とけかけた導火線のかんばせ




「……えーと」
「ああ、摂津に会わせるのは初めてだったか。名前だ」

兵頭の、その十分とは言えない言葉足らずの紹介と共に、彼女は小さくぺこっと頭を下げた。……思えば、この時から俺はこの名前という女が、気に食わなかった。顔を見るだけで、何故だが無性に苛々するのだ。振る舞い、声、存在、その全てが。あまりの苛立ちに、俺は名前を直視できず、無意識に目を逸らした。すると彼女は寂しげに笑う。その微笑みが目の端に映り、俺は益々苛立ちを募らせる。


「あ、万里くん!偶然だねー」
「……おー」

あれからというもの、名前は俺を見かけるたびに、馬鹿な犬みてぇに笑顔で駆け寄ってくるようになった。やたらと大学付近で偶然会うなと思っていたら、彼女はなにか察したのか、天美の近くに住んでいるのだと言って笑った。ついでに、「どうせなら、葉星の近くがよかったよ。……そしたら十座くんに、偶然会えるかもしれないのに」なんて言うものだから。俺は奥歯をギリと噛んで、怒りをあらわにしないよう耐えるのに精一杯だった。大した会話をしているわけでもない。一言二言、言葉を交わして、俺は大学に、名前は駅に向かう。たった数十秒の出来事なのに、あの顔がやけに脳裏に焼き付いて、離れなかった。

「……んだよ」

何故か、胃がムカついて、ひどく吐き気がした。むしゃくしゃする。上手くいかねえ、と考えかけて、俺は立ち止まった。……上手くいかねえって、何がだよ。それじゃまるで、俺が何かしたいみたいじゃねえか。別に俺は、名前に何か思うわけじゃない。ただ嫌いってだけだ。顔も見たくねえ。……なのにどうして、こんなにも、頭の中に名前の顔がこびり付いているのだろう。



「あっ、兄ちゃんなら今大学行ってて!もうすぐ戻ってくると思うから待ってるといいと思うよ!」

九門の、でかくて良く通る声が玄関の方から聞こえて、俺は嫌な予感がした。それから少しして、二人分の足音と、こんこんというノック音が俺のいる部屋に響いた。「……あー?」自分の喉から出てきた声が、自覚以上に苛つきを含んでいて、自分でも少し驚く。

「おーい、ワンレン。開けるぞ」
「んだよ、九門。大好きな兄貴ならいねーぞ」

扉を開ければ、案の定そこには馬鹿面した九門と、その後ろには暢気な顔をした名前が立っていた。

「あ、万里。名前知ってるだろ。兄ちゃんに用があるみたいでさ、もうすぐ帰ってくると思うから部屋で待たせてやってくれよ」
「……どうぞ御勝手に」
「なんだよ、万里機嫌わりーな。寝起きかぁ?ま、いっか。とりあえず、いいってさ、名前」
「う、うん、九門くん、ありがとう。万里くん、お邪魔します」
「……勝手にしろ」

今日は休日だが、兵藤のやつは急遽大学に提出物を出すとかなんとか言って、朝慌てて部屋を出て行った。提出物を出すだけなら、九門の言うとおりそのうち帰ってくるのだろう。名前と兵藤が会う約束をしていたのかどうか俺は知らないが、名前が兵藤にすっぽかされて傷ついていたらいいのに、と思った。

「万里くん、今日ね、十座くんにゼミ合宿のお土産渡しに来たの。おまんじゅう、万里くんも食べる?」
「……いらねー」
「万里くん、甘いの嫌いだっけ?結構甘さ控えめだから、甘いの苦手な人でも美味しいと思うよ」
「いらねーっつーの」
「甘さ控えめ過ぎても、十座くんからしたら物足りないかなーとか色々悩んだけど、結局おまんじゅうにしたんだよねー。で、甘さ成分の埋め合わせのために、クランチチョコも買っちゃった。何で温泉街って、どこ行ってもクランチチョコ売ってるんだろうね?まあどこで買っても美味しいからいいんだけど」

