心臓が浮くような感覚に、総毛立つ心地がした。
 宙に投げ出されたのだと理解したのも束の間、背中から勢いよく叩きつけられ、息が詰まるほどの衝撃が全身に走った。
 視界の端で激しく水飛沫が上がる。どうやら落下先は地面ではなかったらしい。慣性に従い、身体は水の中へと深く沈んでいった。
 焦点の合わない視界の中で、泡沫が縺れ合いながら昇ってゆく。それにつられるように視線を向けた先、波立つ水面越しに白く輝く太陽が見えた。
 眩しい。紫蘭は反射的に目を閉じた。しかし燦然と輝く太陽の光は瞼の奥にも染みるようだった。
 厄介なことになった、と紫蘭は憂いに眉根を寄せた。
 紫蘭は白髪紫眼アルビノだ。肌や目に本来備わっているはずの色素を持たずに生まれた。
 ゆえに陽光は天敵だった。
 色素を持たないということは、太陽光の有害性に対して無防備であることを意味する。直射日光など以ての外。眩しさに視界は潰れ、肌はすぐに炎症を起こす。
 そのため、日中の外出は可能な限り避けることが習慣だった。止むを得ず野外に出る場合でも、外套で物理的に日差しを遮る措置が欠かせない。それどころか、日焼けに対する恐れのあまり、露出は普段から顔回りなど最低限に抑えてある。
 加えて、眩しさを低減する魔法をかけた目隠しを愛用している。光に極端に弱い目を保護し、視力と視野を確保するためだ。
 しかし先ほど直視した太陽光はまばゆいばかりだった。どうやら件の目隠しを紛失したらしい。紫蘭にとって日常生活の命綱と言っても過言ではない代物だというのに、これは手痛い損失だった。
 とりあえず、目に直接魔法をかけることで当面を凌ぐ。
 しかし、代謝を行う生体に魔法をかけ続けるのは至難の技だった。それが目という繊細な器官であるなら尚更だ。
 こうなると可及的速やかに屋内に退避するのが望ましいが、しかし現状、それは難しいと言わざるを得ない。
 残念ながら、予期せぬ落下と着水に無頓着でいられるほど紫蘭の身体は丈夫にはできていなかった。
 痛みに痺れる身体を仰向けたまま、紫蘭は慣性に逆らうことなく身を任せた。すると一度沈みきった身体はその反動のように上へ上へとゆっくり浮き上がってゆく。
 溺れた際、水中で無闇にもがくことは得策ではない。また、落下の衝撃が抜けきらない今、魔法を使うことも心許ない。このまま浮力に頼っておくのが賢明だろう。
 そして、日光以外にも、紫蘭は自身を取り巻く現状に危惧を覚えていた。
 強い日差しのせいか、身体に纏わり付く水が妙に生温く感じる。透明度も決して高くない。波などの流動を感じないため湖沼の類だろうが、濁った水を通して端が見え隠れしており、大した規模ではないことが伺える。人工的な溜め池かもしれない。
 なんにせよ清潔とは言い難い。紫蘭はわずかに身を強張らせた。感染症など御免被る。ここから出たらすぐに洗い流そう。
 しかしその憂慮はあまりにも呑気に過ぎた。そう思い知らされたのは、水面に顔を出したのと同時だった。

「なっ……!」

 瞬時に、何かが掴みかかるように紫蘭の両手足を縛り上げた。唐突な事態に驚愕し、見開いた目に映ったのは、紫蘭の胴回りの半分ほどの太さもある触手だった。
 咄嗟に振りほどこうと身をよじったが拘束は少しも緩まなかった。どころか、抵抗した分だけその強度を増したようだ。捕らえた獲物を逃がす気はさらさら無い。そう言わんばかりの力強さだった。
 紫蘭は慄然とした。
 手足を拘束する触手。まるで体液のように生ぬるい水たまり。頭上で紫蘭を閉じ込めるように合わさった肉厚の花弁たち。極め付けは、浮上した一瞬に見えた砂の海。
 これらの要素から解答を導き出すことは容易だった。
 砂漠ヒヤシンスだ。砂漠に生息する巨大な肉食植物・・・・。その捕食対象には人間も含まれる。
 つまり、今、自分は捕食されている。
 そう理解した瞬間、本能的な恐怖が背筋を駆け抜けた。
 思わず悲鳴が溢れたが、これがまずかった。開いた口から水が入り、次いで気管を侵した。反射的に噎せ返るが、それにより再び水が口腔に入り込んではまた咳き込むという悪循環が始まった。
 正常な呼吸を奪われた時点で理性は脆くも砕け散っていた。脳に酸素が行き渡らず、恐怖と混乱の中で理性を失った思考がさらに千々に乱れていく。
 ばしゃばしゃと水が激しく飛び散る音が、さらに狂乱に拍車をかける。
 鼻腔に鋭い痛みが走った。生理的な涙が滲む。浸水した肺にも鈍い痛みが広がっていく。
 その痛みには覚えがあった。
 すでに遠い過去になったはずの苦痛だった。傷は癒え、もはや傷跡も残っていないと思っていた。しかし心につけられた傷というものはそう簡単に消えないらしい。
 過ぎ去ったはずの惨劇が蘇る。
 大きく乱暴な手に無理矢理押さえつけられ、水を張った桶の中で呼吸するしかなかったあの時。窒息しそうになるたびに寸でのところで水から引き上げられる。それは良心に基づく配慮などではなく、より長く甚振るための延命措置だった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でどれだけ懇願しても意味がなかった。無情にも、水責めは容赦なく繰り返された。
 怖い。痛い。でも、逃げられない。
 誰か。
 身の程を弁えろ。そう嘲り笑う声が聞こえた気がした。
 紫蘭がまだ、人の形をした家畜だった頃の話だ。
 いつの間にか、触手は紫蘭の胴体と首にも巻きついていた。
 捕食者は逃げようとして狂ったようにもがく獲物を再度きつく縛り上げた。そして完全に息の根を止めるべく、水の中へと引きずり込んだ。
 紫蘭の口唇から、がぽっという音ともに一際大きな気泡がまろび出た。
 水面が遠くなる。視界が次第に闇に飲まれつつあるのは意識が飛びかけているからだろう。
 このまま死ぬのだろうか。なんとも呆気ない最期だった。
 しかし、ぼんやりと白んでいく意識の中で、刹那、閃きは訪れた。
 力なく閉じかけていた虹彩に知性の輝きが宿る。
 そして、紫蘭は声なき声で命令を下した。

「――雷よラムズ

 まるで神罰のように、青白いいかづちが轟いた。



 半ば自動的に展開された防御魔法のおかげで、紫蘭は雷魔法の影響をほとんど受けなかった。
 しかし砂漠ヒヤシンスには致命傷だったようだ。真っ黒に焼け焦げた姿は見るも無残だった。紫蘭は静かに手を合わせた。
 
 


 
 
 


 
 

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