あなたの手のひらの救世主




「いらっしゃいませー!」
「名前ちゃん、今日も繁盛してるねー」
「田中さん、また来たの。そっちのカウンターね」
「はいはい」

昼時にもなると、うちのぼろい店もそこそこに混雑する。入店客を席に案内し、その足で隣のテーブルの注文を取る。あ、手前のテーブルはお盆を下げて、こっちはお冷やお変わり、こちらさんはお会計、と。
一段落する頃には、時間はすっかり13時半を回っていた。逆に言うと、13時半を過ぎるとめっきり客足が途絶える。うちは、お兄ちゃんが厨房、私が店内を切り盛りする何てことない定食屋だ。多くの客はお昼休憩の時間内に来るサラリーマンで、それ以外の客はそう多くない。そして、そう多くない客のうち、決まって14時頃顔を出す顔なじみが、そろそろやってくるはずだった。

「やってっか」
「あ、左馬刻さん。いらっしゃいませー。お好きな所どうぞ」
「いつ来てもガラガラじゃねえかこの店はよ」
「左馬刻さんが、ちょうど空いてる時間に来るんじゃないですか。昼には結構繁盛してるんですよ?」
「ま、客が入ってるってんならいいけどよ。店構えは悪いが、味は悪くねェんだから、店潰すなよ」
「店構えのことは余計ですって」

軽口を叩きながら、左馬刻さんが座った席にお冷やを出す。左馬刻さんは店内のメニューを一回りぐるっと見渡して、「サバ定」とぼそぼそ言った。サバ定食はうちの店の看板メニューでもあり、左馬刻さんのお気に入りメニューでもある定番商品だ。焼きサバ、味噌汁、ご飯、漬け物、卵焼きだけのシンプルな定食で、他のお客さんにも人気がある。手前味噌だが、兄が焼く焼きサバは美味しい。良い焼き加減で、ジューシーで柔らかい食感。サバに脂が乗っていてしっかりと魚の味がするので、醤油をかけずに食べるお客さんも多い。

「……ごっそさん」

食べ終えると、左馬刻さんは無愛想に立ち上がった。テーブルの上には既に、ちょうどの代金である880円が置いてある。他にお客さんもいないので、見送りに店の外まで一緒に出て行って、「毎度ありがとうございます」と声をかける。そうすると左馬刻さんはいつもぶっきらぼうに片手を挙げて帰って行くのだが、今日は少し違っていた。

「……兄貴は元気か」

と、聞かれたのだ。私は一瞬面食らって、でもなんとか営業スマイルは忘れずに維持する。

「はい。おかげさまで変わりなく。今日左馬刻さんにお出ししたサバも、兄が焼きましたよ」
「……そうか」

左馬刻さんは、どこか訝しげに眉を顰め、しかしそれ以上は何も言わずに去って行った。何故だか、言いしれぬ不安がよぎる。それでも私には、見送ることしかできないのだけれど。

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「……?」

はじめに、違和感を感じたのは、『家がやけに片付いているな』ということだった。そういえば、ここにあったはずの壺がない。鏡がない。あれがない。これがない。それでも最初は、邪魔だった物がなくなってすっきりしたと感じたくらいだった。それが、テレビがなくなって、いよいよこれは何かがおかしいなと思い始めた。

「……お兄ちゃん、お店の売上金、どこにやったの?」
「…………っ!」

そして、決定打。兄と私で切り盛りするこの店で、店の金庫の鍵を持っているのは当然私たち二人だけだ。私は当然、店のお金に手を付けたりなんかしない。そして目の前には、明らかに挙動不審で、目を真っ赤に充血させた兄がいる。

「……うるせえな、お前には関係ねえだろ」
「関係あるに決まってるでしょ?!二人の店のお金だよ?!」
「俺が作った料理で稼いだ金だろ?!俺がどうしようがお前には関係ないだろ!」
「わ、私だって、店のことやってるし。料理だって、私も本当は手伝いたいよ。調理師免許も持ってる。なのに、お兄ちゃんが厨房を任せてくれないんでしょ……?!」
「うるせえ!」

兄は突然、目を見開いて、私に掴みかかってきた。突然のことで咄嗟に反応できず、勢いのままに、兄もろとも床に倒れ込む。はあ、はあ、と息を切らしている兄は、どう見ても尋常じゃなかった。

「お兄、ちゃん、」
「————!」

目の前にいるのは、私の知っている優しくて料理上手の兄じゃなかった。完全に瞳孔が開いていて、焦点の合わない瞳のまま、兄は私の首元に手を伸ばす。私が死を覚悟した、その時だった。

「……おい、邪魔するぜ」
「だ、誰だ?!」
「取り込み中みてぇだけどよ」

私はげほげほと咽せ込みながらなんとか、「左馬刻さん?!」と名前を呼んだ。その人は、いつも昼過ぎに定食を食べに来るのと変わらないような様子で私たちの元へ歩いて近づいてきた。兄は私と左馬刻さんの顔を何度か見比べる。今どう振る舞えばいいのか、必死に考えているようだった。そして、答えを思いついたらしい。

「さ、左馬刻さん。お久しぶりです。今ちょっと取り込み中で……実は、妹が店の金を着服してやがったんですよ」
「な?!それは、お兄ちゃんが……!」
「だから今、お灸を据えていたところです。お騒がせしてすみませんね」