良く喋る煩い女だ、と思ったが、名前なりに緊張しているのかも知れない、と思い当たった。仕方なく、差し出してきたまんじゅうを一つ受け取ると、名前はぱっと表情を輝かせた。「たくさんあるからね、もっと食べたかったら言ってね」「まんじゅう沢山あるとか、ばあさんかよ」他愛ない会話を、悪くないと思ってしまう自分に吐き気がした。

「しかし、十座くん遅いな。この時間には帰ってるはずだからって話だったけど」
「……約束、してたのかよ」
「うーん、ちゃんとした約束って程じゃないけどね」

過去のメッセージのやりとりを遡っているのだろう。名前はスマホの画面を上に上にスワイプしている。と、そこで「あ、十座くんから電話だ」と名前は呟いた。

「ごめん、ちょっとここで出てもいい?」
「……どーぞ」

そう広くない部屋だが、名前は律儀に立ち上がって部屋の隅まで行き、できるだけ俺から距離を取ろうとしてくれたようだった。それでも、ここにいる名前の声は当然全て聞こえるし、電話口の兵藤の声も、言葉までは聞き取れないものの、何となくの温度感くらいは聞き取れてしまう。

「もしもし?……えっまだ大学?!……あーそうなんだ、人身事故……ううん、全然大丈夫!待ってるね……うん、うん……本当気にしないで、……え、今?えーと」

名前は俺の方をちらっと見て、それからまた目線を元に戻した。「カフェだよ。適当に時間潰してる。駅前のさー」という言葉が聞こえて、俺は名前の方を見る。「うん、待ってるね。じゃあ後で」そう言って通話を切る、名前の方に俺は歩いて近づいていく。

「あ、ごめん、うるさかったよね。今電話終わったから」
「……今、何で兵藤の野郎に嘘吐いた?」
「あー、いや、別にやましいわけじゃないけど、心配かけないほうがいいかなーって」

眉を困らせて笑う、名前の表情に俺はまた吐き気がして、名前が手に持ったままだったスマホを力ずくに奪い取った。「え?」と戸惑う名前をよそに、俺はそのスマホを部屋の反対側にぶん投げる。鋭い音がして、画面が割れたのがわかった。

「ちょっと!私のスマホ……」
「心配って、何の心配だよ?」
「えっ、と、それは……」
「なあ」

固まる名前の手首を掴み、反対側の肩を乱暴に押せば、抵抗も出来ず彼女は床に倒れ込んだ。俺は逃げ場をなくすように、名前に覆い被さる。こんなにも簡単に組み敷かれてしまう名前に対し、自分でも理解不能な怒りがこみ上げる。

「万里く、」
「俺さ」

俺の言葉一つで身体をびくっと震わせるのがわかる程の至近距離に、名前の顔がある。その頬を片手でそっと撫でれば、見開いた瞳には恐怖の色が浮かんだ。初めて見るその表情に、何故か妙な高揚感が湧き上がる。

「お前のこと、嫌いだから」

噛み付くみたいに唇を奪う。抵抗しようと藻掻く名前の腕を押さえつけながら、ゆっくりと舌で歯列をなぞってやると、名前が身体を強張らせるのがわかった。唇を離しては、また付ける。繰り返す中で、名前の息づかいが荒くなるのがわかる。「じゅう、」と名前が呼びかけた名前を無理矢理飲み込むように、また唇に噛み付く。

「名前」

呼べば、名前は俺を見た。涙が滲み、恐怖や、不安や、哀しみや、怒りや、憎悪や、ほんの少しの興奮が、入り混ざったその瞳が、他でもない俺を、見ている。

「……その顔、たまんねー」

部屋の向こうで、名前のスマホのバイブが鳴る。しばらく無視すれば、すぐにバイブは鳴り止んだ。ゾクゾクと這い上がる衝動に、身を任せる。あれだけむしゃくしゃしていた胃のムカつきは、とうに収まっていた。

2022/2/27
title by Garnet

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