空が燃えている。
 そんな夢想的な物言いこそ相応しい凄絶な光景だった。月も星もない真っ黒な宵闇を背に、見たこともない大火が毒々しく燃え盛っていた。
 全てを焼き尽くさんとする炎に包まれた禁城。白嶺宮。常ならば厳かな静謐さに満ちたかの城は、今や戦場を思わせる狂乱の真っ只中に在った。
 とんでもなく悪い夢を見ているようだった。紫蘭は茫然自失としたまま周囲を見回した。人々は阿鼻叫喚の体をなしていた。切迫詰まった怒号、女たちの甲高い悲鳴、慌ただしい足音。それらすべてを飲み込む業火の唸り。獰猛な虎を連想させる、轟々と燃え盛る炎。城を食い尽くさんとばかりに荒れ狂う紅蓮の猛獣の、その咆哮。
 戦乱さながらの光景を前にして、少女は己が如何にちっぽけな存在であるかを痛感した。己の許容範囲をはるかに超えた事態に思考は鈍り、現実感は遠のくばかり。何から手をつけていいのかも分からないなかで有効な手立てなど取りようもない。できることといえば己の無力に打ちひしがれるだけだった。

「どうして、こんな……」

 ようやく口にした呟きは周囲の喧騒に掻き消え、誰に拾われることもなかった。紫蘭自身も誰かの返答を期待していたわけではない。ただあまりにも突飛な事態に心が追いつかず、それが思わず声となって零れ出ただけだった。
 熱せられた空気が肌を嬲る。紫蘭の一点の曇りもない白髪が熱風に吹かれ、舞う火の粉とともに所在なさげに揺れていた。
 見たところ、混乱の最中にあっても大人たちは避難や怪我人の治療などは滞りなく進めているようだった。それならば下手に動いて邪魔をしてしまうより、ここでおとなしくしていた方が良いだろう。紫蘭はうまく働かない頭でそう判断した。
 しかし事態は急転する。

「――白雄殿下が、まだ城の中に!」

 その言葉は雷の如く紫蘭の耳朶を打った。
 自分の愚鈍さに驚きを通り越して嫌気が差す。言われるまでもなく異常を感じ取るべきだった。本来ならこの場で陣頭指揮を執るべき人物の不在、その意味にどうして考えが及ばなかったのか。
 はっと息を飲んだのも束の間、紫蘭は一目散に駆け出した。それを見た者から無謀な行いを引き止める声が上がる。やめろ、行くんじゃない。
 しかしその甲斐なく、小さな体は業火の海へと飛び込んでいった。

「白雄様!」

 柱も、壁も、調度品も、何もかもが唸るような炎に包まれている。そのどれもが今この瞬間に焼け落ちても不思議ではないほど焼損していた。外に流出し切れなかった煙も充満している。防御魔法があるとはいえ、この惨状の中で無事で済む保証などない。
 しかし、と紫蘭は瞬時に視線を走らせた。
 豪奢な作りの禁城はその廊下も広大なものだった。上下左右、二頭馬車すら余裕で乗り入れられそうな幅があり、故にまだ完全に火の手が回りきっていない。
 進める。
 そう直感し、怯むことなく踏み出した。

「……?」

 ふと。
 廊下を走り抜けながら、紫蘭はふと覚えた違和感に眉をひそめた。言いようのない不吉な予感だった。その不穏さに胸が嫌にざわめく。
 まるで誰かに見られているような、視線。より表現に正確を期すならば、そう、こちらを監視しているような、そういう剣呑さを孕んだ視線を感じた。
 いや、まさかそんなわけがない。紫蘭は内心かぶりを振った。こんな火の海の中で誰がそんなことをするのか。どうやって。なんのために。
 しかしいくら理屈を積み重ねて否定しても、一度覚えた違和感を払拭し切るには足りなかった。胸騒ぎは大きくなるばかりだ。

「…………」

 紫蘭は外套に付いた頭巾を目深に被った。嫌な視線を断ち切るように、そして何よりも自分の探し人に集中できるように。

「――白雄様!」

 力の限りの呼びかけには意図せず焦燥が色濃く滲み出た。

「殿下!」

 炎自体や焼け落ちた木材を避けることは決して容易くはない。しかしそれ以上に、熱風と煙を完全に遮断することこそが困難だった。喉が焼ける。息がし辛い。
 しかし地を這って進んでいくような悠長はしていられない。紫蘭はまだ幼い顔立ちを苦しげに歪め、それでも進めと己を鼓舞した。
 涙で滲む視界に、その瞬間、小さな白い鳥が羽ばたいた。

