真夜中の迷子




独りの朝が、怖かった。
夜眠るときに独りでいるのは、そこまで気にならなかった。それよりもむしろ、ふと目覚めたときに隣に誰もいない孤独がひどく恐ろしかった。目覚めるのが怖いので、眠るのも怖くなった。この瞼を閉じたら、次に感じるのは孤独だと、恐怖しながら目を赤くして夜明けを待つ。日がすっかり昇ってから、何も恐怖するまもなく、死んだように眠りに入る。生活はどんどん荒廃していって、目の下には濃く暗い隈が刻まれていた。

「大丈夫!絶対大丈夫だから!」
「えー?でも、添い寝するだけって、本当かな?変なことされたり……」
「マジで保証する。絶対ない。賭けてもいい。……名前、私あんたが心配なんだよ……」
「うーん……」

……そんな、友達のお節介によって、雪白東さんという“添い寝屋さん”に会うことになってしまった。不安半分、期待半分で、待ち合わせ場所である駅の改札前に立っている。とりあえず、人となりを知るためにカフェでお茶でも、と東さんが申し出てくれたのだ。

(怖い感じの人だったら速攻帰ろ……)

そんなことを考えていた矢先、「キミ、名前?」と声を掛けられた。振り返るとそこには、女性かと見まごうほどの美しい人が、立っていた。

「あ……えと、雪白さん?」
「ああ、よかった。やっぱりキミが名前だったんだね。寝不足で疲れた感じ、なんてLINEでキミが言っていたから、どんな人だろうって思ってたんだけど。想像よりも何倍も素敵な人だったから、人違いだったらどうしようかと思っちゃったよ」

息をするように、中身のない褒め言葉を言う人だなと思った。そう、思ったのとは裏腹に、心は既に、この人に惹かれ始めていたのだけれど。

実際のところ、隣に人がいるという安心感は、人を不眠から救うらしい。添い寝をお願いするのが3回目を過ぎた頃、私は徐々に、眠りに落ちる恐怖が薄れて、一人でも眠ることができるようになってきていた。「すっかり眠るのが上手になったね」そう言って、東さんは笑う。私は何と返せばいいかわからない。

「で、でも。眠れなくなったらいつでも東さんを呼べるっていう安心感があるからだと思う。まだ私一人じゃ……」
「もっと自分に自信を持ったら。本当のキミは、きっともっと強くて、素敵なのにね」
「で、でも……」

今の私の言葉は、正直半分、嘘半分だ。私はきっと、もう東さんが隣にいなくても、寝入ることができるだろう。でも、それを言って、自分が東さんを必要としなくなってしまうのが、とても怖かった。私が東さんを必要としていて、東さんもその要請に従ってそばにいてくれる。そんな関係が、酷く心地よかったのだ。

「あはは。大丈夫だよ。キミが必要としてくれる限り、ボクはいつでもキミの隣に来てあげる」

東さんは柔らかく笑う。この笑みを、一体どのくらいの人に向けているのだろうかと、想像するのも恐ろしくて、私は頷く代わりに目を閉じる。

「名前、今日は、素敵な夢を見られるといいね」
「うん……」

今日は4回目の、同衾だった。薄掛けの布団でそれぞれ身体を覆って、隣に横たわる。セミダブルのベッドは、一人には広すぎたけど、二人には狭くて、どうしても東さんとぴったりくっついてしまいそうになるのを、身を縮こまらせて何とか防いだ。

「名前、怖がっているの?」

静寂に響き渡る、東さんの掠れた声が耳朶に触れる。私はぞくりと身体を震わせた。薄明かりの中、布団から出ている、東さんの左手が目に入る。筋が浮き出た大きな手が、私の身体に触れることは絶対にないとわかっているからこそ、私は酷く安心して、でも同時に酷く寂寞を感じるのだ。

「……東さんがいるから、大丈夫」

心にもない言葉を言ってみる。

「そう。よかった。名前が安心しているなら、ボクも安心だよ」

心にもない言葉が、返ってくる。



あれから私は、東さんに会うのをぱったりとやめた。
とは言っても、元々大した頻度で会っていたわけでもない。ただ、夜に眠れる日常が戻ってきただけ。それだけだった。東さんは、私をきっと思い返さない。特に大きな意味なんてない。……ただ、必要がないのに東さんを呼ぶのが怖かった、だけ。


「あれ?名前じゃない?」

それは、たまたまストリートACTに惹かれて行った、小劇場の公演だった。最近勢いのある劇団らしく、かなり面白かった。見に来て良かった、また来よう、なんて思いながら清々しい気持ちで、席を立つ。見送りの役者と馴染みの観客が交流しているエントランスホールをそそくさと抜け、出口に差し掛かったところで、不意に声を掛けられた。

「え?」
「ああ、やっぱり名前だ。こんな所で会うなんて、驚いたな」
「……あ、東さん……?!」

振り返って見てみれば、そこに居たのは私が知る唯一の、添い寝屋さん、だった。まさかあるとは思ってもいなかった再会に、脳内が一気にパニック状態になる。

「えっと、東さんも、観劇に?」
「うん。と言っても、ボクもこの劇団に所属してるから、今日は陣中見舞いがてらね」
「あ、東さんが劇団に……?」
「あはは、意外かな」

