八月、逃げ水は微かな匂いだけを残して




「おはよ。今日は早いな」
「あ、綴くん、おはよ。昨日あの後結構筆が乗っちゃって。せっかくの勢いを無駄にしたくなくて、朝から来ちゃいました」
「スゲー、調子良いじゃん。うっし。俺も頑張らないとな」

当たり前のように隣に座った綴くんが、鞄から荷物を出していくのを何となく眺める。「あ、そうだ」嬉しそうに、綴くんは笑った。心臓を摘ままれたみたいに、ぎゅっとなる。

「これ、昨日のお返し。コーヒー差し入れ」
「えっ!……実は私も、今日もコーヒー買ってきたの」
「マジで?!じゃあ……」
「コーヒー4本になっちゃったね」
「はは。だな」

思わず笑ってしまうと、近くの席の人に睨まれた。慌てて口を押さえる。綴くんが買ってきてくれたコーヒーはとても冷たくて、ばかみたいに火照った私を鎮めてくれるみたいだった。

「あ、そうだ。これも、差し入れ」

そう言って、綴くんは鞄から更に何か小さいものを取り出した。両手で受け取ると、個包装のクッキーに、マジックで『今日も頑張ろうな』と書いてある。

「わあ!ありがとう」
「俺からのありがたーいメッセージ付き」
「うん、嬉しい。大事に食べるね」

綴くんが椅子に座ると、勢いで生じた風が、私の二の腕にも届いた。たったそれだけ。たったそれだけのことでなんだか居心地が悪く感じるくらいには、私は綴くんのことが好きなのだと、今更思い知る。

(あーあ。いつのまに……)

最初は、顔見知りですらなかった。ただ存在を知っているだけの人。それが、こうして、言葉を交わして、毎日顔を合わせているうち、こんなにも惹かれるようになってしまった。どうしてなんだろう。どうして、こんなにも好きなことが、苦しいのだろう。沢山本を読んでいても、わからない。どこにも書いてない。こんなこと、本は教えてくれなかった。

ある意味、現実逃避なのかも知れない。ふと我に返ると、いつのまにかのめり込むように執筆に集中していた。あれからもう2時間も経っている。隣を見ると、綴くんは突っ伏して居眠りをしていた。あんまり筆の調子がよくないのかもしれない。
そうだ、またお菓子をあげよう、と思い立った。鞄を漁る。……あった、昨日と同じ、キットカット。裏返して、何を書こうか考える。昨日と同じ文章でいいか、と思い、とりあえず『つづるくん』と書く。

「……」

ちょっとした、出来心だった。気付けば私は、『つづるくん』の後、『ガンバレ』と書くべきところに、『好きです』と書いていた。
……いやいやいやいや。こんなもの、渡せる筈がない。自分の行動に我ながら衝撃を受ける。綴くんがまだ寝ているのを確認して、この恥ずかしいキットカットは絶対に綴くんに見られないよう、パーカーのポケットにしまった。慌てて新しいキットカットを出して、『つづるくん 無理しないでね 応援してます』と書いた。うん、当たり障りない。これでオッケーだ。寝ている綴くんを起こさないように、近くにそっと置いた。

気分転換に、自習室を出て図書の方に行ってみた。ちょうど、資料が必要だったのもある。『好きです』と書くだなんて、また馬鹿げた行動を衝動的に取ってしまわないように、自分を綴くんから遠ざけたというのも、ある。
いくつか資料を見繕って戻ってくると、綴くんが起き上がってちょうどキットカットを食べていた。居眠りから目覚めたようだ。

「お、起きたのね」
「あー……はは。情けないとこ見られちゃったな」
「全然。私も寝ちゃうことあるし。お互い様だよ」
「キットカット、サンキュ。ちょうど糖分欲しかった」