「え……」

 虚を突かれた紫蘭の耳元で、数羽の鳥たちは何かを告げるようにピィピィと囁く。そしてすぐに空高く飛び立ち、空気に溶けるように消えて見えなくなった。
 紫蘭は戦慄した。
 不意に鈍器で殴りつけられたような衝撃だった。思わずその足を止めた。心臓が早鐘を打つ。燃える廊下の先を呆然と見つめる瞳に、恐怖と驚愕が入り混じった色を浮かんだ。

「白蓮様……?」

 まさか、そんな。紫蘭は即座に頭を振り、信じたくない一心で再び足を動かし始める。
 そんな筈ない。何かの間違いに決まっている。
 紫蘭は必死に自分にそう言い聞かせた。
 一方で、もう一人の自分が諦念の表情で囁く。あの小さな鳥たちが自分に嘘を告げたことなど今まで一度もない、と。それが例えどれだけ知りたくないことだとしても、いくら耳を塞ぎ目を閉じても、彼らは常に事実のみを正確に告げる。そういう存在だと知っているはずだろうと。
 信じたくない。そう願った時点で、それはもう信じているも同然だった。
 紫蘭は手足をがむしゃらに動かし続ける。顔に浮かんだ苦悶の色を取り繕う余裕もなく、必死の形相で周囲を見て回った。

「白蓮様! 白雄様!」

 未だ求める返答はない。生き物のように唸りを上げる炎だけが、紫蘭の耳をじりじりと焦がし続ける。
 紫蘭は疾走した。

「白雄様!」

 最早祈るような気持ちで叫ぶしかなかった。迫り来る火の手を避けながら、城内を全速力で駆け抜ける。
 そしてとうとう探し人を探し当てることもなく、宮の奥に位置する大広間まで辿り着いてしまった。
 その入り口で、紫蘭は熱し切った空気に噎せ返った。熱い。臓腑さえ直接火に炙られているようだった。じわりと生理的な涙が滲んだ。
 大広間からは普段の煌びやかな面影など既に消え失せていた。代わりに、開けた空間には勢いの衰えない炎ばかりが嬲るように踊っている。
 紫蘭は行く手を遮る火を前に思わず踏鞴を踏んだ。そしてその瞬間、視界を過ぎった影にはっとして目を見開いた。
 誰かが倒れている。
 床に伏した人影はぴくりとも身動ぎしない。既に事切れているのだろう。遠目から見ても明らかなほど致死量の血を流している。傷口は首から斜め下に伸びていた。正面から斬りつけられてできた傷のように見えた。
 しかしこちらからでは、顔の判別まではつけられない。
 紫蘭の背筋につっと冷たい汗が流れた。
 最悪の想像に胸が早鐘を打ち鳴らす。炎に熱せられた肌とは対照的に、血の気の引いた指先は凍えるようだった。
 しかしよくよく目を凝らしてみると、その人影が煌帝国の兵士であることがわかった。だいぶ焼け焦げていたものの、その特徴的な服装は間違いない。自分と同じように皇太子たちの身を案じて火中に飛び込んだのかもしれない。しかし敢え無く炎に巻かれてしまったのか。
 少なくとも、彼は紫蘭の探し人ではなかった。不謹慎とは重々承知しつつも、内心安堵に胸を撫で下ろした。
 それと同時に疑念が募った。
 では、この傷はどう説明をつければ良いのだろう。
 刀傷など、火災の現場にはあまりにも似つかわしくない外傷だ。一体誰が、なんのために。

「……!」

 ある可能性が脳裏を過ぎり、紫蘭の顔から血の気が引く。
 そもそもこの火事の原因はなんだろうか。乾燥による自然発火か、それとも事故か。または、誰かの意図した付け火か。それならば、先の先帝暗殺に続き皇太子たちをも葬り去ろうとした賊の仕業の可能性も十分考えられる。
 額から頬を伝い落ちた汗を乱暴に拭った。震える両足で、必死に地面を踏みしめる。
 血色の悪い唇を一度強く噛み締めると、吠えるように炎の海へと呼び掛けた。

