馬鹿も休み休み言え




目の前の席に座る男の子が、くるくるとペンを回しているのがずっと視界に入っている。先生は一生懸命三角関数の説明をしているけれど、多分、彼は聞いてもいないだろう。秀才のきみと違ってこっちは授業をちゃんと聞かなきゃ理解できないのにペン回しのせいで集中できなかった、なんて言っても、きっと彼、山田三郎は意にも介さないだろう。

「……今日はよく回ってるなぁ」

思わず独り言が出た。目の前の彼がパッと振り向く。彼は苛立った顔をして、私を一睨みする。

「ご、ごめん。ただの独り言」
「……ペン回しがそんなに珍しいかよ」
「ううん、ただ……」

ただ。秀才で、友達は一人もおらず、同年代とは一切関わり合いにならない。そんな評判のあの山田三郎が、授業中に暇を持て余してペン回しだなんて、ひどく庶民的で、ちぐはぐで、可愛らしくて、勝手な親近感を抱いてしまった。それだけ、だ。言ったら怒られそうだから言わないけど。

「綺麗に回すなぁと思って」
「……そうかよ」

本音の代わりに口をついて出た、当たり障りのない褒め言葉は、案外悪くない印象だったようだ。山田三郎は表情から苛立ちをいくらか収めて、「別に、簡単だよ。2・3回練習すれば誰でも出来る」と付け足した。いや、別に私も回せるようになりたいわけではないんだけれども。

「そんなことより、三角関数を教えてよ」
「……こんなもの、ペン回しよりも簡単だ。猿でも出来る。出来なきゃ猿以下だ」
「そ、そんなに辛辣に言う?」
「三角関数がわからない人間の気持ちがわからないからな」

雑談を注意する気もないらしい、黒板の前に立つ先生が、時計をちらっと見る。あと1・2分でチャイムがなる時間だ。この先生はどうも適当な人で、時間が来る前に「じゃあ、区切りもいいので」と授業を終わらせた。みんなが伸びをしたり、教科書を仕舞ったりする中、遅れて鳴った間抜けなチャイムが響き渡る。


「ねえ!苗字さん、さっき三郎くんと喋ってなかった?!」
「え……?うん、まあ……」

例に漏れず、教科書やらノートやらをしまいこむ私に突然話しかけてきたのは、これまで一度も喋ったことのない女子だった。いわゆる、スクールカースト上位者。彼女が近づくと、微かに、上品で甘いローズの香水が香ってくる。この微かさは人に特別な印象を与えながらも、先生にはシャンプーの匂いですと言い逃れができるぎりぎりのラインなのだろうと思った。つまりこの香りは、この子の強かさを示すものだとも言える。同様に、言い逃れできるギリギリの茶髪とウェーブ、薄ピンクのワイシャツ、膝上のスカート丈。

「三郎くんと私も仲良くなりたいの。彼、イケメンだし。協力してくれるよね?苗字さん。私たち、友達でしょ?」

言うべきことはたくさんあった。まず、私はそれに協力できるほど、山田三郎と親しいわけじゃない。次に、イケメンかどうかは本来仲良くなりたいかと関係ないと思う。最後に、私とあなたは友達じゃない。

「えっと……」
「……あのさぁ。ちょっと、そこ、邪魔なんだけど」
「さ、三郎くん……!」

現れたのは、今の今まで席を外していた山田三郎本人だった。私からすれば救世主と言い換えてもいい。対照的に、突然の御本人登場に、彼女はひどく焦った顔をした。それから私を鋭く睨む。多分意味は、『余計なことは言うな』だ。オーケー、モブは何も言いません。

「三郎くん?えっと、今ちょっといい……?」
「何。手短に」
「あの、ちょっとここじゃ……」
「ここで話せ」
「……えーっと。三郎くんって、すごく頭いいじゃない?私、どうしてもわからない問題があって……塾の先生も、わからない問題なの。三郎くんに聞いたら、わかるかなって……」

言いながら、彼女は艶のある髪を耳に掛けて熱っぽい視線を山田三郎に送った。多分きっと、彼女はどうすれば自分を魅力的に見せられるか、よく熟知しているのだ。女の私にも届いてくるフェロモンを、今は山田三郎一人に集中照射している。

「それを教えることで、僕に何のメリットがあるんだ」
「お礼なら、何でもするから……」

彼女はそっと、山田三郎の手に触れようと、美しい指を彼に伸ばした。……ブラボー!と拍手でもしたくなるような、見事な手腕だ。これは流石の山田三郎も落ちるに違いない。

「……っ、触るな、気持ち悪い。どこかへ行け、アホ女」
「あ、アホ女?!」

……これは予想外の展開である。山田三郎が、彼女の傷一つない綺麗な手を振り払ったのだ。彼女の方を見ると、ポカンと呆気にとられたような顔をしている。それから、段々と顔が赤くなり、……こ、これは、かなり怒ってるな。

「ひどい!そんな言い方……」
「本当のことなんだから、別に良いだろ?」
「あ、あんたなんか、別にどーだっていいんだから!友達いない根暗のくせに!これも本当のことよ!」

ひとしきり喚いて満足したのか、彼女はぷんすか怒りながら去って行った。プライドの傷ついた彼女を迎えてくれる優しい男の子が他にもいるのだろうし、きっと彼女は心配ないだろう。それよりも、『本当のことなら言っても良い』という特大のブーメランに殴られた山田三郎が心配だ。と思っていたら、「なあ」と聞こえた。山田三郎だ。見れば、彼は特に傷ついた様子もなく、ただ呆れたような表情で、既にもう興味もなさそうだ。

「な、なに?」
「三角関数、教えるけど。放課後空いてるか?」

……耳を疑った。先ほどの彼女の微かな香水の残り香が、だんだん薄れて消えていく。

「……ペン回しも教えるけど」

いや、何でだよ。


2022/8/14

.