ベルベットに似たやさしさの名前



独歩くんは忙しい。社会人なんだから当たり前だろうと言われるかも知れないが、普通の会社員の何倍も忙しい。比較的ホワイト企業で働いている私からすれば目を疑うほどの業務量で、それでも日々呪詛を吐きながらなんとか頑張っている。毎日毎日残業三昧で、土日は死んだように眠るか、麻天狼のみなさんと過ごしている独歩くんと、私が一緒に過ごせる時間は、必然的にほとんどないと言って良い。ちょっと会ってちょっとご飯食べてすぐ解散、っていうのが定番コースで、それも多くて週1程度。だから、今日みたいにゆっくり家で過ごせるのは滅多にないのだ。

そんな私は今、張り切ってスーパーで買い物をして、独歩くんの家に向かっている。ちょっと買いすぎちゃったかな、と思いながら、右に食い込むビニール袋を左手で持ち直した。いつも頑張りすぎている独歩くんが喜ぶような料理を作ろうと、色んな材料を買ってきた。……女友達には、世話焼きすぎとか、お母さんになっちゃうよ、とか色々言われるけど、どうしてもこうやって甘やかしてしまうのをやめられないのだ。

独歩くんの家について、インターホンを押した。今日独歩くんは午前中に休日出勤をして、午後は休みの予定だ。この時間であれば、もう仕事を終えて帰宅し、普段着に着替え終えた独歩くんが出迎えてくれるはずだ……った。

「独歩くん、お疲れ様……?仕事、終わったんだよね?」
「名前、本当ごめん……。と、とりあえず入って……」

何故かまだスーツ姿の独歩くんが、普段から青い顔を余計に青ざめさせて私を出迎えた。わけもわからず部屋に入る。見慣れた狭い廊下を進み、リビングに入ると、いつもならば何も乗っていないテーブルに、ででんっとものすごい存在感でノートパソコンが置かれている。その周りには沢山のメモやノートが散らばっていて……

「えっとこれは……」
「課長が……午前中に終わらなかった分……どうしても明日までに終わらせろって……持ち帰り残業……」
「ここで仕事するの?!」
「ほ、本当にごめん!いや、断ったんだよ?!でもハゲ課長が、間に合わせないとボーナスカットって脅してきて、……ああでもボーナスを勝手にカットだなんてそんなこと課長にできるわけないんだし、ちゃんと毅然とした態度で断らない俺が悪いよな、本当に俺は何をやってもダメだ、てんで何も出来ない無能なんだ、そもそも午前中にこの仕事を終わらせなかった俺が悪いんだ、何をやらせてもダメ人間、そんなダメダメの俺が名前に迷惑を掛けているなんて信じ難い暴挙だよ、早く死んだ方が良い、俺なんて生きている価値がないんだ、俺なんて、俺なんて、」
「ちょ、1回落ち着こう?!」

パニック状態の独歩くんをなんとかなだめ、ソファに座らせる。……と言っても、ソファに座ると正に目の前にノートパソコンがあり、仕事を持ち帰ってきたという事実が独歩くんに突き刺さったみたいだった。「うう……」という悲壮感たっぷりの呻き声に、私まで苦しくなる。

「頑張れば、その仕事って今日中に終わりそうなの?」
「あ、ああ。これから集中すれば、なんとか終わると思う……」
「じゃあ、やるしかないよね。大丈夫、独歩くんならできるよ」
「……こんなにダメな俺を励ましてくれるなんて、名前は本当に優しいな。そもそも、今日はふたりでゆっくりしようって話してたのに、台無しにしてしまって本当にごめん……」
「ううん、独歩くんのせいじゃないんだから、謝らないの。さ、私は邪魔しないように隣の部屋にいるし、手伝えることがあったら手伝うから、さっさと終わらせちゃおう?」
「……ああ。頑張れる気がしてきたよ……!ありがとう……!」