綴くんが美味しそうに頬張ると、何だか特別なお菓子みたいに見えるのだから不思議だ。私も自分の分を取り出して、一口囓った。チョコレートの香りと、優しい甘さが口いっぱいに広がって、酷使された脳みそを癒やしてくれる。

「うっし。もうちょいだけ、頑張りますか」
「うん。もうひと頑張り」

お互いに目配せをして、それから各々自分のパソコンに向き直る。大学の夏休みは長いと言っても、終わりはもうすぐそこに近づいてきていた。こんなふうに熱に浮かされた日々が、このあともずっとずっと続けばいいのに、なんて、無理な願いだとはわかっているけれど。


「……名前」

ふと名前を呼ばれ、振り向くと綴くんがこちらを見ていた。綴くんはもうパソコンを閉じている。……と思ったら、いつのまにかもう昼になっていた。意識した途端に、胃が空腹を訴え始める。

「すっげぇ集中力。俺、結構じっと見てたのに、全然気づかなかったもんな」
「えぇ……?!声かけてよ、恥ずかしいなぁ……」
「いつになったら気づくかと思って頑張ってみたんだけど、俺の負けだわ。観念して声かけた。ごめんな、集中邪魔しちゃって」
「ううん。お腹すいたし、ちょうどよかった」
「お、よかった。それで声かけたんだ。昼飯、行かね?」
「うん」

当たり前のように、声をかけて。当たり前のように、連れ立って。綴の当たり前の中に私がいることが、この上なくくすぐったくて、眩くて、苦しい。いつかこのきらきらした当たり前が、壊れてしまうんじゃないかと。

「あ、」

綴くんが立ち上がったとき、おしりのポケットから何か小さいものが落ちるのが見えた。「綴くん。なんか落ちたよ」声をかけながらかがんで拾う。それは小さなチョコレートだった。余白に何か書いてある。

「……え?」
「うわああ!ちょ、待って、見ないで!ありがとでも自分で拾うから!」

物凄い勢いで、綴くんは私の手からチョコレートを奪い取った。素早すぎて、ほとんど書いてあった文字は見えなくて、でもかろうじて目に入ったその文は……

「み、見た……?」
「えっと……」
「見た、よな……。うわ、俺マジで、だっせえ……ほんと恥ずかしい……忘れて、マジで……」

大きな両手で顔を隠してもわかるくらい、顔を真っ赤にして、綴くんはうわ言みたいに言った。こちらまで、つられて赤くなる。だって、だって、さっき見えたあの文字は……

「ま、待って、綴くん」
「嫌何も聞きたくない、あーあーあー」
「違うの、これ、見て……」
「……?」

パーカーのポケットから、取り出して、綴くんの目の前に差し出した。絶対に綴くんには見せることはないと思っていた、キットカット。私の、ありったけの言葉が書かれた、キットカット。

「こ、れって……」
「……綴くんがダサいなら、私もおんなじくらいダサいよ」
「うそ、俺、」

綴くんも、先ほど私から奪い取ったチョコレートをおずおずと見せてくれる。そこには、はっきりと綴くんの綺麗な書き文字で、『名前、好きだ』と書かれている。

「もしかして俺たち、同じこと考えてたってこと……?」
「……みたいだね」
「嘘、信じらんねー。夢みたい」

信じられないのは、私だって同じだ。心臓が、血液が、歓喜が、悲鳴が、すべてが、口から飛び出そうだった。深呼吸を一つして、キットカットを手渡す。綴くんも同じようにチョコレートを差し出して、二人で交換するように受け取る。

「好き、です。名前」
「うん、私も。好きです。綴くん」

また顔を真っ赤にした綴くんが、今度はきちんと真っ直ぐ私を見ていた。私も彼を見る。視線が混じり合って、また離れ、また混じり合う。これが、小説だったなら、地の文には何て書こう。これが、脚本だったなら、ト書きには何と書かれるのだろう。真夏の終わりに、私たちの、新しい物語が始まったのだ。

2022/1/29
title by Garnet

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