狭間に宿る白昼夢




ううん、あんまり私は記憶力がいい方じゃない。むしろいつも、人の顔を覚えられなくて苦労している方だ。そんな私でも毎日目にすればさすがに、覚えざるを得なかった。(……あ、また、あの人。いつもあの窓際に座ってる……)
私が大学に行くために毎日乗るのは、9時に駅前を出るとてもありふれたバスだ。出発すると、大通りを進み、住宅街を回って車庫まで行く。私はその途中で降りて大学に向かう。寝坊して9時発に乗れないこともあるっちゃあるけど、だいたいはこの流れだ。駅を出ると、すでにロータリーに停まっているバスに乗り込む。するといつも彼はすでに乗車していて、右側三列目の窓側、物憂げな様子で外を見ている。がっしりとした体格に、人並外れた上背、長い聴毛に、薄い唇。私はちらっと彼を見るだけで、後ろの方の空席に座り込む(1番暖房が暖かい席だ)。それからうつらうつらと居眠りを始めると、いつのまにか彼は下車していなくなっている。これが毎日のルーティンだ。

(今日は妙に混んでるな)
雪でも降り出しそうな2月のことだ。見るからに不機嫌な曇り空が、重く町全体にのしかかっている。ゼミの課題をやるために、大学に向かっていた。バス停につくと、いつもガラガラなはずのバスはすでに人でごった返していた。乗れないほどではないのでなんとか体を押し込める。なんだなんだ、今日は何かあるんだろうか、と頭をめぐらせて初めて、今日は入試日なのだと思い当たった。ということは、学生の私は構内に入れないじゃないか。「あ、やっぱり降り、」と言いかけたそのタイミングで、無情にもパスの乗車口が閉じた。か、神様。ナイスタイミングにもほどがあるじゃないか。


「降りそびれちゃったの?」

諦めて、投げやりな気持ちで車窓に映る見慣れた風景に目を移した時だった。突然声が聞こえて、振り返る。窓際、三列目。いつもは後ろから目に入るだけの彼が、すぐ隣で、こちらを見ていた。妙にしんとした車内で、彼の声はまるで私の耳に直接届いたみたいに凛と響いた。「えっと、」うまく返事ができないでいる私を見て、彼は薄い唇の口角を上げた。……きれい。と無意識に思ってしまって、勝手に顔が赤くなる。

「ごめんね、急に声かけて。いつも見る顔だから、勝手に知り合いみたいな気持ちになっちゃった」
「あ、うん。私も、知ってる顔だなぁとは思ってた」

このパスの路線から通学圏内の大学は二つある。1つは私が通う大学。そしてもう1つは多分、彼が通う大学だ。パスは滑るように商店街内のバス停に停まる。誰も下りないけど、何人か乗った。後ろから押されて、私はまた少し彼に近づく形になる。

「荷物、持とうか?膝の上に乗せてあげる」
「い、いや……」

そもそも私は、すぐにバスを降りて、駅に引き返そうと思っていたのだ。商店街内で下りれば、駅まで歩いて戻ってもそんなに遠くない。なのになぜか私は、まだバスに乗っている。彼は優しく、でも結構強引に、私のトートバックを掴んだ。「やっぱり。結構、重い」ゼミ課題用の資料が入ったそのサブバックは、本数冊と資料が大量に入っていて、確かに持って立っているには結構重い。

「でも、すぐ降りて駅に戻るので」
「えー?」

そう言っている間にも、バスはバス停を通り過ぎた。次こそは降りないと、駅まで戻るのもかなり大変になってしまう。

「折角俺と話せたのに?」
「えっと……」
「及川徹」

屈託なく笑う。すごい自信だ。まあ、名前を名乗るだけで、こうまで魅力的に見えるのだから、彼の自信も頷ける。流れるように「君は?」と聞かれたので、つられて「苗字名前」と思わず正直に答えてしまった。及川君はにっこりと笑って、突っ立っている私の手首を掴んだ。

「え、」
「ほら、行こう。この先にパンケーキが美味しいカフェがあるから」

ぷしゅう、とバスは鼻息みたいな音を吐き出して停車した。〇〇大学前、〇〇大学前、と自動音声のアナウンスが繰り返される。

「ちょ、ちょっと」
「ん?」
「……強引じゃない?」
「アハハ、ごめんね」

謝る割に、及川君は全然悪いと思っていなさそうだった。慌ただしくバス停に降り立った私達は、まるでバスに置いてけぼりにされたみたいに道路に突っ立っている。

「えっと、ここ及川君の大学?」
「そー」

立派な門扉の中に、いくつか高層の建物が建っているのが見えた。結構広そうだ。近くの大学同士ということで、話はよく聞くし交流もあるらしいが、私はここで降りるのは初めてだった。及川君はさっさと歩き出す。……そういえば、彼は私の荷物を持ったままだ。

「わ、私の荷物!」
「ほら、行くよ。食べないの?パンケーキ」
「でも……」
「どうせ暇でしょ。学校で課題やるつもりが、入試で入構禁止だったんだから」
「……何でわかるの?」

彼は驚いた顔をして、「え、図星?」と言った。ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて、整った顔の無駄遣いをしている。

「そんなの、すぐわかるよ。……だって、俺もだし」

及川君は眉を困らせて、いたずらっぽくウィンクをした。確かに良く見れば、私の鞄とはもう一つ、大きくて重そうなトートバッグを肩から提げている。それから大学の正門の周囲には通常より多い警備員がいて、大きな立て看板には赤文字で『入学試験会場』と書かれている。

「卒論の準備しようと思ってたのにさ、在学生は入構禁止なんて、ひどいよね」

そう言うけど、及川君は全然残念そうじゃなかった。「おかげで暇になっちゃったよ」なんて、スキップでもしそうな様子で言う。不思議と、私まで楽しい気分になってきた。重い荷物を彼が持ってくれてるからというのも、否めないけど。

「さ、甘いものでも、食べに行こう」

差し伸べられた手を、自然に取った。初めて歩く道を踏みしめる。2月なのに、今日はなんだか暖かいなと思ったけど、それは多分及川君のせいに違いなかった。

2022/6/4
title by Garnet

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