君はまるで花のよう
小さい頃からよく笑う子だったと、清水潔子は回想する。
明るい笑顔で「潔子ちゃん」と呼び慕ってくれる従妹の名は、白石茉莉といった。茉莉は潔子の一歳年下で、言うなれば二人の関係は年子の姉妹のそれに近い。小中ともに違う学校ではあったが、それにも関わらず頻繁に連絡を取っているということが二人の親しい間柄を如実に示している。
茉莉と出会ってから11年の歳月が過ぎ、中学生になった潔子は陸上部に、それからさらに一年遅れて入学した茉莉は、友人の誘いで男子バレーボール部にマネージャーとして入部を決める。
電話越しに茉莉からその報告を受けた時、潔子は正直驚きを隠せなかった。
と言うものの、茉莉は小学校に上がる頃には両親の意向を汲んで数々の習い事に精を出しており、さらにそれらのどの分野でも人並み以上の実績を残しているからだ。ピアノ、水泳、英会話、体操、合気道、バレエ、そろばん、華道、茶道――枚挙に暇がない。どれも短期間で成果を挙げた後に順次辞めていたが、それでも小学生に課すにはあまりにも過酷な毎日だったと、潔子は今になってそう思う。しかし当時は、傍目から見て茉莉が苦もなくそれらをこなしていたものだから、潔子にはそれが大変なことなのだという認識がなかった。それはきっと、潔子に限ったことではない。
話を戻そう。
つまり潔子は、そんな輝かしい経歴を持つ茉莉が<選手を支える側>、言ってしまえば<日陰の役割>に回ることに、違和感を覚えずにいられなかったのだ。
***
元旦。広い蒼穹は見えずとも、薄灰色の雲を透かす白い陽光に照らされ、<清水>の二文字が刻まれた表札が年の瀬の明けた賑わしい朝を宿して光り、その門の奥に聳える古き良き日本家屋の中の人々とともに新年を祝福していた。一年の初めに当たるその日は、潔子にとって父親の――茉莉にとっては母親の――実家に、親戚中が集まるのが習わしだ。
がやがやと騒がしい大広間で、潔子は酒を酌み交わす大人を横目に、豪華なおせち料理にちまちまと箸をつけていた。最初のうちは年初めの挨拶や近況を聞かれたりなどすることもあるが、お酒が入り宴会場と化したこの場では、子供という存在はあまりにも肩身が狭い。
――茉莉ちゃん、まだかな。
潔子がちらりと視線を動かすと、少し遠くで、細身の体躯が計ったようにほぼ同時に立ち上がった。茉莉だ。白いブラウスに控えめな色のワンピースを合わせた、茉莉曰く「余所行き」と思われる清楚な服装をしている(普段の茉莉はもっとカジュアルなものを好んで着ている)。そんな茉莉の傍らには、これまた茉莉とよく似た顔立ちの男性が赤ら顔で突っ伏していた。それを見た潔子は即座にあらかたの事情を察する。どうやら、茉莉の父親は飲み比べに敗れたらしい。
茉莉は酒に飲まれた父親を介抱していたらしかったが、もう見切りをつけたのだろう、潔子の姿を見つけると、人波を縫うようにして潔子の元へと足を進めた。急ぎすぎて誰かを蹴飛ばしてしまわないよう気をつけながら、その道中でかけられる、気分良く酔いに浸っている大人たちからの囃す声に、茉莉は人懐こい笑顔で如才なく対応している。秩序の見えない人の群れをすいすいと歩いて来るその様子に、潔子は親愛なる従妹の真骨頂を垣間見た気がした。
潔子が茉莉のために隣を空け迎え入れれば、茉莉は心底嬉しそうに相好を崩し、余所行きの慎ましい仕草で座布団の上に脚を畳んだ。潔子もそれに慣い、見目麗しい二人の少女は恭しく畳に手をついて頭を下げた。
――新年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
お互い丁寧に年始の挨拶を述べ、潔子と茉莉がようやく年相応の明るい笑みを交わし合うと、その場だけが一足先に春を迎えたように華やいで見えた。
「顔を合わせるのは久しぶりだね」
それもそのはずだと、潔子は茉莉の言葉に同意を込めて頷いた。
茉莉の通う北川第一中学校の男子バレーボール部は、県内有数の強豪であるらしい。平日に朝も放課後も練習があるのは当たり前で、週末にはほとんど毎週のように練習試合を組み、選手も設備も文句なしに質の良いものであると、茉莉は潔子に入部早々とても嬉しそうに電話口でそう語った。その部をサポートする茉莉も当然毎日忙しくしている。
ちなみに、潔子の所属する陸上部にはマネージャーという役職はない。道具の準備もタイムの測定も、すべて部員が持ち回りでやっている。茉莉の話を聞く限りでは、そう言った雑事全般を茉莉含む数名のマネージャーが請け負っているらしい。
授業の進度など、幾つかの学校生活の話題を経て、潔子は流れのままに茉莉に尋ねた。
――部活はどう?
