心臓に刺さった棘を摘み取れずにいる




一郎くんと出会ったのは、確かもう1年も前のことだ。はじめは、妙にでかい男の子だな、とだけ思ったのを覚えている。イケブクロのごみ拾いイベントで、人にぶつかられてごみをぶちまけてしまった私に、声をかけて手伝ってくれたのが一郎くんだった。それから何だかんだと話すようになり、いつのまにか仲良くなっていた。彼は19歳で自営業。私は立派なブラック企業のOL。友達でもない。恋愛でもない。この距離感が、心地よかった。

「ねぇ一郎くん、今日も夕飯、食べてくでしょ?」
「あー、うん」

ソファに寝そべり、彼はラノベを読みふけっている。こういうときの雑な返事にはもう慣れた。私が立ち上がって夕飯の準備を始めると、彼が一瞬だけこちらに視線を向けたのがわかる。何故だか無性にほほえましくて、私は張り切って袖まくりをした。
一郎くんは、気付けばうちに入り浸るようになっていた。弟くんたちがいないタイミングとか、依頼が予想よりも早く終わった夕方とか。その度に、私は張り切って夕飯を作る。別に料理は好きでも嫌いでもなかったけど、一郎くんが来るようになってからレパートリーが数倍に増えた。

「お腹空いてる?」
「……おー」
「コロッケでいい?」
「……うん」
「ちょうどジャガイモたくさんもらったんだよねー」

コロッケは、昔おばあちゃんがよく作ってくれた、思い出の料理だ。料理好きとは言えない私の、唯一の得意料理だ。油で揚げなくちゃいけないのがちょっと面倒だけど、味付けはばっちり。

「できたよー!」
「おー!美味そう!」

コロッケを持ってリビングに戻ると、一郎くんはバッと飛び起きて目を輝かせた。少年みたいな笑顔に、こちらまで嬉しくなる。

「うめぇ!」
「そう?」
「何個でも食えるぜ、これ」
「まだ沢山あるよ。でも、お腹壊さないでよー?」
「名前はほんと、料理上手だよなー」
「調子良いんだから」

一郎くんは本当に遠慮なく、コロッケを5つも平らげた。食べ終えて、ふう、と満足そうに息を吐く。時計を見ると、夜の8時を少し越えたくらいだった。そろそろ、一郎くんは帰らなくちゃいけない時間のはずだ。

「忘れ物ないよね?」
「……なんで?」
「え、だって……」

いつも通りの時間に、いつも通りの声かけをした、つもりだったのに、疑問符が返ってきたので私は戸惑ってしまった。いつもなら、8時になったら慌てて荷物をひっつかんで慌てて出て行くのに、今日の一郎くんは、ソファから立ちもせず、のんびりと構えている。

「弟くんたちは……」
「今日は、遅くなるって言ってある」
「でも……」
「皿、洗うだろ?手伝うよ」

そう言うと一郎くんはてきぱきと皿を重ね、キッチンに運んでいく。無駄のない動作で、どんどんとテーブルの上を片付けていくので、私はおろおろと彼の後ろを付いて行くことしか出来ない。

「で、でも、何で、急に……」
「?」
「いつもは、8時くらいになったら慌てて帰るのに」
「……」

一郎くんがスポンジで皿を洗い、私が水ですすいでいく。ジャーと流れ続ける水音で一郎くんの声がよく聞き取れなくて、やきもきした。皿を受け取る。水で流して水切りに置く。受け取る。流して置く。繰り返しの中で、すぐ隣に立つ一郎くんの体温が伝わってくる。

「……っし、終わり」

きゅ、と最後に音を立てて、蛇口を閉めた。水音が止み、私たちを沈黙が包む。私はもう一度、「……どうして今日は急いで帰らないの」と聞いた。

「……もう少し、一緒にいたいと思ったから」

一郎くんの声はそっけなくて、でもこちらを見る眼差しは暖かかった。目が合う。鼓動が速くなる。

「それって……」
「俺、ガキみたいだろ」
「え?」
「弟たちの前では情けねえ姿は見せらんねーからさ。名前といるとついつい甘えちまう」

一郎くんが、濡れた手をタオルで拭いた。ふと見える骨張った腕に、ああ、この人は男の子なんだなぁと実感してしまう。「でも」

「ずっとガキだと思われてんの、癪だから」
「一郎く、」
「……俺もけっこー、大人ってヤツなんで」

抵抗なんてする暇もなく、気付けば私は一郎くんの腕の中にすっぽりと収まっていた。暖かい、彼の体温が、皮膚を通して直に伝わってくる。どき、どき、と早鐘を打つのは、私の鼓動だけじゃない。一郎くんの心臓の音まで、まるですぐ近くにあるかのように、ありありと感じられる。

「一郎くん」
「……い、嫌、だったか?」

おずおずと、私を解放する一郎くんはぎこちなく笑っていて、まるで少年のようなあどけなさに私は思わず笑ってしまう。「……笑うなよ」と言う拗ねた顔まで可愛らしい。

「嫌じゃ、ないよ」

応えると、一郎くんは目を見開いた。瞳はきらきら光っていて、とても眩しい。

「一郎くんは、大人にならないで」
「……え?」
「きみは、そのままでいいんだよ」

つま先立ちをして、一郎くんの驚いた顔にそっと口づける。離れると、もっと目を見開いた一郎くんが、そこにいた。勢いよく抱きしめられて、転びそうになるけど、それすらも一郎くんが支えてくれる。まったく、大きな子どももいたもんだと、広い胸の中で幸せを噛みしめた。

2022/2/19
title by Garnet

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