裸足で舟の木板を踏みしめる。
最近は市場の方に行っていたから、久しぶりの水上マーケットは変わらず色鮮やかで賑やか。知り合いの夫人や婆さま、親爺から子供まで声を掛けてくれて嬉しい。
商売自体は同船した同僚に任せて、長い櫂を適度に揺らしながらゆっくり移動していれば、側から声が掛かった。
「エデン」
「どうしたジーク、そんな顔して」
眉間に皺を寄せながら焦燥した顔の知り合い。
いくつか年下なのでまだ幼気が抜けていないが、あと数年で美丈夫になるだろう将来有望な16歳。
「く、クランが居なくて、」
「へ?」
「誰にも言わずふらふらどっか行って、……あの人」
「珍しい、ジークがあのお坊ちゃんにまかれるなんて。悪い、ちょっと任せていいか?」
同僚に声を掛ければ快く請け負ってくれた。
全く、この国の奴らは本当に、首長の御曹司たるお坊ちゃんに優しいんだから。多分どこかの飯屋で駄弁ってるだろ。
サンダルを引っ掴んで、櫂を支えにして棒高跳びの要領で陸に飛び移る。櫂はそのまま同僚へ向かって倒し渡した。
「さーて、南側の飲食街探したか?」
「いや、海岸線と東側にしか」
「じゃあまず南だな。行くぞ」
今日はずっと海の上にいるつもりだったから、底がペラペラのサンダルは直に俺の体重が跳ね返ってきて足裏がビリビリする。熱いし辛い。
早めに見つけて何か奢ってもらわなきゃ割に合わねえな。
心に決めて、南の飲食街に続く路地の急峻な階段を駆け下りた。
観光客は使わない地元民のスーパーショートカット。
後ろの足音はテンポが遅いのに近くで聞こえるから段飛ばしに飛び下りてるんだろうな。
運動神経がさすがに凄い。
「お!当たりだ」
階段を下りた先を左折してしばらくすれば、食べ歩きにぴったりのデザートショップのテラス席に目当てを発見。
知らん親爺と楽しそうに歓談中と来た。
勢いそのままに駆け込んで、注文しながらクランの肩を掴む。
「お嬢さん!俺とジークにもジェラートちょうだい!代金こいつにツケて!ダブルで!ジーク何味が良い?」
「ミントとクリアベリー」
「俺のはソーダとシュガーレモンね」
「えっ?エデン?」
「あらあらあら!エデン君と護衛さん、クラン様のこと見失っちゃってたのかしら?」
四方八方どこから見ても隙のない美貌の男は、急に吹っ掛けられた奢りの話に驚いたみたいでぱちぱちと瞬きをしてる。
テイクアウト窓口の女性は笑ってるが、こんなクソ暑い日に護衛対象見失ってしまってあちこち探し回ったジークを思ってくれよ。精神的にも体力的にも疲れてるはずなんだからこれくらいはいいんじゃないか?
気を使って席を譲ってくれた親爺に礼を言って、クランの肩を掴んだまま腰を下ろす。
「ジークのこと置いていかないでよ、俺も仕事中なんだからさ」
「ごめん、置いて行った訳じゃ無いんだけどな。ジーク、座って。汗すごいよ」
「はあ……、」
項垂れたようなジークを俺と反対側の隣に座らせて、ちょっと困り顔のクラン様。
おいおい、顔が良すぎて周りの目線が痛いなこれだからあんまり一緒に居たくない。
肩に回していた腕を解いて、ジークの頭を撫で回す。
弾かれた。
「ねえ、ソルトライチジュースもお願いできるかな?」
「もちろんよクラン様!エデン君は仕事中らしいけれど、ゆっくりできるのかしら?」
「麗しきクラン様がジュース奢ってくれるみたいなんでね、食い終わったら戻るよ。ここで断ったのがバレたら同僚から拳が飛んでくるからな」
「エデンは大袈裟だな」
そう大袈裟でも無い。事実だ。
20歳にも行かないこの男の子が老若男女にきゃあきゃあ言われてるのを何度目にしたことか。
「お嬢さん、1個デカいサイズにしてくれるか?」
「はいはい、ちょっと待っていてね」
氷がたっぷりのジュースはあまり甘くなくて水分と塩分を摂るのに丁度いいから、補足でジークのはデカいサイズのにしてもらう。
「エデン、今度は長く居れるの?」
「この後そのまま商船に乗る予定。一旦外洋に出るから戻るのは2ヶ月後ってとこ」
「そう、……気を付けて」
このお坊ちゃんは良い子。
『とても寂しいです』という顔を作って、年上の友人という形の席に収まっている男に適度に甘えた振りができる。
優しくて気配りができて、街のみんなが熱を上げてる。
目の前の男が、肚違いの兄だとは知らない。