潔子としては茉莉がそろそろ物足りなくなっているのではないか――マネージャー業という名の雑用であるルーティンだけでは、到底茉莉を満足させるには物足りないだろう――という意図を含んだ疑問であったのだが、それに反して茉莉は晴れ晴れとした笑顔を潔子に向けた。まるで満ち足りていると言わんばかりの笑みである。思わず目を瞬かせる潔子に、茉莉は己の現状を嬉々として語ってみせた。
「バレーボールアナリスト?」
茉莉は今、その役割を全うすべく日々奮闘しているという。
ふむ、と潔子は聞きなれない言葉に僅かに首を傾げた。その動きに合わせて肩に流れた黒髪が、まるで清流のせせらぎのようだと、茉莉は年々その美貌に磨きをかける従姉にうっとりと見惚れる。茉莉から向けられる幾許かの熱を孕んだ視線には気付かず、潔子は玲瓏とした眼差しで従妹を見つめ返した。
「アナリストって、分析(アナリシス)をするってこと、だよね? スカウティングのこと?」
「うん、そう」
理解の早い潔子に、やはり茉莉はとても嬉しげな笑みを咲かせた。さすが潔子ちゃん、と弾んだ声さえ聞こえてきそうな満開の笑顔だ。
スポーツアナリストとは、データを収集・分析し、練習や試合に役立てられるよう処理する、いわば戦術的スタッフのことだと茉莉は言う。試合中でさえデータを提供して戦略を練るのに一役買う立ち位置であるらしい。なんでも、中総体後から勉強を始め、十二月の半ばに催された専門の試験では最高得点を叩き出すまでになったそうだ。
優秀極まりない茉莉ならばと、潔子はあっさりとその話に納得した。部活の方でも理解ある顧問と先輩の進言により形になりつつあるらしく、やはりこれもまた潔子は含むところなく合点がいった。
まだまだ足りないものは多いんだけどね、と茉莉は口元に笑みを浮かべたまま、どこか遠くを見るように目を細める。日本ではあまり見ない色をした茉莉の瞳は、冬の乾いた空気のように透徹であり、寂しくあり、そしてどこか心地よい。この凪いだ眼差しに、これまでどれだけの人間が射抜かれたのだろう。
「一つ上の先輩方には随分お世話になってるから、今年の全中までには完璧にしたいんだ」
――完璧にして、役に立てたらなって。
そのようないじらしい言葉と、茉莉の持つ特有の柔らかい言葉尻に、潔子も慈しむように目尻を下げた。すっと伸ばされた雪よりも清らかな白い手が、茉莉の射干玉の黒髪を優しく梳く。その心地良さに茉莉は子猫のように無垢な甘えで目を瞑った。
「茉莉ちゃんなら、できると思う」
茉莉ならば、優秀極まりない、数多の方面で実績を上げてきた茉莉ならば、できると思う。実親の次に茉莉に寄り添ってきた潔子にとって、それは何よりも真実の言葉である。
茉莉も潔子の本気を感じ取ったのか、ふんわりと、小さな白い花が綻ぶように、口元に春の気配を携え微笑んだ。
***
ある年の秋晴れの日、清水潔子はある一つの決意をした。
夏の蒸すような暑さが過ぎ去り、すっかり秋らしい少し肌寒い日和になったこの頃、烏野高校男子バレーボール部は新体制へと移行し、既に厳しい練習へと身をやつしている。マネージャーである潔子もまた、選手たちをサポートすべく毎日のように身を粉にして働いていた。
最後のジャグを洗い終えたところで、ふっと一息つき、潔子はバシッと勢いの良い音が炸裂した体育館内へと視線をやる。どうやら現在選手たちはスパイク練に励んでいるようだ。潔子の細腕では受けただけで折れそうな威力で、ボールは体育館の床へと叩きつけられている。ナイスキー、と数人の声が重なって響く。
潔子は普段通りの無表情に幾らかの憂いの色を乗せて、改めて選手たちの様子を眺めた。部内の雰囲気は上々だ。上手くバランスの取れた二年生に、騒がしい二人を中心としてまとまっている一年生。体育会系らしく上下関係もきっちりとしているし、少し前に一悶着あったものの、今では誰もが真面目に練習に励んでいる。
