渇いた眩暈の行く末を




「……や、やば……っ!」

終電間近の、22時45分。一緒に残業していた同僚達もちらほらと帰宅し始め、残っている者はかなり少なくなった、そんな時間帯。自分の致命的なミスを発見するのには、最悪の時間だと言えた。慌てて周りを見渡す。同じチームの同僚はもう皆帰ってしまっていて、頼れそうになかった。隣のチームの上司に一応声をかけ、事情を説明する。「それはまずいね、」かなり顔を青くして、上司は頷いた。「誰か何とかできそうな人探してみるから」と言って他部署に駆けていく上司を見送り、私はまた自分のパソコンに戻る。それからスマホを出して、『ごめん、今日帰れないかも。すごいミスした』と簡潔すぎるメッセージを至に送った。至は今多分、実況配信タイムの筈なので、スマホは見ないかも知れないけど念のためだ。
それからまた、自分のパソコンの画面に映るデータの羅列を見つめた。何度見ても、ミスをしている。それは変わらなかった。しょうもない、ミスだ。桁を見間違えた。ただ、ミスは単純でも、30万と300万は月とすっぽんくらい違う。

「おーい、大丈夫そうだ!」

頭を抱えることしかできない私のもとに駆け寄ってきた上司の後ろには、ゆっくりと歩く卯木さんがいた。慌てた様子の上司とは対照的に、余裕すら感じる佇まいだ。

「卯木さんが?」
「ああ、卯木君が先方の常務と個人的に知り合いらしくてね、なんとか掛け合ってみてくれるそうだ」
「まあ、俺が掛け合っても先方が納得してくれるかはわかりませんが。最善は尽くしますよ」

そう言うと、卯木さんは私のパソコンを覗き込み、ミスの内容を確認すると、すぐに自分の社用スマホを操作し始めた。「この内容だと、こっちの常務じゃなく海外の支社長に直接に話した方がよさそうだ。フランスに国際電話をかけてもいいですね?」上司の返事も待たず、卯木さんはもう電話をかけ始めている。すぐに誰か出たようで、卯木さんは流暢なフランス語と思しき外国語で話し始める。……私も上司も、その様子をぽけっと見守ることしか出来なかった。フランス語なので、何を話しているのか、皆目見当も付かない。数分後、卯木さんが笑顔で「メルシー、メルシー」と言っているのが、『ありがとう』の意味だということだけ、かろうじてわかった。

「……ふう」
「あ……卯木さん、どうですか……?」
「ん?ああ、全然大丈夫だったよ。支社長も理解してくれた。日本支社はもう退社後だったから危なかったが、フランスとは時差があって助かったな」
「あ、ありがとうございます……!!」
「いえいえ。俺でお役に立てたみたいで」

私と上司が全く同じタイミングで、はぁ〜と盛大に安堵の溜息をつくと、卯木さんは「そんな大袈裟な」と笑った。いやいや、下手すれば我が社を借金まみれにする可能性すらあるミスだったのに、逆になんであなたはそんなに余裕そうなんですか。

「じゃ、俺はそろそろ退社しますが」
「ああ、ご苦労様。苗字さんももう帰りなさい。私もこの件の報告書を書いたらもう帰るから」
「はい……」

明日はきっと、自分のチームの直属の上司にめちゃくちゃ怒られるのだろう。想像するだけで、げんなりしてしまう。そんな私を見て、卯木さんはけらけらと笑った。

「ドンマイ。まあ、上手く収まったんだから、良かったじゃないか」
「はい……本当に卯木さんのお陰です。本当に本当に感謝してます」
「そう思うなら、次はお前が俺をフォローしてくれよ」
「そ、そんなぁ……」

卯木さんといえば、社内でも有名なエリートだ。そんな人を、私がフォローする側に回ることなんて、あるとは到底思えなかった。仕事の手際よし、愛想よし、ルックスよし。至に言わせればチート。至を見るために行く春組公演でも毎回見るが、仕事だけでなく演技もこなすスーパーマンだ。

「……茅ヶ崎は、今日はもう帰ったのか?」
「あ、えっと、今日発売のゲームの実況配信やるからって午後休取ってて……」
「ああ、相変わらずだなぁ、あいつ」
「卯木さん、部屋に帰ったらちょうど配信中かもですね」
「そうか。配信中にドア開けたら茅ヶ崎は怒りそうだな」
「あー……はは、本当にすみません。二人揃って迷惑ばっかりかけて……」
「いや、俺としては二人とも面白いし、構わないよ」

至と同室という関係のおかげで、もともと卯木さんとは顔見知りだったし、社内ですれ違えば挨拶くらいはする、あとは公演は毎回見に行っているので(至のついでとはいえ)卯木さんの演技も毎回見ていることになる。でもこうして、ゆっくりと話すのは初めてだった。恋人の直属の先輩、という微妙な関係から、重大なミスをカバーしてくれた恩人という更に微妙な関係に変わっただけだとも言えるけど。

「今日は本当にありがとうございました……。本当に助かりました」
「たまたま向こうと知り合いだったってだけで、俺は大したことしてないし、そんなに畏まらなくていいって」

いやそもそも支社長と個人的知り合いなこととかフランス語ペラペラなこととかすごすぎるんですが……という言葉を飲み込んで、改めて立ち止まり、お辞儀をした。駅に差し掛かる歩道の隅は、比較的人通りも少なくて、改めて挨拶するならここだろうと事前に考えていたのだ。

「今度、ちゃんとお礼させてください。好きな食べ物とかあれば教えてもらえたら……」
「本当に、お構いなく。……と言いたいところだけど」
「はいっ!何かありますか?!」
「そうだな……」

卯木さんは、少し考えるみたいに空を仰いだ。少し冷たい風が吹いて、私は身を縮こまらせる。巻いていたマフラーをきゅっと寄せて、できるだけ隙間が少なくなるようにした。こんなことなら、手袋もしてくればよかった。夜になったら寒くなることなんて朝のうちからわかっていたのに、手袋を忘れるなんて馬鹿だなぁと、卯木さんなら笑って言うかもしれない。近くで信号の青が点滅して、小走りの人が何人か走って行った。ここにいるのは、私たちだけになっていた。

「じゃあ、茅ヶ崎と別れてよ」
「えっ……?」

聞き間違いかな、と思った。なので、「聞き間違いでしょうか」と尋ねると、「いや?」と言って卯木さんは意地悪に笑う。

「……冗談だよ」
「ええ……?!卯木さん、ひどいですよ……!」
「アハハ。でもさ、茅ヶ崎と別れればいいのにって思ってるのは本当だよ」
「卯木さん……?」

何もかもが信じられなかった。心臓が、どっ、と大きく脈打った。この数分で、寿命が3年は縮んだ気がする。

「まぁ、別れていようがいまいが、俺が奪ってしまうんだから、関係ないんだけどね」

それから卯木さんはまるで普通みたいににっこり笑って、「それじゃ、お先に」と一人改札に吸い込まれていってしまった。何これ。何これ。だいたいあの人、これから至と同じ部屋に帰るというのに、どんな顔をして眠るのだろう。


2022/7/31
title by Garnet

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