ふたりの呼吸の記録




※プロヒIF


「ショート、お帰りなさい。今日は大変だったみたいね」
「ああ。お前も、お疲れ」
「お茶、入れようか」
「ありがとう」

そう言って、轟くんはぎこちなく微笑んだ。窓の外は暗くなっていて、いつの間にか夜になってしまったことを示していた。お湯を沸かして、煎茶の葉を急須に入れる。今日は、大変な一日だった。朝に入った事故の一報からはじまり、一つ落ち着いたかと思えば緊急で通報が入り、また落ち着いたかと思えば応援要請が入り、とプロヒーローのショートは朝から今に至るまで出ずっぱりだったのだ。この事務所のサイドキックで、情報整理や連絡を担当している私は、基本的にはあっちにいったり、こっちにいったりと、引っ張りだこの轟くんを見守ることしか出来ない。

「失礼しまーす。轟くん、お茶、入ったよ」
「ありがとう、名前」

また、轟くんは笑顔を見せる。ぎこちなくも、その微笑みが、ほとんど私にしか向けられることがないと気付いたのは、最近のことだ。

「今日は、大変だったね」
「ああ、さすがに、疲れた」

湯飲みを受け取り、すぐに口を付ける。「あち、」と轟くんは顔をしかめた。「熱いのは、得意でしょ」と私が笑うと、「それとこれとは」と言って、また微笑んだ。

「最近は、落ち着いてたから、今日みたいなのは珍しいね」
「ああ。……心配、かけたか?」
「ううん。ショートなら、大丈夫だろうって、すっかり油断してるよ」
「なんだそれ」

早くも空になった彼の湯飲みを受け取る。そのとき、少しだけ指先が触れた。もう少し、もう少しだけ、触れていたいと、思ってしまう自分を何とか律して、すぐに指を離す。私達はどちらも、何も言わなかった。「洗ってきちゃうね」とだけ、何かの代わりに言った。

「……ああ」

私はすぐに彼に背を向ける。ダークターコイズの瞳が寂しげに揺れるのを、直視できなかったから。

「ねえ、明日のエンデヴァーとの共同作戦についてなんだけど……」

水場で湯飲みを洗い終え、話しながら彼の執務室に入るが、返事はなかった。代わりに、すう、と深い呼吸の音が聞こえた。机に突っ伏して眠る、あどけない寝顔に、思わずくすっと笑ってしまう。

「……可愛いんだからさ、まったく」

春先とはいえ、まだ夜は冷える。戸棚からブランケットを取り出して、彼の背中に掛けた。広くて、柔らかくて、頼もしくて、あどけない、そんな背中が、どうしても愛おしくて、そっと撫でてしまおうか、なんて馬鹿な考えが頭をよぎる。

「……名前?」
「あ、ご、ごめん、起こしちゃった?」

机に伏せていた頭をもたげて、轟くんはこちらを見た。同時に、掛けていたブランケットがずり下がり、「おまえが、掛けてくれたんだな」と轟くんは笑った。

「…………なあ、おまえは、ずっとここにいてくれるよな」
「え?」

ぱし、と前触れなく轟くんが私の手を掴む。彼の右手は、ひんやりと冷たかった。私の手が熱かったのかも知れない。一瞬の視線の交錯ののち、また前触れなくぱっと手を離される。

「いや、いいんだ。家に帰って寝た方がいいから」

轟くんはそう言って、椅子からだるそうに立ち上がる。私にはそれを見守るしかなかった。

ひどく疲れている様子の彼をこれ以上働かせるわけにもいかず、今日の報告書は明日に回すことにした。轟くんが着替え終えるのを待ち、一緒に事務所を出て鍵を閉める。轟くんは急かすでもなく、黙って私を見ていた。

外に出ると、ぱらぱらと雨が降っていた。そういえば、先ほど帰ってきた轟くんのコスチュームの肩の部分が少し濡れていたっけ。轟くんは、大きなビニール傘を広げた。私も確か折りたたみ傘を持っていたはず、と思って鞄をガサゴソやっていると、轟くんは少し傘を揺らして、ぎこちなく微笑んだ。