へらへら笑う兄の顔を、信じられない思いで見つめた。この人は、店のお金を着服した上、その罪を私に着せようと言うのだ。

「ち、違うんです。左馬刻さん、」
「黙ってろ。……わーってるから」
「え?」

左馬刻さんは何の予兆もなく、突然兄の横っ面を殴り飛ばした。「え?」それから、間髪入れずに脇腹に蹴りを入れる。あっという間の出来事に、私は息をするのも忘れていた。

「えっと……あの……?」
「お前の兄貴。ヤク漬けなことには気付いてたか」
「えっ?!嘘、お兄ちゃんが……?」
「やっぱりお前は気付いてなかったか」

左馬刻さんは煙草を一本取り出してくわえる。私は未だに腰が抜けて、立ち上がることも出来なかった。時折聞こえる、兄が痛みに呻く声が、これは現実だと私につきつけてくるようだった。

「こいつがハマってたのは、不純物が多い安モンだ。だが依存性は一丁前に強ぇ。大方、店の金使い込んだり、持ち物売ったりして作った金を突っ込んでたんだろ」
「あ、そういえば、家の物がだんだん少なくなってて……」
「今、組のモンに大元辿らせてる。今日中に片ぁ付くだろ」
「あの……どうして兄がドラッグにハマってるってわかったんですか?」
「ああ」

ニヤリと笑って、左馬刻さんは煙を吐き出した。そして、「サバ定」とぼそっと言う。私は意味がわからなくて、首を傾げる他ない。

「明らかに味落ちてんだろ。毎日食べてりゃわかる」

事もなげに、左馬刻さんは言い放った。確かに、味の変化はあったかもしれない。だからって、本当にそれだけで、ドラッグのことがわかるわけではないだろう。恐らく、裏付けのために念入りに調査したりする必要があったに違いない。

どうやら、ぼうっとしていたらしい。遠くからパトカーのサイレンが聞こえて、はっと我に返った。左馬刻さんが、「やっと来やがったか、あのウサ公」と吐き捨てるように言う。

「左馬刻」

左馬刻さんの知り合いだという刑事さんがやってきて、店内を見渡した。目が合って、小さくお辞儀をする。

「……あなたが名前さんでしたか」
「はい……」
「で、そこにいるのがお兄さん、と」

銃兎さんは兄に近づき、無理矢理に立たせた。兄はもう抵抗する気力もないらしく、ただ血走らせた眼を持て余している。

「では私はこの人を連れて行きますのでこれで」
「……ああ。世話ぁ掛けたな」
「貸しですよ。……ですが左馬刻。どうにもあなたらしくないですね」
「あぁ?」

どこか上機嫌そうに、銃兎さんは言った。対する左馬刻さんは眉をしかめている。

「ドラッグ使用者をこの程度の制裁でサツに引き渡してくれるなんて。随分優しいじゃないですか」
「……うるせぇ。早く失せろこのウサギ野郎」
「はいはい。邪魔者は退散しますよ」

銃兎さんは兄を連れ、そのままパトカーで走り去っていった。荒れた店内に、左馬刻さんと私だけが取り残される。

「……おい名前。店、潰すなよ」
「で、でも……店もこんな状態だし。兄もいなくなっちゃって……」
「お前も料理できんだろーが。……あと、これ使え」

目の前に、左馬刻さんの手が差し出される。その手の中には、ぶっきらぼうにくしゃくしゃのお札が何枚も握られていた。結構な大金だ。

「そ、そんな!お金、もらえないです……!」
「いいから、ごちゃごちゃ言わずに受け取れや。……先週、厨房入ってたのお前だろ。クソ兄貴の定食なんかよりも何倍も美味かったぜ」
「左馬刻さん……」

それでも私が受け取れずにいると、左馬刻さんはぐっと無理矢理拳を突き出して、私にお金を握らせた。店を立て直すためには、十分すぎる金額だ。

「早く店再開しろ。他の定食屋は不味くて敵わねぇ」
「でも……」
「あ?それじゃ足りねえってか?」
「い、いえ!十分です!」
「じゃあ取っとけ」

手の中のお札は、左馬刻さんの不器用な優しさが染みこんだみたいに、くしゃくしゃだった。流れ落ちそうになる涙を、左馬刻さんにバレないようにこっそり拭う。

「どうして……こんなに優しくしてくれるんですか……?」
「それはお前が……」
「?」
「……なんでもねぇ」

左馬刻さんは煙草を灰皿にぐいぐい押しつけて火を消した。
これから、大変になる。荒れた店内を直し、兄のいない店を軌道に乗せなくちゃ行けないのだ。私のすべきことは、山積みだ。でも不思議と不安じゃなかった。もしかすると、毎日来てくれる常連が一人、確約されているからかもしれないけど。

「でも、料理の味でわかっちゃうなんて、本当に凄いですね」
「少しでも手ぇ抜いたらすぐにわかるから覚悟しとけ」
「あはは。……はい」

左馬刻さんは最後に店内をぐるっと見渡して、「サバ定はメニューに残せよ」とだけ言って店を出て行った。味、落とさないように気をつけなくっちゃ、なんて。ちょっと怖いけど、ひどく優しくて、不器用な常連さんの背中を、見えなくなるまでずっと見つめていた。

2022/3/19
title by Garnet

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