「白雄様っ!!」

 全身を震わせた絶叫が大広間に響く。すると、そう遠くない場所で誰かが息を飲んだ音がした。

「紫蘭!」

 ついに返ってきた呼びかけに、紫蘭の瞳に一筋の光明が差し込んだ。

「白龍様!」

 紫蘭は馴染みのある声に喜色を浮かべて走り寄った。きっと白龍殿下だけでなく、他の御二方もいらっしゃるはずだ。
 幾重にも舞う炎の波を潜り抜け、とうとう白龍の姿を見つ出した。張り詰めていた心が緩み、強張っていた相好がわずかに崩れる。
 しかしそれも次の瞬間に凍りついた。
 はじめに目にしたのは、泣きじゃくる白龍の姿だった。その顔の左側には痛ましい火傷を負っている。痛みに泣く幼い声が鼓膜に木霊する。
 しかし紫蘭は顔面蒼白のまま、ぴくりとも動けなかった。受けたばかりの衝撃から脱することができない。

「ぁ……」

 耳鳴りが止まない。むしろそれは警鐘のようにどんどん激しくなってゆく。頭が割れそうに痛んだ。その痛みに誘われ全身から血の気が引いていく。体が浮き上がるような酩酊感に吐き気がする。
 ぐらりと視界が歪んだ。狂った遠近感のなかで、炎だけが気を違えた踊り子のように舞い続けていた。火の手はよりいっそう燃え上がる。まるで嘲りに哄笑するかのようだった。
 ついと視線だけを床に這わせる。
 そこには身動ぎもせず地に伏している白蓮の姿があった。うつ伏せの状態のため傷口は確認できないが、今もなお夥しい血が床に広がり続けている。
 その傍らには見覚えのある長剣が落ちている。白蓮が常に帯刀していたもので間違いない。白刃には真新しい使用の痕跡があった。応戦の必要に駆られたのだろう。本来なら剣など不必要な火災の現場で。だとすると、あの死体は兵士に扮装した賊だった可能性が俄然濃厚になってきた。
 しかしそんなことは些末なことだと思った。原因がなんであれ、目の前に突きつけられた残酷な現実は変わらない。
 その絶望的な事実を、紫蘭は認めざるを得なかった。
 視線を、戻した。
 泣きじゃくる白龍の真向かいに、全身が焼けただれた男がいた。もはや痛覚もないのだろう、男は呻き声すら上げずに、怠慢な動きで紫蘭を見返した。死に向かう人間特有の空虚な目と見つめ合う。
 重度の火傷のせいで元来の顔立ちは見る影もない。しかし紫蘭にはすぐにその正体がわかった。その姿を目に映した瞬間、直感で理解した。信じたくはない。しかし見間違えるはずもなかった。

「あ、ああっ……!」
 
 この痛いほど真っ直ぐで、強く、眩いほどに輝かしいルフの持ち主は、あの人を置いて他にはいない。

「白雄様っ!」
 
 その悲鳴をきっかけに硬直が解けた。紫蘭は白雄の元へと走り寄った。その傍に崩れるように膝を着くと、自分の首元を飾る銀の装飾を掴んで魔力を流し込む。すると首飾りは杖へと姿を変えた。紫蘭よりも背丈のある、透明な水晶が嵌め込まれた銀色の杖だった。
 紫蘭は魔法使いだった。治癒魔法についても僅かながら心得がある。やるべきことは一つだった。
 しかしその意気込みを諌めるように、白雄はその鬼気迫る形相に不似合いの掠れた声で囁いた。

「やめろ、紫蘭……俺は、もう駄目だ」

 しかし紫蘭はその言葉が聞きこえなかったように振る舞った。
 一番損傷の激しい部位に杖を翳す。するとそこを中心として淡い紫色の光が広がってゆく。命の魔法の輝きは、ゆっくりと、しかし確実に治癒を施していった。
 大丈夫、きっと大丈夫。紫蘭がさらに集中するように目を閉じた瞬間、その華奢な手が乱暴に掴まれた。
 驚いて瞠目する。その先で見たものは、その手首を焼けただれた手で退かすように掴んでいた白雄だった。紫蘭は咄嗟にそれを剥がしにかかる。しかし大の男の力任せなそれに幼子の細腕が敵うはずもなかった。

