目が眩むような衝動



※プロヒIF


細々とした事務処理をしながら、ふと時計を見ると、針はもう23時を指していた。いつもならば、定時を過ぎたタイミングで、この事務所の主である爆豪が『残ってダラダラやってんじゃねえ!クソ共帰れ!』と怒号を飛ばしてくれるのだが、そういえば今日は久しぶりに雄英時代のクラス会があるのだと言って出て行ったんだっけ。いつ何時、臨時で仕事が入るか予測が付かないプロヒーローは、クラス会もおちおちできない。そう考えると、今日、やっかいなヴィランが暴れないでくれ、こうしてヒーローたちがクラス会を開催できたことに神様に感謝すべきじゃないだろうか。まあ、爆豪はそんな殊勝なことはしないだろうから、代わりに私が感謝しておこう。

「……あァ?テメー、何でまだ居んだよ」

それは、先ほど時計を見てから更に30分程経ったときのことだった。声の主を見る。爆豪は、心なしか目と目の周りの皮膚が赤らんでいて、それはクラス会が無事行われ、彼が珍しくお酒を飲んできたことを示していた。

「あ、おかえりなさい。クラス会楽しめた?ヒーロー科は集まるの大変だよねー。でも仲が良くて羨ましい!経営科はいつでも集まれるけど、そんなこと言ってたら全然集まんなくなっちゃってさ、」
「……おい」
「ん?」
「だから、何でお前がまだここに居るんだって聞いとんだろーが」
「……あー、溜まってた仕事片付けたくって」
「明日もあんだろーよ。早く帰れ!」
「……っ」

酔っ払いらしくやけに絡むような言いようと怒号に、私は身が竦む。学生時代よりも大分丸くなったとは言え、あの頃から爆豪は野犬のように激しく、何にでも噛み付く鋭い怒りを振りまいていた。卒業以来、ずっと一緒の事務所で働いてきて、かなり慣れてきたと思われる私でさえ、今でも彼の怒鳴り声を聞くと背筋が凍る。

「仕事が溜まってただァ?優秀な経理の苗字サンに限ってそんなワケねーよなぁ?あァ?!」
「わ、私だってたまには残業……」
「……テメーは!ヒーロー科の奴らに会った俺が帰ってくんの待ってたんじゃねえのか?ネチネチネチネチストーカーみてーによ!」
「……そ、それは……」
「テメーみてぇな馬鹿の考えてることはすぐに分かんだよ!クソモブ!」
「……っ」
「クソ腹立つから聞かれる前に教えてやるよ!……ああ、半分野郎は元気だったよ、テメーみたいなブスのことは忘れてなぁ!」

爆豪は自分のすぐ横の壁を、ダンと叩いた。彼が本気で殴れば、こんな建物は簡単に粉々になってしまう。だから、彼がこれでも力加減をしてくれているのがわかった。妙に静かな空間に、爆豪と私の息づかいだけが木霊していた。
彼の言う半分野郎——轟くんは、私のことをもう忘れたらしい。良かった、と素直に思った。高校時代、彼と淡い恋人同士でいた私はもういないし、轟くんにもそうあって欲しかった。私のこんな勝手な考えが、爆豪を苛立たせていることも、私にはよく分かっているのだけれど。

「テメーは何で俺の事務所で働こうと思った?何で半分野郎の所に行こうと思わなかった?……テメーにはそれができただろーが!?」
「……私は、私の考えで、意思で、爆豪の誘いを受けたんだよ。そこに轟くんのことは関係ない」
「ハ、俺の所為ってか?!笑えねーわ。テメーがあいつのことをまだ忘れてねーのはわかってんだよ!フザケんな、俺をまるでかませ犬みてぇによ、」
「お、お願い、怒鳴るのやめて。……一回落ち着こう」

私がそう言うと、案外素直に、爆豪は一度言葉を切って怒鳴るのをやめてくれた。息を吸って、吐く。その間私は、どっどっと鳴る心臓に手を当てて、爆豪の顔色を窺った。三白眼を彩る二つの小さなヴァーミリオンが、私を捕らえて放さない。