「駅までだろ。そう遠くないし、入っていけばいい」

この人の優しさは、ぎこちない。ぎこちなくて、暖かい。遠慮がちに彼の傘の下に入ると、肩がぶつかる。轟くんの左肩は、先ほどの右手の掌とは対照的に、とても熱かった。これは、個性のせいだろうか、それとも彼の体温だろうか。

「雨、掛かってないか」
「うん、ありがとう」

そんなどうでもいいやりとりをする度に、手の甲と手の甲がぶつかるんじゃないかと、彼の熱い体温が伝わってきてしまうんじゃないかと、気が気でなかった。私は、彼の暖かさを知るのが怖い。怖いから知りたくない。怖いから、知りたい。

「……それじゃ、俺はこっちだから」

轟くんが乗るのは電車で私はバスだ。「待って、」と、あっさりと去ろうとする彼の肘の辺りを掴む。左腕だ。熱かった。とても怖い。

「……どうした」
「……轟くん……」

まるで本当に何も解らないみたいに、轟くんは首を傾げて見せた。畳んだビニール傘からぽたぽたと落ちる水滴が、小さな水たまりを作っている。

「わたし……」

言葉を必死に探して、上手く喋れずにいる私を、轟くんはゆっくりと待ってくれた。あるいはそれは、私が結局喋り出さないことを期待していたのかもしれない。「わたし、」もう一度言うと、轟くんは頷いた。まるでこれから何を言うのかわかっているみたいに。

「結婚、しちゃうんだよ……?他の、人と……」

絞り出して、それだけ言った。轟くんは、「うん」と小さく頷いた。うん。それが轟くんの答えだ。前から知っていた、知っていたけれど、私は静かに絶望していた。それが、わたしたちの、答えだ。

「……じゃあ、また明日」

そう言って、改札に吸い込まれていく轟くんを、私は目で追わなかった。ざあ、と一段と強くなった雨音が私を包む。まるで、ここには誰もいないみたいだった。





『焦凍が、来ない。』
第一報は、エンデヴァーから来た、それだった。画面に表示されるそのメールを、開いては閉じ、閉じては開き、それでも文面は変わらないし、私の動揺が収まることもなかった。
エンデヴァーとの約束の時間はとうに過ぎていた。普段彼が、時間に遅れたりすることは滅多にない。連絡無しにキャンセルしたことも、これまでに一度もない。

「焦凍はここにもいないのか?」

エンデヴァーがそう言って直接事務所にやって来たのは、夕方の17時を過ぎた頃だった。エンデヴァーとショートの約束は13時で、そこに轟くんは現れなかった。その後も、現れなかった。エンデヴァーとの会談の場にも、自分の事務所であるここにも。

「エンデヴァーさん。……メールでも言いましたけど。ここにはいないんですよ。消息不明です。メールも、電話も、何百回としたんですけど……。もちろん家にもいません」
「実家にもいなかった。母親の所にもいなかった」
「雄英の同級生たちにも聞きましたが、どこにもいません。うちのサイドキックたちが、居そうな所を今必死に探してます」
「それでも、見つからないんだろう」
「……はい」

話しながら、私はパソコンのメール画面の受信ボタンを押してみる。やはり返信はない。意味がないとわかっていても、もう一度、メールを打ってみる。『轟くん。どこにいるの。みんな、心配してるよ。帰ってきて。 苗字』と、送った。でも、きっと彼は読まないだろう。

「……苗字名前だな、君は」
「はい。えーと……」
「少しだが、焦凍から話は聞いている」

え、と思うと同時に、デスクの上に置いてある私のスマホのバイブが鳴った。まさかと思って画面を見るが、轟くんではなく、私の婚約者からの着信だった。自分が落胆していることには気付かないフリをして、スマホを再びデスクに置く。少しして、バイブは鳴り止んだ。「……いいのか?」と一連の動作を見ていたエンデヴァーが言う。「いいんです」と私は頷いた。今の私には、婚約者と話している心の余裕なんてない。