しかし、と、潔子のみならず部員の誰もが――もしかしたら、あの騒がしくも決めるところは決める天才リベロだけは違うかもしれないが――一抹の心もとなさを抱えているように思う。烏養監督という、烏野の不名誉な称号を雪ぐために欠かせなかったはずの人物の不在が、部に薄暗い影を落としているのだろうと、潔子はそう考えていた。
烏野高校男子バレーボール部が全国レベルの強豪であったことはそう昔の話ではない。そう昔の話ではない、ないからこそ、どちらにも割り切れず、古豪という立ち位置に甘んじている。弱小ではないだろう。かの天才リベロをはじめとしてなかなかの粒揃いではあるのだ。しかし、勝ちきれない。とはいえ大敗するわけでもなく、やはり割り切れない結果に終わる。
指導者が必要だ、というのはバレー部員全員の共通認識であった。個々人の技術の向上も、チームの組織的なプレーも、選手の努力だけに存するのでは全く足りない。それはわかっている。しかし、頼みの綱である烏養監督は復帰の目処が立たず、まして他に当てがあるわけでもない。万事休す。二進も三進もいかず、かといって練習をやめるのはもっとまずい。そんな焦燥が滲むような練習風景に、誰よりも近くで選手を見てきた潔子は人知れず心を痛めていた。自分にも何か、できることはないか。もっと選手たちの役に立ちたい――そこまで考えて、潔子は不意に思い当たる人物がいることに気がついた。
――完璧にして、役に立てたらなって。
茉莉ちゃん、と潔子は音も無く親愛なる従妹の名をぽつりと紡いだ。潔子の胸の内に、茉莉ならば、という希望の光が差し込んでいく。
茉莉はあの年始の日以降も順調にアナリストとしての見識を深めていき、中学三年生の時には念願の全国出場を果たした。惜しくも2回戦で敗れてしまったそうだが、それでも拍手喝采の大健闘である。
そんな経験をした茉莉ならば指導者足り得るのではないかと、潔子は期待せずにはいられない。しかしその直後、最大の難問をどうするかと潔子はまた頭を悩ませることになった。
何せ今この瞬間にも、茉莉は日本ではなく、海を越えた向こうにいるのだから。
時折耳にする<親の仕事の都合>という家庭の事情により、茉莉は前述の全国大会を終えた数日後には日本を飛び立ったのだ。本来ならば進級するより前に引っ越すはずだったのだが、それは茉莉が頑として撥ね除けたらしい。
――こんな中途半端なまんまじゃ終われないよ。
もちろん一悶着あった。一悶着どころではなく、話の折り合いがつくまで、白石家では冷戦もかくやというほどの水面下での激しい争いがあったそうだ。リベラルな白石家といえど、決して良識を弁えていないわけではない。それ以前に、年頃の娘を目の届くところに置いておきたいと思うのは、親心として至極当然だ。
しかしそれで大人しく諦めるほど、茉莉はお行儀の良い女の子ではなかった。
――お父さんとお母さんの気持ちも、非常識なのもわかるけど、だめ。どうしても譲れない。
膝上で握った拳に力を込めてそう言った茉莉は、付き合いの長い潔子から見ても、今までにないほど強い眼差しをしていた。最終的に、家族水入らずで腹を割って話し合った結果、茉莉は夏の大会が終わるまでの数ヶ月間の日本滞在を許可されたそうだ。これは<話せばわかる>白石家だからこそ迎えた結末だったのだろう。
兎にも角にも、そうして和平条約を結んだ親子は、しばしの間離れ離れに暮らす事となった。画して茉莉は残されたマンションの一室でひとり家事に奔走し、その一方で学校では部活に打ち込み、その末に全国大会出場を果たしたのである。
改めて思えば破茶滅茶な話だが、それくらいのバイタリティがなければ全国など夢のまた夢なのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。全国を目指すとはそういうものなのだ。鬼気迫る様子で意志を突き通した行動力溢れる従妹を見習うべく、潔子も早速国際電話をかけることを心に決めた。
――そういえば、日本とあっちの時差はどれくらいだっけ。
焼けるような夕日の中、はてと小首を傾げた潔子の耳に、飛び立つ鳥のはばたきが聞こえた。
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