「……俺は、お前を縛ってるのかよ?俺がお前を解放したら、あいつの所に行くのかよ?」

爆豪の声は掠れていて、とても切実だった。彼は立ったまま、かばんをガサゴソやって、ペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。それをぐび、ぐび、ぐびと3口で飲み干す。喉仏が上下するのを何と無しに眺めながら、きっと今爆豪は私にここから逃げる時間をくれているのだろうな、と思った。強靱な肉体、個性、そのほか全ての彼の武器とは裏腹に、内面は酷く臆病な人だ。私が、爆豪がヒーロー科のクラス会に行くと聞いたときに無自覚に轟くんを思い浮かべてしまったのと同様に、きっと彼も轟くんのことが脳裏をよぎったのだろう。彼は、私が彼の信頼を裏切って逃げ出すことを恐れている。だから、信頼を裏切られて傷つくくらいなら自分から手放してしまおうと、しているのだ。

「酔っている時に、そういう風に聞くのはずるい……と思う」
「……んなこと、素面の時に言えってか」
「あと、怒鳴って言うのもずるい」
「…………うっせー」

怒鳴らずに小さい声でそう言ってくれるのは単純な彼の優しさなのだろう。酔っ払いの例に漏れず、ただ感情の振れ幅が大きくなっているだけかもしれないけど。
『ずるい』という言葉を、数年間言えずにずっと胸に仕舞ってここまできた。言ってしまえば、こんなに簡単なことだったのかと、驚きもするけれど。まるで荷が下りたかのように軽くなった肩に、この言葉がどれだけ私を圧迫していたのかと思い知る。

「ずるいずるいって言うけどよ、テメーだってずりぃじゃねえかよ。文句も何も言わずに、黙々働きやがって」
「……それは悪い事じゃないでしょ」
「言いたいことあんなら言えや、クソブス」
「じゃあ言うけど。……ね、本当にわかんない?私がどうして爆豪の誘いを断らなかったのか。私がどうして爆豪の隣で文句も何も言わずに黙々働き続けているのか」
「……」

爆豪はバツが悪そうに伏し目にして、口を山なりに閉じた。久しぶりに見る表情だ。彼の中で、あどけなさと賢さが葛藤しているときの顔。プロになって、特に近年、爆豪はよく、丸くなったと評される。物腰が柔らかくなったとか、付き合いやすくなったとか。でも私は、彼のこの幼さを感じる表情が好きだった。小さな意地っ張りの男の子が、夢を体現してヒーローになった、そのことそのものを表すような、そんな表情が。

「本当は解ってるんでしょ。こんな話、意味がないってことくらい」
「……俺だけかよ」
「え?」
「馬鹿みてーに、怯えてんのは、俺だけかよ」
「……いつもはすごく賢くて、鋭くて、強いのに、妙な所で臆病だね。たまに、小さな男の子みたいに見える。ママの隣で震えてるの」
「俺がガキだって言いてーのかよ」

本当に子どもみたいな言い草と表情に、思わず笑んでしまった。こんなにも狂暴で底知れないパワーを持つこの人を、無力な赤ちゃんみたいに愛おしいと思ってしまう。抱きしめて、よしよしと頭を撫でてあげたいと思ってしまう。

「わーったよ」
「……?」
「確かにガキかもな、俺は。なら俺はガキらしく、お前を乱暴に奪ってやる」

ふわ、と爆豪に似合わない柔らかいジャンプをして、彼は私の目の前に降り立った。それが、小さな爆発の推進力を緻密に調整したジャンプなのだろうと理解したのは、子どもみたいに貪欲なキスで唇を奪われてからだった。

「……こういう俺が、嫌いじゃないんだろ」
「自信過剰」
「うっせ、クソモブ」

爆豪と私は二人して、悪戯っ子みたいに笑った。ああ、この表情が、好きだ。


2021/12/11
title by 誰花

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