「……君は、焦凍を探しに行かないのか」

エンデヴァーはこちらを見ずにそう言った。

「君には、焦凍の居る場所がわかるんじゃないのか」

正直、エンデヴァーがそう言ったのは意外だった。私はじっとエンデヴァーの横顔を見つめる。彼は轟くんによく似たぎこちない笑顔で、「なに、父親の勘だ」と言った。

「もしわかるなら、君が探してやってくれ。あいつが今待っているのは、俺ではないだろう」
「……でも……」
「そしてそれを、君もわかっているんじゃないのか」

再び、スマホのバイブが鳴る。やはり婚約者だろう。私はスマホを見もせずにポケットに突っ込む。

「その電話に出ないのが、君の気持ちの証左ではないのかね」

エンデヴァーがそんなようなことを言った。言い終わる前に、私は事務所を飛び出してしまったので、定かではないけれど。





かつて一度だけ、来たことのある場所だ。
轟くんが個人のヒーロー事務所を設立したばかりの頃だった。サイドキックも私一人で、今とは違って一緒に現場に出ることもかなり多かった。厄介なヴィランに少し手こずり、現場から解放されたのは午前1時のことで、空いているビジネスホテルを探そうか、それとも歩いて帰ろうか、一旦相談するために立ち寄った公園だった。
あの時、私は戯れにブランコに乗って、『焦凍くん、見て。天国に行けそうだよ』と言った。轟くんはぎこちなく笑って、『ああ』と頷いた。『俺も、いつか天国に行くなら、そんな風がいいな』と。
轟くんがどこか寂しげに見えて、私はブランコを下り、彼の所に駆け寄った。そして、手を握った。両手で両手を握ると、片方は熱くて、片方は冷たかった。
『焦凍くん、どこにも行かないで』と言うと、『名前も、どこへも、行くな』と言って項垂れた。私は返事をせず、ただ彼の両手の温度を感じていた。


「……ここに、いたんだね」
「名前」

轟くんは、青ざめた顔をして、あの時私が漕いだブランコに座っていた。お尻のポケットで、またバイブが鳴るのを無視する。

「何で、ここに来た」
「それは、轟くんが、」

風が吹いた。ブランコが揺れる。

「……焦凍くんが、どこへも行くなって、言ったから」
「……俺は」

小さな声だ。「俺は、弱いな」と焦凍くんは付け足した。

「私も、弱いよ」

揺れるブランコに座ったままの焦凍くんの目の前まで行ってしゃがみ、彼の顔をまっすぐ見た。またポケットでバイブが鳴る。今度は無視をせずに、取り出して耳に当てた。

『名前、今まで何して、』
「ごめん、本当にごめん」
『え?』
「私、あなたと結婚できない」
『ちょっと、おい、名前?』

それから終話ボタンを押すのは、案外簡単だった。焦凍くんは目を見開いて、私の顔を見ている。私も焦凍くんの顔を見る。視線がかちあって、混じり合う。

「俺は、怖かったんだな」
「……うん」

あの時みたいに、焦凍くんの両手を、私の両手で包み込む。相変わらず、熱くて、冷たいこの手が、愛おしくてたまらなかった。

「私も、怖かったよ。……でも、もう怖くない。焦凍くんがそばにいるから」

頬に手を添えて、そっとキスをする。焦凍くんの頬も、唇も、ちゃんと暖かかった。焦凍くんの体温だ。

「帰ろう」
「……ああ」
「みんなに、謝らなきなね。すっごい大事になっちゃったんだから」
「そうだな」

焦凍くんはぎこちなく笑った。このぎこちない微笑みが、私は好きだ。

「ねえあの時、そのあとどうしたんだっけ」

午前1時に公園に寄って。ブランコに乗って。両手を握って。その後、どうやって日常に帰ったのか、すっかりと忘れてしまっていた。

「……こうしたんだ」

焦凍くんが、私の右手を取って握り、歩き出す。それは私達の帰るべき、事務所の方向だった。彼の左手はとても熱くて、これが個性のせいなのか、それとも彼の体温なのかわからなかったけど、私は体温だったらいいなと思った。

2022/1/15

title by プラム

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