あれは小学校低学年のときのとこだっただろうか。私には好きな男の子がいた。どこにでもありそうな、なんの変哲もない幼い初恋のことを、今でもときどき思い出す。
お父さんの仕事の都合で引っ越しが決まった私は、友だちと離れることの不安で泣きそうになっていた。そんなとき初恋の子はこんな言葉で私を慰めてくれたのであった。

『大丈夫、この空は繋がってるんだから、また会えるよ』


「あれ、名前ちゃん?」

突然、澄んだような声で呼ばれて、私は誰だろうと心当たりのないまま、振り向いた。きれいな人だった、女の人かと思ってしまうくらいに。それでも私がそう誤解しなかったのは、今でも私の記憶に残る初恋の人の面影を残していたからである。

「幸村、くん?」

そう呼んだあと、そういえばあのころは「精市くん」と呼んでいたっけ、と思い出した。高校生にもなると男の子を名前で呼ぶのは憚られるので、今さらそんな呼び方をしようとは思わないけれど。
あのころの面影を残しつつ、彼は大人になっていた。可愛い、という言葉が1番似合ってたのに、今ではかっこよくて、きれいで、こんなに変わるんだ、と驚く。それでも、優しそうな瞳はそのままで、私はあのころに戻ってしまったかのように思ってしまうのだった。

「やっぱり、そうだよね。まさか立海の高等部にきみがいるなんて思わなかったよ」
「私も、まさか幸村くんが立海にいるなんて」
「なんだか懐かしいな。でもきみのことはすぐにわかったよ。変わってないね」
「そうかな。幸村くんは結構変わってて、一瞬わからなかったよ」

変わったなあ、と思った。あのころは幸村くんを前にすると恥ずかしくて、こんなに話せなかったのに。今ではこんなにうまく話せる。それでも、ときどき見せる笑顔には幼さがあって、懐かしく思う。

「これからよろしくね」

立海に入ってよかった、と幸村くんに会えただけでそんな風に思えてしまったのだから、単純だなあ、と自分で呆れてしまう。そんな、春の日。

***

「おはよ、名字さん」
「あ、おはよう幸村くん」

高校生になって再会したことで、幸村くんとはやっと友だちという関係になれた気がする。なんだか嬉しい。心の奥にしまっていた色あせた思い出が、再び色づくような、そんな感覚を覚える。
先日行われた席替えで、私は奇跡的に幸村くんと隣になることができた。私にとっては嬉しい結果だった。ここで再会してから、幸村くんと仲よくなりたいと思えて仕方がない。昔のように顔を赤くしてもじもじすることはなくなったから、たくさんのことを幸村くんと話したいのだ。

「あのさ、名字さん」
「おーい、幸村くん!」

幸村くんが何か言いかけたとき、廊下から誰かの声が聞こえた。呼ばれてるよ、と言うと幸村くんは少し困ったように、そうだね、と答えた。幸村くんを呼んでいたのは派手な赤い髪をした人だった。その派手な見た目で、少し怖そうだと思ったのは、一瞬だけ。

「どうしたの、ブン太」
「いや、部室にタオル落ちてたから幸村くんのじゃないかなー、って」
「本当だ、確かに俺のだよ。ありがとう」
「どういたしまして!それより、そこにいんのが名字?」
「えっ」

仲のよさそうな2人をなんとなく見ていると、突然赤髪の彼が私の名前を呼んだ。予想していなかった展開に驚く。幸村くんは「いきなりそんなことを言うのは失礼だろう」と、彼をたしなめる。

「俺は丸井ブン太!噂の名字に会えて嬉しいぜ」
「噂……?」
「そうそう、テニス部内で噂になってるんだ。幸村くんが名字のことを楽しそうに話すから」

幸村くんが名字に気があるんじゃないか、って。赤髪の彼は、丸井くんはそう言った。まさか、そんなわけないよ。私が言う前に、幸村くんが「友だちだよ」と、そう言った。やわらかい口調ではあったけれど、言葉のどこかに強い響きがあった。
丸井くんは幸村くんの言葉に少し申し訳なさそうな顔をして、悪い、と言った。そうしてバツの悪そうな顔をしながら教室を出ていったのだった。

「……ごめんね、変な空気にしてしまって」
「ううん、気にしてないよ」
「ありがとう。……ああいう噂が広まると、きみにもよくないと思って」
「そっか。こっちこそ、ありがとう。そんなに私のこと考えてくれて、なんだか嬉しいな」

本心だった。幸村くんはさっきのことを気にしているようだったから、気にしないでと伝えたかった。幸村くんはふわり、と優しく笑って私を見つめる。

「きみとは、ずっと仲よくしていたいんだ。友だちとして、ね。噂が流れて、きみが俺から離れていくのは、どうしても避けたくて」

友だちとして、幸村くんの言葉は私にとっても嬉しいものだった。優しい彼といると心が落ち着いて、あたたかな光に包まれているような心地になる。

「俺はずっと、名字さんと友だちになりたかったんだ。でもきみは急に引っ越してしまって。少し、寂しかったんだよ」
「そう、なんだ」
「うん、だからここでまた会えたときはすごく嬉しくて、思わず小学生のときの気分で声をかけてしまったよ」

思えば、幸村くんは最初の日だけ私を名前ちゃん、と呼んだ。でもその次の日からは名字さん、という呼び方に変わって、あまり意識していなかったけれど、そういうことを考えていてくれてたのかな。幸村くんは女の子からすごく人気があるから、もしも幸村くんがわたしのことを名前ちゃんと呼び続けていたら、私は今ごろいじめられていたのかな。

「ねえ、名字さん。名字さんは俺の友だちでいてくれる?」

穏やかな声。うっかりすればときめいてしまいそうな。それでも私の胸は、さほど高鳴らなかった。もちろんだよ、と頷いて、嬉しそうな幸村くんの笑顔を見て、私も自然と笑顔になれた。
幸村くんと再会したとき、運命かもしれない、と思った。馬鹿みたいだと思うけれど、本気でそう思ってしまったのだ。再会を果たした私たちはやがて惹かれ合い、どちらからともなくつき合おうと言い出して、つき合いはじめる。なんて物語を想像したこともある。
けれど、今やっと気づいた。私は、私も、幸村くんと友だちになりたかったんだ。もしかしたら初恋だと思っていたあのときから、ずっと。幸村くんの穏やかな気性が好きだった、それは恋愛感情ではなく、友情だったのかもしれない。あのときの初恋が勘違いだったとは思いたくないから、あれはあれでいいとして。今の私は間違いなく、幸村くんの友だちになりたいと思っている。

もっと幸村くんを知って、仲よくなって、いつかお互いに恋人ができて、結婚して、子どもができて、私たちを取り巻く環境が大きく変わったって、友だちでいれたら、って。不思議なことに、そう思う。