良い子。
「おぉーーーい!こっちだ!」
野太い声を追いかけて、港の人波をすり抜ける。
ここのところオフィスに缶詰だったから日差しが余計に眩しい。海鳥の喋り声も耳に響いてくるみたいだ。
「船長、お久しぶりです」
「おめえ、生っ白くなったなあ。あんなに焦げてたのに。髪も女みてぇに伸ばして」
「焦げてたとは何ですか、トーストみたいに言わないでくださいよ。一応これでも経理補佐なんで」
あと女みてぇとは余計だ。
こういうこと言う度に奥さんにどつかれてたのに、変わらないな船長は。
「がはは!出世したな!甲板で転がって
世界の港とも称されるこのオウランで、そこそこ大きな貿易商社に就職した俺を待っていたのは数年の下積みだった。
基本港と海とマーケットに出て仕入れと卸しの勉強の日々。
日がな一日外に出てジリジリと焼かれて黒っぽかった肌は、経理補佐になってからの数年で元に戻ってしまった。
体力的に辛かったことも多かったけど、なんとかやってられたのは周りの人がなんだかんだ良かったから。
その下積み時代に世話になった船長が戻ってくると聞いて挨拶に来たのにこの言い草だ。
まあ、気軽で良いんだけどな。
「気ぃ付けな。おめえ顔は良いんだから、お客とトラブル起こすなよ」
「顔は?」
「気付いたか!」
「気付きますよ、そりゃあね」
しかもトラブルってなんだ。失礼な。
皆大好きクラン様の『友人』てことになってるから、人間関係には注意してる。
『クラン様は私に気があるんだ』なんて勘違いしてしまった女の子が起こした台風に巻き込まれるのもうんざりなんでね。
ついでに『どこかクラン様に似ていて素敵』って言われるのが1番心臓に悪いんだから。女の勘は怖い。
諸々バレるのを危惧して髪を伸ばしてる訳。
短いと意外にクランに印象が寄るらしいから。
「せんちょー、あれ!アルニラムじゃんか!久しぶりだな!」
「ああ、久しぶり、元気してたか?」
「聞いてくれよ!北の海で落ちて死にかけたわ!」
「うわ!止めろ本当に、洒落にならんって」
「がはははは!」
肩を組んでくるこいつは長いこと同僚してるやつ。
オフィスにいるよりも海の上のほうが良いとかで基本は船上生活をしているんだが、本当に笑い話にならないことを軽く話しやがる。
水温の低い海水は簡単に命を奪う。
それこそシュルヴァート近海の海難事故は悲惨だと聞くのに。
「お、呼ばれてるからオレは行くぞ。夜にでも飲もうや」
「はい、オフィスにいると思うんで声かけてください」
「船長、俺も行って良いスか?!」
「金持ってこいよ!」
「え!船長のおごりじゃないんスかあ!」
「冗談じゃねえや!!」
笑って背を向ける船長を見送って、俺も一旦オフィスに戻ろうとする。
が、同僚が肩を離さない。
「なんだ?」
「知ってるだろ?」
「何を?」
「クラン様だよ!かの有名な錬金術師の学校、ミーティアに入学なされたんだって?!」
「そうだな。それはこの国の人間なら九割くらいは知ってるんじゃないか?」
もう来年には2学年になる。
そう思うと、こいつが乗ってた商船がどれほど長い間外に出ていたか実感できた。
俺の父親でもある首長と大波乱を起こしながらも意思を貫き通して入学したのが昨日のように思い出せるのに、それをこいつは今聞いてくるんだから。
懐かしい。
事前に入学祝いを贈ったその日の夜、意気消沈というか怒り心頭というか⋯⋯とにかく複雑な顔で家に訪ねて来た。
玄関先で苦しいくらいに抱きついてくるクランを抱きとめて背中を撫でながらふと見れば、闇に溶けるようにジークが控えていて2人を招き入れたんだった。
クランはもう全然離れなかったから、ソファで寝ると言うジークにできるだけ良い寝具を渡して⋯⋯。
金持ちのお坊ちゃんが安月給の男の借家のベッドで雑魚寝って有りかよ?と思ってた。
けど、泣くことも喚くことも無く、暴れたりもしない奴が俺のところに来たのは、少し優越感が勝った。
あいつがあの顔で適当にバーにでも顔出せば、一晩くらい匿うような奴は五万と居るだろって思うから余計に。
家族と近い匂いでもするから落ち着くのか。
父親同じなんだし。
「お前、仲良かったじゃねえか!なんか無いのか?新情報!」
「はあ?そんなもん、大通りで井戸端会議してるマダムにでも聞けよ。俺より情報持ってるぞ、多分」