「いい、やめるんだ……それよりも、白龍を連れてここから逃げろ……」

 そんなこと、了承できるわけがない。紫蘭は幼子らしく駄々をこねるように首を横に振った。それに白龍も加勢した。

「兄上! 兄上も御一緒に!」

 白雄は不意に押し黙った。静かな眼差しで、強情に撥ね付ける白龍と紫蘭を見つめる。
 紫蘭は期待を込めた目で白雄を見つめ返した。その期待通り、掴まれていた手はおもむろに解放された。
 刹那。
 手にしていた白銀の刃を、白雄は自身の腹部に突き刺した。

「え……」

 何が起きたのか、紫蘭の頭は一瞬真っ白になった。制止の声を上げる間もないほど一瞬の出来事だった。
 白雄は手を止めなかった。刺した長剣を、今度は患部から抜き出した。瞬間、栓を失った傷口から大量の血が吹き出す。そしてそれは勢いのまま、真正面にいた紫蘭と白龍の頭上に降りかかった。年端もいかない小さな子供たちの体は一瞬で真っ赤に染まった。
 あまりにも残酷な仕打ちだった。声もなく震えてその場に座り込む。まだ事態を飲み込みきれない。しかし自然と目頭が熱を帯びた。熱気に焼かれた喉から、掠れた嗚咽が溢れ出た。
 その幼子の哀れなすすり泣きを一体誰が咎められるだろうか。
 しかし他でもない白雄がその幼い甘えを許さなかった。いつか讃えられた峻烈さをそのままに、嘆き悲しむよりも先にやるべきことがあると檄を飛ばした。

「走れ、外へ! それが乾いて、お前たちが炎に飲まれる前に!」

 その決死の覚悟に応えるように、無数の白い鳥たちがざわめき出す。世界を、運命を前へと進める、汚れのない白き輝き。その清らかな威光は見る者の全てを圧倒した。ルフの恩恵を通した目で見た光景は、あまりにも神々しかった。
 紫蘭の涙腺はとうとう決壊した。
 大粒の涙がぼろぼろと零れていく。悲痛な嗚咽が喉を鳴らし、いやだと声もなく叫ぶ。無理矢理引き千切られたように痛む心はずっと悲鳴を上げ続けていた。
 そしてあたかも痛みにのたうち回る心が流したかのように、生ぬるい鮮血が滴り落ちる。白雄の血だ。
 その血はまだあたたかかった。生者の体温だった。
 しかしそれを生かし続けることは叶わない。泣きながら、いやだと内心で喚きながら、それでも捨てきれない理性が現状を正しく理解していた。
 紫蘭にはやるべきことがある。
 それは、白雄の覚悟を無駄にしないことだ。
 そのために何をすれば良いのか。それは明白だった。
 もう一度銀杖を振り、愕然として長兄を見上げたままの白龍の体を光の膜で包み込んだ。防御魔法と類似の守護の魔法。そして杖を首飾りの形状へと戻すと、羽織っていた外套を白龍に被せる。布一枚分であってもその身を炎から遠ざけたかった。
 やるべきことをやる。
 紫蘭は使命感に突き動かされるままに再び立ち上がった。

「……?」

 とん、と。足元で軽い音がした。立った拍子に何かを足蹴にしてしまったらしい。横目で見やれば、そこには不気味な木製の人形が転がっていた。なだらかな曲線を描くそれは北方の国の民芸品に似ている。
 しかしそんなもの、今はどうでもいい。紫蘭はすぐにその人形から視線を外した。
 自分とそう変わらない大きさの白龍を、なんとか抱きかかえるようにして立ち上がらせる。
 白龍を連れてこの城から脱する。それが今の紫蘭の最優先事項だった。何を置いても、何を捨て置いても、やり遂げるべきこと。
 例えその対象が恩人であろうとも。
 紫蘭は思わず嘲弄に口元を歪めた。他の誰でもなく自分自身に対する嘲りだった。一体なにをしているのだと、もう自分を嗤うしかなかった。なぜこんなにも力が無いのだろう。
 白雄は、そして白蓮も、決してこんな場所に置き去りにしていい人ではないのに。
 それなのに自分は二人を置いて今にも走り出そうとしている。そんな自分自身に吐き気がした。一方を助けるために他方を見捨てる選択が苦しくてたまらない。
 無力な自分への恨みは次第に憤りへと変わっていった。耳元で激しい唸りを上げる業火が、今は己が身の内で燃え上がっているようだった。

