けぶる今日に浮かぶひと


「てめぇはいつまでそうやってそこに居るつもりだよ」

と、左馬刻さんは煙草の煙を長く吐きながら言った。季節外れの嵐が空を覆った日のことだ。うちの店のカウンターは、彼がどかっと座るだけでほとんど埋まってしまう。私はグラスを一つ一つ磨きながら、左馬刻さんが灰皿に灰を落とす姿をただ見ていた。

「別に、挨拶料はちゃんと払ってるんだから、いいじゃない」
「そういう話じゃねえ。てめぇはその狭ぇカウンターの中から出ずに老いていきてーのかって話だよ」
「それも人生よ」

つまらなそうに、またひとつ煙を吐く。私は顔をしかめた。こんな、どう考えても有害でしかない物を、人はどうして好きこのんで摂取するのだろう。

「左馬刻さんだって、ずっとヤクザでいいの」
「……どういう意味だよ」
「もしかしたら、違う人生もあったんじゃないの?」

なんて、意味のないIFを重ねるのを左馬刻さんが嫌うということは、私はわかっている。わかっていて、聞いてみた。左馬刻さんは、小さく眉を顰めたけど、「うるせぇ」と言うだけだった。怒り出さないなんて、今日は機嫌が良いのかも知れない。

「俺は自分の意思でこうしてる。てめぇはどうなんだ」
「私だって私の意思でここにいるから、心配しないで」
「ハッ、これが心配だと思うのか」

左馬刻さんは美しく、邪悪に笑って、新しく煙草を取り出した。

「煙草、何本目?」
「あ?文句あんのか」
「文句じゃなくて、心配なの」
「心配だぁ?」

私の言葉に構う事なんてなく、左馬刻さんは煙草を銜えた。そして疑うこともなく「ん」と顔を突き出して火を求め、私も言葉とは裏腹に従順に火を点ける。満足そうに笑う左馬刻さんは美しかった。けれど。私の脳裏には、何故か一郎くんの顔がよぎっていた。思い出の中の一郎くんが、左馬刻さんとは全く違う眩しい笑顔で『#名前#ちゃんは、煙草なんて吸うなよ。自分を大切にな』と言う。これを言われたとき、私はどんな顔をしたんだっけ。

「少しで良いから煙草減らしてみたらいいのに。……自分を大切に、したらいいのに」

これが一郎くんからの受け売りだなんて言ったら、左馬刻さんは激怒するだろう。激怒するどころか、半殺しにされるかもしれない。銃兎さんにも山田一郎の名は左馬刻さんの前では出すなと念押しされているし、だからもちろん、一郎くんの名前を出したことはないけれど。私は左馬刻さんと話すとき、何故かいつも一郎くんを思い浮かべていた。理由ははっきりとはわからないけど、たぶん、私は左馬刻さんを見ていると、ひどく苦しそうで、私まで苦しくなってしまうのだ。だから、左馬刻さんが、一郎くんみたいに、前だけを見て生きられたらどんなにいいかと、身勝手に夢想してしまうのだ。

「自分を大切にだなんて、とんだ世間知らずの言う台詞だな」
「……でも、」
「うるせぇ」

再び、美しく笑う。

「これも人生だ」

美しく、邪悪な笑みを、私は直視できなくて、すっかり綺麗なグラスを磨き続けている。



「おい、やってんなら看板出せや」

からんころんとドアベルが来客を告げ、私は顔を上げた。こんな時間に飲みに来る客なんて、あなたしかいないでしょう、と文句を言いたいのを堪えて、「ああ、左馬刻さん」とだけ応じた。左馬刻さんも、本当に文句を言いたかったわけではなかったようで、寧ろ満足そうにいつものカウンター席にどかっと座った。「灰皿がねぇ」と、苛ついた声で言う。偶然、灰皿を洗った直後で、その席に戻し忘れていた。

「あ、ごめんなさいね、今戻すから」
「早くしやがれ」

私が灰皿を手に取ると、左馬刻さんは当然のようにそれを引ったくり手元に置く。流れるような動作で煙草を一本取り出し、口に銜えて火を求める。私はいつものように、火を点けるためにマッチを出そうとして、……手を止めた。
……後になって考えると、この時の私は既に何か変だった。疲れていたのかもしれない。あるいは、何かに八つ当たりしたい気分だったのかもしれない。

「……あ"ぁ?」

いつものテンポで火が点かないことに気づいた左馬刻さんが、睨めつけるようにこちらを見る。流石の迫力だった。でも私は何故か、少し安心してもいた。左馬刻さんは美しく笑うよりも、こういう表情の方が似合っている。

「煙草、減らした方がいいって」
「……テメーにゃ関係ねえ。火、点けるからマッチ寄越しやがれ」
「こ、ここは私の店よ。私が決めれば、店を禁煙にすることもできる」
「……あー、そーかよ。つまんね、帰るわ。二度と来ねえけどな」
「ごめんなさい、でもお願い、少し減らしてほしいだけ。……あなたが、自分で自分を苦しめるのを、見ていられないだけ」

左馬刻さんは目を見開いて、「お得意の、自分を大切に、ってか。そういうテメーは言える程大層なタマかよ」と吐き捨てるように言った。私は、なぜだかひどく、悲しかった。自分を大切に、なんて、左馬刻さんの言う通り、私だって実践できていない。私こそやり方を教えてほしいくらいなのだ。それでも私は、左馬刻さんが自分を大切にするよう願うことを、やめられなかった。これは願いというよりは、祈りに近いかもしれない。手の届かない存在に向けて、目蓋を閉じて必死に手を合わせているのだ。

「私は、左馬刻さんに前を見てほしいだけ。一郎くんみたいに、まっすぐ、前を」

言ってから、しまった、と思った。うっかり口を滑らせたのだ。はっと息を呑んで前を見ると、左馬刻さんの顔は恐ろしいほど青白かった。目をそらす、よりもまえに、左馬刻さんが私の襟元を掴む。殴られる、と思って目を、ぎゅっと瞑る。

「……!」

予想していた痛みは、いつまで経ってもやってこなかった。その代わり、酷く乱暴な口づけをされたのだと、気づいたのは彼の唇が離れ、掴まれていた襟も開放されたあとだった。口の中に残る煙草の苦みが、これは現実なのだと執拗に突き付けてくる。

「悪かねーだろ、煙草の味もよ」

左馬刻さんがニヤリと笑う、その笑顔は相変わらず、美しくて邪悪だった。「世間知らずに教えてやんよ。……これが、人生だ」そう言って、再び唇を塞がれる。苦くて、甘い、乱暴なキス。

「お前は、俺のことだけ見てりゃいいんだよ」

私はまだ、わからなかった。脳内ではやっぱり、一郎くんが『自分を大切にな』と言う。でも、私の頭の中の一郎くんは、ずっと同じ台詞を喋っていて、『自分を大切にな』とは言っても、自分を大切にするやり方なんて、教えてくれなかった。何もわからない私を、左馬刻さんはまるで季節外れの嵐みたいに乱暴に、汚してくれるのだ。
苦くて、甘い、煙草の薫りが私を包む。それはまるで、『これが人生だ』と私に囁やきかけてくるように。

2022/2/5

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