「聖地とかはもう教えてもらった」
「聖地?なんだそれ全然知らねえ。一周回って面白いな」
ただ、どんなに顔が良かろうが性格が良かろうが、あくまで俺にとっては肚違いの弟。
マダムや女の子と一部の男みたいにきゃあきゃあ言うはずも無い。
しかもあちらは正妻。こっちは愛人。
本気で正妻は俺のことなど知らないだろう、というくらいには秘匿の存在ではあるわけだ。一応ね。
故に距離感って1番大事。
「ええ?そんなもんなんかよ?」
「そんなもんだろ、四六時中一緒にいるんじゃないんだからな」
なんだ、とつまらなそうな同僚に俺はオフィスに戻ることを伝えて踵を返す。
船が戻ってきたということは、これから忙しくなるからだ。
「クラン?」
皆、俺のことを昔から可愛いとか綺麗とか、格好いいとかお洒落とか言ってくれるけど、俺はこの人以上に美しい人を知らない。
優しい声で呼んでくれる、年上の友人。
『なあ、どうしたんだ?こんなところで』
最初に出会ったのは海が見える路地裏だった。
幼い頃、父と喧嘩をして護衛を振り切って逃げ込んだ静かな空間。シュガーレモンの木がアーチを作っていて、木陰が優しかった。
『だ、だれ?』
『⋯⋯エデン。エデン・アルニラム。お前は首長の息子だろ、護衛は?』
『⋯⋯いないよ、おいてきたんだ』
『なんでだよ、危ない』
俺が幼い頃、と言っても彼は13歳だったんじゃないかな。
十分すぎるほどに人を引き付ける容姿をしていたと思う。木漏れ日に照らされる少し長めの黒髪と、輝くグレーの瞳に反して、年齢不相応なとろりとした色っぽい目元。
もしかしてこれは、贔屓目かな。
『仕方ないなあ、おいで』
『え⋯⋯』
戸惑いながら差し出された手を握れば、花のような涼しくて良い匂いと笑う声がすぐ近くで聞こえた。
だめだろ、簡単に人を信じたら。
なんて言って笑う彼は屋台で串焼きを買ってくれて、俺の手を引いてマーケットを歩いた。
信じられないほど輝いて見えたのを覚えてる。
この年になって考えてみたら、あれは初恋だったんだろうと思う。
気付いた時には、かなり柔軟な恋愛観の友人に感謝したし聞いたことを後悔もした。
何も聞かなければ、彼のことをそうやって、自分の手に入れたいなんて欲望を伴って見ていたとは自覚もしなかった。
ずっと、ただの友人でいたと思う。
その方が楽だった。
調査中に偶然見かけた後ろ姿を追ってみれば、あの時と同じシュガーレモンの路地裏にたどり着いたから思い出してしまう。
「エデン」
「あれ?クラン、どうしたんだ?調査?」
「そうだよ、軽いものだけど⋯⋯エデンは?」
「昼休憩中〜」
潮風に焼かれた甘い声。
髪を風に遊ばせて軽く微笑むだけの何気ない仕草なのに、俺の心臓を締め付けて仕方ない。
苦しいときにいつだって支えてくれる人。
俺と変わらない身長で、海に出てるから細身でもしっかりした体つきをした成人男性なのに、どうしてか、どうしても愛しいと思う。
「ん?」
「あ?」
「首元、血がついてる。大丈夫?痛くないの」
昼食を取ってきたのか、眠そうに瞬きをしている彼の首元の服が少し赤くなっていた。
既に乾いた血液が擦れた跡だった。
「え?!うわ!最悪だ、港に行った時にどこかでロープに擦ったな⋯⋯。この程度問題ない、よくあるから」
「よくあるって⋯⋯血が出てるのに?こっちに座って」
無造作に置かれたベンチ代わりの小さめの輪切りの丸太に座って、足の間にもう一つの丸太を引きずって来る。
傷口がある側を見れるように前のボタンを少し外して座る彼が色っぽく見えて、唾を飲み込んだ。
「っ、”
「うわ、初めて見たかも、お前がそうやって使うとこ」
「そうだった?ほら、服押さえて前かがみになって」
水を入れておいたボトルを取り出して、傷口を洗い流す。肩を滑ってぼたぼたと煉瓦に落ちる水。
「ぐ、」
ハンカチで拭えば、やっぱり染みるのか強張って逃げようとする身体を引き寄せた。
痛みに耐えてビクリと強張るところが腕に伝わってきてもどかしい。
オフィス勤めになって久しい身体は、以前抱きついた時よりも華奢になってる。服に余裕があるのがそれを引き立てていた。
「痛い?」
「滲みる。いつやったんだ?マジで覚えてない」
「ロープって言ってたけど、なんか、欠片がくっついてたよ。塗料剥がれじゃないかな」