そう言うと、独歩くんは仕事モードのスイッチが入ったらしく、一気にパソコンに釘付けになるように集中しだした。私はコーヒーを淹れて、独歩くんの近くにそっと置いておく。
……私はとりあえず、暇になってしまったので、何となく部屋の片付けをしたり、残っている洗い物をしたり、独歩くんが仕事を終える頃に丁度食べられるように夕飯の下準備をしたりして、時間を潰した。もちろん、休日が潰れてしまって、すごく、すごく、悲しい。でも、今本当に苦しいのは私ではなく独歩くんのはずだ。せっかくの休みに仕事をしなくちゃいけなくなった上に、お人好しな性格ゆえに、私への罪悪感まで抱えて、押しつぶされそうになっている。だから、私は落ち込んだ顔を見せるわけにはいかないのだ。独歩くんが仕事をしている隣の部屋にいても、規則的に聞こえてくるタイピング音から、彼が一生懸命頑張っているのが解って、私は思わず嬉しくなってしまう。毎日文句を言いながら、呪詛を吐きながらも、なんだかんだ仕事が好きで、仕事を頑張っている独歩くんのことが、好きなのだ。

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「……?」
「あ!名前起きたか。っていうか、俺が起こしちゃったのか……?ごめん、仕事終わったから、名前の様子を見に来たんだけど……」

それから独歩くんは照れたように笑って、「寝てたから、寝顔に見とれてた」と言うので、私は恥ずかしさで顔が熱くなる。慌てて起き上がって時計を見ると、夜の9時を回ったくらいだった。独歩くんを待っている間、自分でも気付かずに眠ってしまっていたらしい。

「ごめんね、寝ちゃってた……」
「い、いや!名前は悪くないよ……。むしろ、こんなに待たせちゃった俺が悪いんだし……」
「出た、独歩くんの『俺が悪い』。独歩くんも、私も、悪くないの。オッケー?」
「う、うん……!」
「お腹空いたでしょ、夕飯すぐできるよ」

キッチンに向かうと、独歩くんが所在なさげにひょこひょこ付いてくるので、可愛くてつい笑ってしまう。「スーツ、着替えたら」と言うと「確かに!」と言って慌ててクローゼットの方に走っていったので、また笑ってしまう。

「美味い……!疲れた身体に染み渡るよ……!」
「大袈裟だなぁ、独歩くん」
「いや、本当だよ。……俺、真面目に、名前がいなかったらこんなに頑張れないと思うよ」
「そんなふうに言ってもらえて、私も嬉しいよ」

食後にリンゴを切って出すと、また「なんて優しいんだ!」と感激したように独歩くんは言う。……流石にやりすぎたかな、お母さんみたいかな、とか心配したのは、いらない心配だったみたいだ。ソファに座る、独歩くんの隣にそっと座ると、独歩くんは甘えたように頭を肩に預けてきた。私も応えるように、もたれてきた独歩くんに頭を預ける。二人の間に置かれた手は、どちらからともなく自然と繋がれ、指と指とが絡み合う。

「俺、幸せだよ」
「……なによ突然」
「今、本当に幸せだなって。噛みしめてるんだ」
「独歩くん、変なの」
「でもさ、いつも俺ばっかり幸せにしてもらって、名前に返せてないから。それがすごく恐いよ。俺には何もできないのに、こんなに良くしてもらって、いいのだろうか。いつか天罰が下るんじゃないだろうか」
「もー、何言ってるの?」

すぐ隣にいる独歩くんの方へ、更に身体を寄せて、からだをぴったりくっつける。ほとんど抱き合ってるみたいな形になって、独歩くんの心臓の音や、息づかいまでもが、まるで自分と混ざり合うみたいに、近くに感じる。

「……私、独歩くんから、いっぱいもらってるよ?」
「で、でも……」
「今だって、すごい幸せ。それでじゅうぶん、独歩くんからもらってるの。私、このままずっとこうしていたいよ。……独歩くんは、そうじゃない?」
「……!俺も、ずっとこうしていたい……」

ぴったりくっついて、まるで一つになったみたい。どっちがあげるとか、もらうとか、そんなのどうだっていい。私たちが幸せなら、それでいいのだ。


2022/5/15
title by 誰花

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