水族館に行く話

「お、お刺身……!」

先ほどまで眠り込んでいたとは思えないほど目をきらきらさせて、名前は運ばれてきた刺身定食を見つめていた。とりあえず海の近くで旨い魚を食おうという考えは上手く行ったようだ。
本当は、海でも山でも、俺には行き先はどうでもよかったのだ。でもそれは、名前にとっては違った。まるでデートの誘いみたいになってしまっただとかいうのは完全なる杞憂で、そんなことを考えていたのは、俺だけだったのだ。

(……ホッとしたような、残念なような、って所か)
俺は、無邪気に鯵に舌鼓を打つ名前を前に、妙な疲労感を感じていた。まるでデートのような、よくわからない誘いをしてしまったのは、俺にとってはある意味後押しでもあったのだ。……だが、俺は名前の性格を加味し忘れていた。こいつは、“まるでデートのような誘い”なんかじゃてんでダメで、俺のことをただの1mmたりとも異性として意識しないのだ。
だからこそ、思うのだが。いっそのこと、“まるで”なんかじゃなく、本当にデートのようにしてもバチは当たらないんじゃないか?なんて……

「うまっっっっ!!海の近くで食べる海の幸ウッッッマ!!!」
「醤油じゃなくて、塩でいっても旨いぞ」
「キャー!通だねぇ!」
「テンション高ぇな」
「あは、入間が私のご機嫌取るの上手いからさ」

あっけらかんと言うその言葉と笑顔に、俺は何とも言えない、甘く、居心地の悪い気分になった。まるで先ほど食べた生しらすが腹の中で踊っているかのようだ。
刺身定食をあっという間に平らげ、名前はついでに欠伸なんかしている。満足そうな様子に、俺は一つまた安心してしまう。おずおずと、しかししっかりと確信を持って、少しだけ、方向性を軌道修正してみる。

「……この後、行きたい所あるか?」
「やー別に?お腹もいっぱいだしねぇ」
「近くに水族館があるから、行ってみないか」

名前は何の気負いもなく、「いーよー」と言った。今はまだ、名前が『まるでデートみたい』と思ってくれなくても良い。ただ俺が、こいつと行きたいところに行けば、それでいいのだ。

そう遠くない海の近くに、昔からある水族館があるのを知っていた。以前はそれなりに活気があったが、最近はめっきり寂しい雰囲気になっている。それでも地元の家族やカップルなんかにはまだ定番のスポットのようで、中にはそれなりに人がいた。

「ここの水族館、初めて来た」
「前に仕事で近くまで来たから知ってたんだ。結構繁盛してるな」
「何その言い方〜」

名前は屈託なく笑って、何のためらいもなく館内に入っていった。小さい魚がせせこましく泳いでいる水槽の前に立つたび、「わー」とか「おおー」とか言っている。大きなサメの標本があればジャンプして背比べし、エイが回遊する広い水槽では熱心に眺めて10分ぐらい動かずにいた。子どもみたいなはしゃぎ方に、俺は再びホッとするような、落胆するような心地だ。……いや、本当は、俺が意気地なしなだけだと、わかってはいるのだが。

「わ!見て入間!カニがいるよ!美味しそうー」
「水族館で本当にそういうこと言うやつ、初めて見たよ」
「だってー。この水槽、良いダシ出てそうじゃん?」
「色気のないやつだな」

俺は冗談に乗って笑った、つもりだったのだが、名前を見ると彼女はあまり笑っていなかった。どこか居心地の悪そうな顔をしている。

「……色気なんて、必要ないでしょ」
「……?」
「さー、次どこ行く?」

名前の表情を掴みそこねているうちに、また元の屈託のない笑顔に戻ってしまった。安心した、けど、何か切ない。ああ、今日は、こんなことばっかりだ。

「あ、今からイルカショーだって!行きたい!行こう!」

と言って名前は突然走り出し、先程の妙な空気はなかったことになったようだった。慌てて小走りで追いかける。走って行く名前の表情はもう見えなかった。

イルカショーの会場は野外だ。簡単な屋根がついたドーム状の建物半周程に階段状の客席があり、間隔を空けてプラスチックの椅子が立て付けられている。ドームのすぐそばには小さな売店があって、簡単な食べ物や飲み物が売られていた。そこで名前は迷わずビールを買った。

「ビールかよ」
「運転手様!帰りもお世話になります!」
「やれやれ」

俺は苦笑いして、ソフトクリームを一つ買った。「あは!似合わなーい」という名前の声を無視して、受け取ってすぐ一口食べる。暑さで火照った身体に、冷たいバニラが染みるようだ。案外、ビールよりも正解なんじゃないかと思って隣に座る名前を見たが、「くう、」と息を漏らして美味しそうにビールを飲む表情を見て、これに勝つのは無理だったな、と思った。

「イルカちゃんたちに拍手ー!」

ショーは単調だった。悪く言えば、どこの水族館でもやっているような。名前が、はらはらとイルカたちを熱く見つめ、芸が成功すれば拍手し、トレーナーとの絆を感じ……と熱中している様子でなければ、居眠りしてしまっていた可能性すらある。

「あーすごかった。本当に感動しちゃった。見られてよかった〜」

ドームの外に出ると、日はいつの間にか落ちかけていて、あと数分で日没時間のようだった。何となしにふらふらとうろついている名前を見る。「なあ、」と声をかけた。自分で思っていたよりも自分の声が掠れていて驚く。名前は歩いていた足を止め、俺の方を振り返った。

「ん?」
「……水族館の敷地内から、海辺が見えるんだよ。夕日を見に行こう」
「えー!見る見る!」

水族館がある敷地は海に面していて、そう広くない園内の奥の方に行くと海が見えるらしい。歩いているうちにも、日は少しずつ沈み、辺りはオレンジ色に照らされつつあった。横を歩く名前は何故か押し黙っていた。

「わあ……!」

奥の堤防まで辿り着くと、目の前に広大な海と、夕日の光がめいっぱい広がっていた。沈みかける太陽と海の輪郭が混ざり合い、斑になった紺と橙が世界を包む。

「綺麗……」

名前は呟くようにそう言った。俺は一歩踏み出し、名前の肩を抱こうとした、のだが、

「あは!何かウケる!めっちゃデートみたいじゃない?ウケるわ〜。私と入間なのにねぇ?」

と言ってスマホで風景をパシャパシャ撮りだしたので、思いとどまる。俺の右腕は名前の背後で所在不明となり、ただゆっくりと下に下ろすことしか出来なかった。

「……別に、面白くはねーだろ」
「ええ?なによ入間、ぶすっとしちゃってさぁ、もー」

けらけらと笑う、名前の顔は夕日に赤く照らされていた。俺は苦笑いして、「そろそろ帰るか」と言うほかないのだった。


(2022/01/08)

指切りはロマンス未満/matinee