何気ない笑顔に、心臓を鷲掴みにされたかのようだった。「久しぶりに会えて嬉しいな。この後、お茶でも」という追い打ちみたいな東さんの言葉に、私は声も出せずに何度も頷くことしかできなかった。

「随分久しぶりじゃない。1年ぶりくらいかな。あの後、夜は眠れているの」
「……ま、まあ、東さんのお陰もあって……」
「それは、よかったよ。便りがないのは良い便りだと思ってはいたんだけど」

コーヒーを一口啜って笑う、東さんは前と変わらない柔らかさで、前と変わらない空虚なことを言う。私も同じように空虚な笑みを浮かべて、ケーキを一口齧る。

「東さんは、ケーキいらないの」
「うん。ボクは、このあと食事の予定があるから」

それはつまり、私と長くいるつもりはないということ。ただ、時間つぶしにちょうど良かったから、私を誘ったのだろうということ。言葉の意味に気付くらいには私は大人だし、黙殺するのがひどく苦しいくらいには、私は子供だった。

「……また、連絡してもいいですか?」
「ん?もちろんだよ。またこうしてお茶をしよう」
「そうじゃなくて」
「……?」

またこうしてお茶をしたとして、その日どうなる?きっとまた、『先約が』等と言われて、私は大勢の中のちっぽけな一人だと突きつけられるだろう。それを何度も繰り返すことに何の意味がある?永遠に抜け出せないループを想像するだけで、吐き気がした。

「また、添い寝をお願いしたいんです」

対価を払えば、決められた時間は必ず東さんを私のものにできる。これが虚構だと言うのなら、言わせておけばいい。ちっぽけで、無力な私には、なけなしのプライドを捨てることくらいしか、武器がないのだ。

「……また、眠れないの?」
「そ、そういうわけじゃないんですけど……」
「……なら、そのお願いは、聞けない」
「え……?」

東さんの顔を見ると、ひどく悲しそうな目をして、東さんはかぶりを振った。事態を飲み込めず、私は目を白黒させる。東さんはただ寂しそうにもう一度、首を横に振った。

「……添い寝屋さんはね、廃業したんだ」
「で、でも……」
「とにかく、キミの所へは行かない」
「そ……うですか……」

たぶん、東さんは添い寝屋さんをやめていないだろうなと思った。けど、それを口に出すほどの勇気は持ち合わせていなかった。とても静かに二人で店を出る。すっかり日は落ちて暗くなっていて、それはあの頃ひどく恐ろしい対象だった夜の到来を予感させた。

「名前」
「……東さん?」

駅まで送ってくれた東さんは、静かに私を呼び止めた。これが、私たちが交わす最後の言葉になるのかもしれない。そう思って目をぎゅっと瞑った私の手を、東さんはそっと両手で包んだ。

「え……?」
「名前は、夜眠れるようになって、ボクを必要としなくなった?」
「私……」
「あのね、ボクも実は、夜一人で眠るのが怖かったんだ。だから添い寝屋さんを始めた。でも、最近夜が怖くなくなったんだ。……だから名前の気持ちが、わかるような気がするよ」

……また、空虚な嘘を言っているのではないかと、半信半疑な気持ちで東さんの顔を見る。とても真剣な顔に見えた。当たり障りのない嘘を言うときの、表面的な笑顔とは、違う表情に見えた。私には、わからない。わからないけど、これがもし嘘だったとしたら、騙されたってしょうがない。そんなしょうもないことを、考える。

「……私、本当は、一人で眠れるようになりたくなかったです」
「うん」
「ずっと、添い寝屋さんを必要としていたかった。……そうすれば、添い寝屋さんを呼べるから。そうすれば、東さんを呼べるから」

どう、と大きな音が轟いて、すぐ横の線路を電車が通り過ぎた。数秒、電車が通り過ぎるのを待つ間、お互い無言になる。お互い、ただ、見つめ合う。

「ボクはさ、ずっと苦しかったよ。添い寝屋さんとして君のとなりにいることが」
「え……?」
「だから今日、一緒にお茶できて嬉しかった。君とこうしてゆっくりお喋りするのは初めてだったしね。でも、そうしたら、もっと君のことを知りたいと思った。……なんてね、こんなの、ボクのワガママだって、わかっているよ」

東さんは寂しそうに笑う。そんな、そんな寂しそうな笑顔は、どうせ嘘なんじゃないかと、嘘であって欲しい、本当にこんな顔をこの人がするはずがないのだと、思おうとすればするほど、東さんはまるで嘘じゃなく本当みたいに、私を真っ直ぐに見つめている。

「ど、どうせ、女の子みんなにそうやって言ってるんでしょ」
「……?どうして、ボクがそんなことをする必要があるの?」

東さんはもう、笑っていない。空虚な笑顔を貼り付けてもいない。ただ真摯な目が、私を捕らえて離さない。

「ボクがこんなにも焦がれているのは、キミだけなのに」

そんな、切なげな声は何故だかすぐ耳元で聞こえてきた。……それから遅れて、東さんに抱きしめられているのだと、気がつく。

「私……」
「お願い、今は何も言わないで。ただ、そばにいて」

もう、一人じゃない。夜だけど、怖くない。きっと、東さんも、もう怖くないはずだ。だから添い寝は必要ない。なのに私たちは、身を寄せ合っている。ふたり、心臓の音を、分け合っている。まるでこれが、私たちの確かめ方だとでもいうように。

2022/7/2
title by Garnet

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