。





あれからも、あのお客さんはきっかり月に1回、店に現れた。来る度に二言三言、会話をして、ある時名前を尋ねると、彼は「……有栖川乱数と申します」と名乗った。

「古本屋さん、今月は、あれ、何特集なんですか?」

今月もやってきた有栖川さんは、不思議そうに眉をしかめ、そう聞いてきた。季節は、夏の陽も落ち着いた秋になっていた。

「今回はちょっと、趣向を凝らしてみました」
「『少年の日の思い出』、『こころ』、『山月記』……?全て、有名ですし、名作ですが……。古本屋さんの趣味ですか?」
「正解はですね……今回は、国語の教科書特集にしてみました」
「……!ああ、なるほど。やりますね、古本屋さん」
「嬉しい、有栖川さんに褒められると嬉しいです」

今日も、有栖川さんは3冊の本をレジに出した。先日大きな賞を取ったばかりの話題作、古地図、植物図鑑。今日も今日とてバラバラのラインナップだ。

「古本屋で話題作を買うなんて、物好きですね。新刊で買うのとあまり値段変わりませんよ?」
「いいんです。……僕はこの本の作者が嫌いなので、お金を落としたくないんですよ。古本屋さんにマージンをお支払する方がよっぽど精神衛生上良いです」
「あはは、そんなに嫌いなんですか、夢野幻太郎。私はけっこう、好きですよ」
「ええ」

有栖川さんは儚げに笑った。瞳の奥が複雑に揺れるのがわかったけれど、私にはそれが何故なのか、全く検討がつかない。

「夢野某、好きと仰る割には、古本屋さんの棚で一度も見たことがないですね」
「……ああ、確かにそうですね」

夢野幻太郎だけじゃない。私は本当に好きな本を、あの棚に並べたことがなかった。

「ほんとうに好きな物を誰かに知られるのって、何だか怖い気がするんです。だからいつも、少しズラしたラインナップにしてみたりして。……ま、見る人にはそんなことわからないので、意味なんてないんですけどね」
「いえ、古本屋さん。僕にもわかりますよ。ほんとうに好きな物を知られるのは、怖い。本当の名前を知られるのが怖いのと同じように」

有栖川さんはこちらをじっと見た。本能的に、内側を見透かされる感覚がした。でもなぜだろうか。私はこの人に、全てを知られてもいいと感じていた。偽りの好きなものを見せるのに飽きたからかもしれない。あるいは、先ほど好きな本を一つ明かしてしまったからかもしれない。

「……私、古本屋さんって名前じゃないです」
「ええ、知っています。……小生も、有栖川乱数という名前ではありません」

驚かなかった。そんな気はしていたのだ。紙袋に入れた三冊の本は、まだ彼に渡されず、私が握りしめている。

「店番、いつまでですか?」
「……へ?」

唐突に、彼がそんなことを言うので、変な声を出してしまった。妙な緊張感を打ち破るその提案のお陰で、私も気が楽になる。

「少し、一緒に散歩でもしませんか。好きな、ほんとうに好きな本の話でもしましょう」
「はい、でも……」

彼は人差し指を立てて口元に当て、「しい」と私の言葉を遮った。

「いいじゃないですか。ほんとうに好きなものを十分に知り合ってから、ほんとうの名前を教え合う。それもまた一興ではありませんか。……小生は、あなたをもっとよく知りたい。名前など、飾りです。偽りだっていい。そんなものより、あなたの、名前の中身をもっとよく見たいのです」

彼はとても楽しそうにそう言った。私のものなど比べ物にならない、渇望とも似た彼の貪欲な好奇心に、飲み込まれていく。ああ、目をそらせない。


2021/10/23
title by 誰花

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