ハンカチに付いた小さなオレンジ色の欠片。明らかに血とは違う色をしている。
「あ〜、あれだ、櫂をまとめて担いだ時のだ」
「ずいぶん力仕事なんだ?」
「まあ、頑固で屈強な海の男だからな」
「っ、ははは!そうかな?この間見かけた時にはナンパされてたよね?」
「は?!ナンパじゃない!あれはお前のファンだったんだよ。全く、いつまでも無差別人誑しなんだから」
「ちょっと、人聞きが悪いな」
拗ねたみたいにしてるのが可愛い。
ついでに取り出しておいた消毒薬を掛けるとより滲みるらしく、引き寄せるために回した俺の腕に寄りかかって震える彼。
回復テープを貼れば無防備に力を抜くから、理性がこんがらがって焼ききれる音がした。
「ありがとう、もう大丈夫、⋯⋯クラン?」
「エデン」
「どうし、っ!は、え、おい!」
まだ湿った首筋に口付ける。
変わらない涼しい花の匂いに目眩がしそうだ。
もっと引き寄せて膝に乗せると抵抗が大きくなるけど、俺をぞんざいに扱えないのに付け入って、鎖骨にキスマークを残した。
「クラン、待てって、本当に落ち着け」
「落ち着いてるよ?」
「嘘だ、」
「嫌なら殴って」
「できないのわかってるだろ!っ、」
逃げようとするのを押さえて耳元まで舌でなぞるとエデンの身体が跳ねる。
後頭部を押さえて抱きしめる。
「エデン。好きだ、ずっと」
「やめ、違う、勘違いだ、っ、!」
「かわいい⋯⋯」
「耳近いのやめろ、クラン、んっ」
身体をできるだけ付けて、逃さないようにして唇を奪った。
潤んだグレーの瞳を焦点が合わない距離で凝視すれば、耐えられないように目を瞑るので涙が流れる。
逃げることなんてできないのにね。
ミーティアに入って以来エデンと離れてる分、触れられない欲が暴走してる。
こんな昼間に外で喘ぐ彼を、自分がそうさせてる事が征服欲を満たしてゾクゾクする。
柔らかい唇と口内を存分に楽しんでから少し離した。
「っは、ぁ、あ、⋯⋯なんで、」
「言ったよ、好きだって」
「っ、勘違いだって」
「絶対違う」
「違わない」
弱い身動ぎすら俺の中のどろっとした欲望を擽る。
まばたきでこぼれた涙が木漏れ日にあたって光を反射して堪らない。
「クラン!っ!」
外されたボタンの間から見える胸元にも口付けて跡を残した。
か細い咎める声なんて初めて聞いたな。
「ん?」
「本当に、後悔する、」
「絶対しない。⋯⋯でも、驚いたよね。ごめん、ずっと耐えてたつもりだったけど、我慢できなかった」
「バカか、」
「馬鹿かも。ボタン留めるよ?止まらなくなりそうだから」
「⋯⋯ばか、ほんとに、」
「うん」
「知らない⋯⋯」
項垂れる横顔が綺麗で、どうしたら良いのか分からない。
とにかくこの人が俺の腕の中にもっといてくれたらいいのにと願って止まない。
「クラン、」
「うん?」
「調査中、だったろ、戻ったほうがいい」
「⋯⋯もう少し」
「どうして」
「貴方が色っぽくて、1人じゃ帰せないな。このままオフィス行くの?ミーティアだったら俺の部屋に連れて行くのに」
「行かない!し、⋯⋯お前、の!せいだろうが!」
乱れた髪と上気した肌のままこちらを見るので、もしかしてわざとやってる?
「午後休みにする?」
「連絡入れる⋯⋯傷は痛いし⋯⋯」
「そうしてくれると嬉しい。家まで送るよ」
「目立つだろ、お前が。⋯⋯いいって、行けよ」
名残惜しさに髪をかきあげて額にキスをした。
「おい!」
「ごめん、俺が本気だって、ちゃんと分かる?」
「⋯⋯分かる、分かったから、困る」
「うん。⋯⋯今日は戻るよ。またゆっくり話そう。返事も聞かせて欲しい」
「分かったから、行けって」
「うん。じゃあ、気をつけて」
「お前もな」
シュガーレモンの樹の下に座ったままの姿を、何度も振り返って見る。
俺がキスした額に手を当てて俯く彼は憔悴して見えた。
それはそうだろう、早まってしまったな。
もっと外堀を埋めようとか色々考えていたのに、目の前に彼がいたら無理だった。
早めにオウランに戻って来なきゃいけない。
そう思ってミーティアへ戻ったのが2周間前だ。
今日、もぬけの殻になった彼の家で立ち尽くしてる。
どうして、
「無理ですね、追跡の目眩ましがかかっています⋯⋯」
ウルタの声が、遠くに聞こえた。
end.