「紫蘭」

 不意に、名を呼ばれる。労わるような優しい声だった。
 思わず縋るような面持ちで振り返った紫蘭に、白雄は火傷で引きつる頬を持ち上げて応えた。

「紫蘭……」

 かつての白皙の美貌は失われ、その姿は常人ならば目を逸らすほどおぞましく変じてしまった。しかし紫蘭は欠片の恐ろしさも感じなかった。
 浮かべられた微笑みはどこか穏やかだった。
 それは、先ほどまでに見られた苛烈な意志の強さとは程遠い。しかしそこには誰よりも正しく在ろうとした生真面目で優しい青年の本質が垣間見えた。
 公明正大。ゆえに厳格だが、その根底には常に泣きたくなるような優しさが通っていた。紫蘭にとって、彼は正しい運命を体現する白く眩い光そのものだった。
 わたしはこのひとを失ってしまうのか。改めて突きつけられた事実に途方に暮れる。
 どうか、行かないでほしい。
 胸が引き裂かれる思いに息が詰まった。いやだ、いやだ。口をついて出そうになる懇願を必死に押しとどめた。
 いかないで。
 どこにもいかないで。
 そのとき、虚ろに揺れていた白雄の双眸が紫蘭のそれを真っ直ぐに射抜いた。真摯な、しかし憂いを帯びた眼差しだった。

「……すまない」

 紫蘭が息を呑むのと同時に、それだけを言い残して白雄の体躯はぐしゃりと崩れ落ちた。

「――――」

 唇を噛み締め、その最期を見届けた。
 心が悲鳴のような音を立てて軋む。不愉快な鉄の味を飲み込んででも、唇を強く噛み締め続けた。そうしなければ役目を放棄してしまいそうだった。身も世もなく泣いて、泣いて、泣いて、疲れ果てるまで泣き明かし、眠りという安寧に身を委ねられたのならどんなにか。
 しかしそれは今やることではない。やるべきことは他にある。
 未練を振り切るように顔を前に向く。兄を求めて泣き叫ぶ白龍の背中を力一杯押して進んで行く。
 そして一瞬たりとも足を止めることなく、炎の大海原と化した大広間を飛び出した。
 


 子供の足には気が遠くなるほど長い距離を、紫蘭は白龍とともに死に物狂いで走り抜けた。
 そしてついに炎の魔手から逃げ延びた。紫蘭がそう判断できたのは、途端に四方八方から群がってきた兵士たちのおかげだった。その中の誰にも防御魔法は反応しなかった。ここに悪意はない。城の中で感じた不穏な予感も。それはつまり、紫蘭にとって、延いては白龍にとって安全な者たちしかいない証左だった。
 疲弊しきった紫蘭には、大人たちから矢継ぎ早にかけられる声に返答する余裕は残っていなかった。朦朧とする意識の中、白龍が無事保護される様子を見届けるのが精一杯だった。
 それでも、まだ。
 紫蘭はまだ気を失うわけにはいかないと己を叱咤した。微量ながら魔力は残存していた。その最後の一滴まで白龍の安全に費やすべきだった。
 しかし、もはや指の一本も動かせなかった。体が鉛のように重い。五感全てに分厚い布を巻かれたようだった。あらゆる音が鈍く聞こえ、目に映る景色はぼやけて見えた。
 頬に湿った土の感触が当たった。いつの間にか倒れこんでしまったらしい。
 未だに周囲には人の気配があった。しかし紫蘭の目は虚ろに宙を見つめるばかりで、その輪郭すら明瞭に捉えなかった。薄ぼんやりとした影たちがざわめいている、そんな風にしか知覚できなかった。
 そしてついに意識を繋ぎ止めるのが難しくなってきた。次第に視界が掠れ、狭まってゆく。
 薄れゆく意識の中、紫蘭はかすかに唇を震わせた。

「はく、ゆ、さま……」

 か細い声は誰の耳にも届かない。
 届いて欲しい人は、もうどこにもいない。
 
「ど、して……」

 自分に告げられた最後の言葉が気がかりだった。あなたが謝ることなんて、ひとつもないのに。そう伝えられたら良かった。
 白雄様。
 閉じてゆく視界の端で、小さな白い鳥が羽ばたいていた。まるで別れを告げるかのようだった。
 いかないで。
 目の淵に溜まった滴が堪えきれずにこぼれ落ちた。
 どこにも、いかないで。
 眠りに落ちる寸前まで、紫蘭はもういない人の面影を求め続けた。

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